2011-03-07

必読『ロシアとパレスチナを繋いだ想像力—シオニズムの歴史社会学』

第1回東京大学南原繁記念出版賞受賞論文

 鶴見太郎(日本学術振興会特別研究員)

 『ロシアとパレスチナを繋いだ想像力—シオニズムの歴史社会学』

 受賞した論文は,後日,東京大学出版会から書籍として刊行されます.

【講評】(田中純/東京大学大学院総合文化研究科教授)

 本論文は,1881-82年のポグロムから1917年のロシア革命にいたる帝政末期のロシア・シオニズムを,歴史的・実証的にはきわめて精緻に,理論的には社会学的観点から明快に分析した独創的な研究である.方法の軸として著者は,統計資料などを駆使して示されるロシア・シオニズムの「客観的文脈」に加えて,シオニスト自身の「主観的文脈」に注目し,彼らの思想がいかなる想像力のもとで形成されていたかを明らかにしている.

 本論文ではまず,19世紀後半の多民族国家ロシア帝国におけるユダヤ人の社会的位置や他民族との関係の変化,および初期シオニズムの様相が概観されたのち,ロシア・シオニズムの機関誌が丹念に読み込まれ,シオニストの世界観における「ネーション」概念の重要性が多面的に浮き彫りにされる.そこでとりわけ注目すべき発見は,ロシア・シオニストたちがユダヤ人の本質規定をむしろ忌避していたという事実である.

 著者はこの点を注意深く掘り下げ,指導的シオニストの自伝的小説などの読解を通じ,ロシア・シオニズムの想像力において非ユダヤ人との関係が果たした役割をあぶり出してゆく.著者によれば,シオニストたちはディアスポラのもとで社会的に構築されてきた「ユダヤ人」概念に反発する形で,いまだ意味づけられていない「純粋な社会性」を創り出す場を追求した.そして,このようにして紡ぎ出された「社会」という位相こそ,ロシア・シオニズムがオーストリア・マルクス主義の民族理論を下敷きにしつつ,それを批判することによって模索した,パレスチナにおける多民族秩序の根底をなすものである,と著者は言う.

 これは現代の中東問題にもつながりうる,アクチュアルな意義をもった分析である.本論文は,省みられることの少ない一次資料の発掘に基づき,ロシア語を中心にヘブライ語も含む文献を駆使して展開された,優れたロシア・ユダヤ社会史研究であると同時に,社会学的見地からのネーション論や集団的アイデンティティ論を踏まえた民族問題論でもあるという点で,実証と理論の両面を兼ね備えた,世界的に見てもあまり類例のない劃期的な業績と見なしうる.抑制された端正な文体は非常に明晰であり,巧みに工夫された構成もあって,大変読みやすく説得力のある論述になっている.用語解説を含む付録をはじめとした隅々まで行き届いた配慮が,本論文の完成度をさらに高めている.

 以上の点から,国際的に通用する第一級の学術的成果として,本論文は第1回東京大学南原繁記念出版賞を授賞するにふさわしい内容と評価できる.


【受賞のことば】鶴見太郎

 このたびは,栄えある第1回東京大学南原繁記念出版賞に拙稿を選出いただき,どうもありがとうございました.この受賞はすなわち,出版事情が厳しい中,商業ベースではとても売れそうにない私の研究の成果が,名高い東京大学出版会から世に出されるということでもあり,その点への安堵がまずありました.しかしそれ以上に,人生で初めて賞と名のつくものを,大変に名誉な形で受けることができたことは,存外の喜びであるとともに,他人事だと思っていた賞というものに対して恐縮している次第でもあります.

 私の研究の出発点は,混迷極まるパレスチナ問題の根源を探るというものです.その衝撃の強さから,それに関する歴史の登場人物や思想,事件というものには様々な色付けがなされることが少なくありません.そうした中,私は,それらを等身大で見てみたいと思いました.しかし,等身大で見ようとすればするほど,それらを個体として見ることはできず,それらが様々な社会関係の中に埋め込まれていることが明らかとなります.拙稿は,こうした視点を「社会学的」と銘打って,ロシア帝国と深くかかわっていたユダヤ人の中から,パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を打ち立てようとするシオニズムという考え方がどのようにして生まれたのかを探求したものです.こうして見ることで,初期のシオニストが,パレスチナを目指すという明示的な目標の一方で,ロシア帝国という場をもう一度目指していたことが浮かび上がるとともに,よくあるナショナリズムとして個別的に見ていたのでは奇妙に思えるシオニズムのある特質についても理由があったことがわかりました.

 こうした自らの研究成果に照らし合わせてみますと,私自身が,特定の社会的文脈の中に,しかも相当程度に恵まれた文脈の中に埋め込まれていたことに多いなる感謝の念を抱かないわけにはいきません.このたびの受賞への喜びも,そうした意味で今後の大きな原動力となることは間違いありません.しかしそれだけでは私は調子に乗ってしまいますので,厳しいご批判を頂戴できましたら幸いに存じます.

【受賞者略歴】

[略歴]1982年生まれ.2006年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了.2006-2007年エルサレム・ヘブライ大学ロスバーグ国際校客員研究員.2010年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了.博士(学術).2010年エルサレム・ヘブライ大学人文科学部博士後研究員.現在,日本学術振興会特別研究員PD.[専攻]歴史社会学,ロシア・東欧ユダヤ史