2012-12-15

カフカと安全ヘルメット(都市伝説・・)

心配性だったカフカは、工場現場への視察
    の際に、万一の事故を考えて軍用ヘルメットを着用していたという。経営学者
    ピーター・ドラッカー(1909年 〜 2005年)は、晩年の著書『ネクスト・ソサエティ』(上田
    惇生訳、ダイヤモンド社、2002年5月。原題は、Managing In The Next Society
    )で、世界に普及している安全ヘルメットの発明者は、カフカだと紹介している。
     また、1912年にはアメリカの安全協会からメダルから送られたと記載している。
      (同上書、P98)

     「ところで、フランツ・カフカという名前を知っておられるか? オーストリアの偉大な
    作家だ。実は 安全ヘルメットを発明したのが、そのカフカだった。彼は第1次大戦前に、
    ボヘミアとモラビア(当時オーストリア領、のちにチェコ)で労災補償関係の行政官
    だった。私(ドラッカー)の生家の近くに、クイッパーさんという同じように労災補償の
    権威が住んでいた。医師だったが、カフカを尊敬していた。カフカが咽頭結核で死の
    床にあったときには、五時起きで二時間かけて自転車で往診していた。カフカの死後、
    彼が作家だったことに一番驚いたのがこの人だった。
     たしか1912年に、カフカはアメリカの安全協会からゴールドメダルをもらったはずだ。
    彼の安全ヘルメットのおかげで、チェコ地方の製鉄所の労災死亡者が、初めて
    1000人当たり25人を割った。」

"Kafka got the gold medal of, I think, the
American Safety Congress for 1912 because as a result of his safety helmet,
the steel mills in what is [now] the Czech Republic for the first time
killed fewer than twenty-five workers per thousand a year" (ref: Drucker,
PF: Managing the Next Society, St. Martin's Press, 2002)


     P・F・ドラッカー(1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生
    まれのユダヤ系オーストリア人、経営学者である。彼の父親は、大蔵省の役人を
    務めた後、第一次大戦(1914年〜1918年)頃、銀行の頭取を務めていたという。

     カフカの死亡時、ドラッカーは15歳である。また、カフカがメダルを授与されたとする
    時(1912年)は、カフカが29歳、就職して4年目、ドラッカーが3歳の時である。
     さらに、カフカの死亡時頃の主治医、クイッパーさんは、ドラッカーの父および幼少
    のドラッカーの近隣に住んでいて、カフカの話をドラッカーの父親に話したらしいと
    推測できる。さらに、クイッパーは、カフカの勤務した労災補償関係の権威であり、
    金融関係に勤務したドラッカーの父とともに、広義の金融関係のテクノクラートでも
    あった。また、ドラッカーはカフカと同様ユダヤ系である。

     カフカの自伝等には、上記エピソードは見当たらない。カフカが有能なテクノクラ—ト
    だったとの記載は多いから、その証拠として記載されても良いエピソードではある。
    が、記述は見当たらない。クイッパーは、カフカの死後、彼が作家だったことに驚いた
    と記述されているが、カフカ死亡当時は、著名な作家とは言い得なかったろう。1943年
    の、フランスのノーベル賞作家、アルベール・カミユが、『フランツ・カフカの作品に
    おける希望と不条理』と題するカフカ論を『シシュフォスの神話』の付録として掲載した
    以降に著名な作家となったといえる。

     こんな状況探索だけでは、上記エピソードの事実関係は解明できない。ドラッカーも
    逝去した現在、別途の証拠がなければ、不確かな話題としか言えない。
     脱線ついでに、ドラッカーがカフカを引用した文脈を記して見る。社会的変化の諸相
    の一つに、インターネット世界の爆発的発生がある。新産業の担い手は知的労働者
    である。彼らは、専門的知識教育で育てられる。旧世界の(肉体的)労働者とは
    育ち方や価値観が違う。また、医療産業も同様である。20年後の先進社会において、
    GNPの40%は医療と教育であろう。これらの産業の「知的労働者」の教育と成果評価
    は重要課題である。医療の分野で競争原理の導入が良いとも思えない。
     ところで、抗生物質の発明など医療分野の進歩はめざましい。が、平均寿命の伸び
    にはほとんど寄与していないというのが事実である。統計的には、平均寿命は、労働
    環境の改善によって伸びている、と示されている。100年前は、労働人口の95%が
    肉体労働に従事していた。危険で体力を消耗する労働だった。
      こんな文脈で、カフカの話題が登場する。

     ドラッカーが文学者であれば、カフカのこんな文章を追加して引用したかもしれない。

     「作業は、回避不可能な、絶えることのない危険を知りつつ行われる。最も注意力
    に富む労働者だけは、自分の指の一関節が作業中に機械で加工するものを飛び
    越さないことを知っている。しかし、危険は、この労働者の注意力さえ嘲り笑う。
     スリップして木材が投げ戻されるとき、最も注意力のある労働者の手は刃の間に
    飛び込まざるを得ない」 (論文「事故防止対策」から)

The job involved investigating personal injury to industrial workers,
and assessing compensation. Management professor Peter Drucker credits
Kafka with developing the first civilian hard hat while he was
employed at the Worker's Accident Insurance Institute, but this is not
supported by any document from his employer.


Drucker, Peter. Managing in the Next Society. See: Franz Kafka,
Amtliche Schriften. Eds. K. Hermsdorf & B. Wagner (2004) (Engl.
transl.: The Office Writings. Eds. S. Corngold, J. Greenberg & B.
Wagner. Transl. E. Patton with R. Hein (2008)); cf. H.-G. Koch & K.
Wagenbach (eds.), Kafkas Fabriken (2002).

2012-11-30

東欧からの労働者階級のユダヤ系移民のために書かれた雑誌や新聞

米国のコーネル大学キール労使関係アーカイブセンターと、英国のウォーリック大学近現代史料センターが、イディッシュ語の雑誌や新聞をデジタル化し、クラウドソーシングにより英訳する共同事業を行うとのことです。

デジタル化されるのは、東欧からの労働者階級のユダヤ系移民のために書かれた雑誌や新聞で、1500ページ以上にのぼります。翻訳への協力を希望する人は、プロジェクトのサイトにおいて登録した上で、できる分量を行えばよいとのことです。

Yiddish Goes Digital (with a Little Help from Its Friends)
Crowdsourcing Project Will Create Transatlantic Labor History
Archive(Cornel University 2012/11/27)
http://communications.library.cornell.edu/news/121127/YiddishCrowdsourcing

ウォーリック大学のプロジェクトのサイト
http://transcribe.lib.warwick.ac.uk/yt/index.php/Main_Page

2012-11-14

野村廣之『フランツ・カフカ入門』

フランツ・カフカ入門
野村 廣之
価格 2,300 円 (本体2,190円・税110円)
新書判 134頁 無線綴じ
ISBN9784883618606
2011年03月31日発行

2012-11-06

『カフカ入門 世界文学依存症』

カフカ入門

世界文学依存症
室井 光広著
シリーズ:東海大学文学部叢書
ジャンル1:文学/null
ISBN978-4-486-01768-4 C1398 220頁 A5判
定価2940円(税込) 2007年11月05日

「真正の愛の世界にたどり着く前に、作家はいわば試練としての異性愛をわが身に課した」(本文より)。
カフカの秘められたエロスとは・・・・・・。芥川賞作家によるカフカ文学依存症患者組合へのイニシエーション。

目次
第一部 カフカ入門
 I 千声と一声
 II くるみ割り式
 III 見者カフカ
 IV カフカの書き出し——『変身』の場合
 V カフカの書き結び——『審判』の場合
 VI ちっぽけな問題作——『父の気がかり』考

第二部 世界文学依存症——カフカ入門のための十三参り
 1 旧訳K書と新訳K書
 2 服用と着服
 3 ベンヤミンの着服
 4 極めつきの邪道
 5 花の道行き
 6 依存症患者K
 7 人魚の男
 8 友愛的かつ裏切り的
 9 「あのギリシャの神」と「若い薬草」
 10 サトゥルヌス人
 11 遺言という錬金術
 12 聖セバスチャンの変種
 13 十三参りの終りに

カフカの門前——あとがきに代えて
主要参考文献
フランツ・カフカ略年譜

2012-10-30

グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話——手記と追想』吉田仙太郎訳 三谷研爾解説

 2012年11月1日配本 (1冊)
『カフカとの対話——手記と追想』
グスタフ・ヤノーホ 吉田仙太郎訳 三谷研爾解説
2012年11月1日発行予定

始まりの本
カフカとの対話
[著者] グスタフ・ヤノーホ [訳者] 吉田仙太郎 [解説] 三谷研爾

四六変型判 タテmm×ヨコmm/384頁
定価 3,990円(本体3,800円)
ISBN 978-4-622-08359-7 C1398

——「では、ヘル・ドクトル、真実はわれわれに永遠に閉ざされているとお考えなのですね」
カフカは黙った。彼の眼は非常に細く、暗い影を帯びた。彼の大きく突き出た咽喉仏が、首の皮膚の下で何度か上下するのが見えた。彼はしばらく、事務机の上に支えた両手の指先を見つめていた。やがて彼はしずかに言った。「神、生命、真実——これらは一つの事実の異名にすぎません」
私は執拗につづけた。「われわれにそれを把握することができるのですか」「それを体験するのです」そう言うカフカの声には、かすかな不安がふるえていた。——

始まりの本
現代の古典・新シリーズ

「始まりが存在せんがために人間は創られた」(アウグスティヌス)
「人間はそれ自らが始まりである」(H・アーレント)
「始まりとは〈差異をつくる〉ものだ」(E・サイード)

始まりとは始原(オリジン)。
そこから生い育つさまざまな知識の原型が、
あらかじめ潜在しているひとつの種子である。
新たな問いを発見するために、
いったん始原へ立ち帰って、
これから何度でも読み直したい現代の古典。
未来への知的冒険は、ふたたびここから始まる!
このシリーズの特色

■人文諸科学はじめ、知が錯綜し、新たな展望を示せない不透明な今の時代に、だからこそ〈始まり〉に立ち帰って、未来への指針を与える。
■トレンドからベーシックへ。これだけは押さえておきたい現代の古典。
■すでに定評があり、これからも読みつがれていく既刊書、および今後基本書となっていくであろう新刊書で構成する。
■ハンディな造本、読みやすい新組み、新編集。

2012-10-24

『ディケンズ文学における暴力とその変奏 —生誕二百年記念—』

松岡 光治 編
A5判, xii+288ページ
定価 3,150円(本体 3,000円+税)
ISBN 978-4-271-21016-0


2012年は国民的人気を博したヴィクトリア朝の作家—1812年2月7日(金)に生まれたチャールズ・ディケンズ—の生誕二百年にあたります。
 その記念事業の一環として企画された本書は、ディケンズ・フェロウシップ日本支部の会員15名が、彼の15の長篇小説をそれぞれ担当し、〈暴力〉に焦点を絞って書いた論文のアンソロジーです

 それぞれの章には扉絵と4つの図版が掲載されており、ディケンズ文学だけでなくヴィクトリア朝における暴力問題が様々な角度から論じられています。



目 次

まえがきに代えて——暴力と想像力

序 章 「抑圧された暴力の行方」 (松岡光治)
 第1節 産業革命期とヴィクトリア朝の社会風潮
 第2節 暴力のジェンダー化と二重規範
 第3節 抑圧の移譲と階級問題の解決策
 第4節 ショーヴィニズムによる人種差別

第1章 『ピクウィック・クラブ』 (中和彩子)
 「ピクウィック氏のげんこつ」
 第1節 暴力の抑圧
 第2節 暴力と身分
 第3節 一発のげんこつ
 第4節 もう一発のげんこつ

第2章 『オリヴァー・トゥイスト』 (松岡光治)
 「逃走と追跡——法と正義という名の暴力」
 第1節 孤独からの逃走
 第2節 追跡の快楽
 第3節 恣意的な暴力としての法
 第4節 正義に内在する暴力性

第3章 『ニコラス・ニクルビー』 (西垣佐理)
 「喜劇としての暴力——舞台と社会の間」
 第1節 喜劇およびメロドラマの伝統と暴力場面の意義
 第2節 舞台背景としての社会問題
 第3節 劇的効果を生み出す暴力
 第4節 〈喜劇〉から〈小説〉へ

第4章 『骨董屋』 (猪熊恵子)
 「音の海を逃れて」
 第1節 傷跡に語らせよ
 第2節 クウィルプの声、その暴力
 第3節 食い違う語り手のシルエット
 第4節 「その話はもうやめろよ、チャーリー」

第5章 『バーナビー・ラッジ』 (渡部智也)
 「眠りを殺す」
 第1節 究極の暴力としての断眠
 第2節 眠りが奪われる
 第3節 眠りを取り戻せ
 第4節 暴動はまた起こるのか

第6章 『マーティン・チャズルウィット』 (畑田美緒)
 「声なきものたちの逆襲」
 第1節 権威の喪失
 第2節 老人たちの復権
 第3節 暴力依存と死者の告発
 第4節 新大陸VS旧大陸

第7章 『ドンビー父子』 (松村豊子)
 「疾走する汽車と暴力」
 第1節 決闘の封印
 第2節 虐待の激化
 第3節 家庭内における暴力の規制と抑制
 第4節 線路は続くよ、どこまでも

第8章 『デイヴィッド・コパフィールド』 (川崎明子)
 「海の抑圧——ロビンソン・クルーソー挽歌」
 第1節 暴力をふるう海
 第2節 船に乗るスティアフォース
 第3節 浜に揚がるエミリー、川を嘆くマーサ
 第4節 陸を選ぶデイヴィッド

第9章 『荒涼館』 (中村 隆)
 「国家・警察・刑事・暴力装置」
 第1節 国家という暴力装置
 第2節 無名の警官の暴力
 第3節 警察という暴力装置
 第4節 バケットの暴力

第10章 『ハード・タイムズ』 (玉井史絵)
 「教育の(暴)力」
 第1節 教育と暴力
 第2節 学校教育と徒弟教育
 第3節 「合理的な学校」
 第4節 〈娯楽〉という教育

第11章 『リトル・ドリット』 (武井暁子)
 「内向する暴力——病的自傷者はなぜ生まれるのか」
 第1節 病的自傷の定義
 第2節 自傷の要因
 第3節 ヤマアラシのジレンマ
 第4節 排除/矯正される自傷者

第12章 『二都物語』 (矢次 綾)
 「孤独な群衆の暴力性」
 第1節 未曽有の大事件を記述する
 第2節 ディケンズによるサンキュロティズムの研究
 第3節 群衆が潜在的に保持する暴力性
 第4節 群衆の孤独と暴力性

第13章 『大いなる遺産』  (鵜飼信光)
 「種子=ピップは牢を破って外で花を咲かせるか」
 第1節 穏やかどころではない人々
 第2節 「そんなにも多くの小さな引き出し」
 第3節 取り壊されたサティス・ハウス
 第4節 打つことの暴力と建設、逃げ続ける一人の囚人

第14章 『互いの友』 (宮丸裕二)
 「腕力と知力——欲望と階級」
 第1節 階級と肉体の結びつき
 第2節 暴力と知性に挟まれる中産階級
 第3節 中産階級に残像として映る傷跡に充ちた世界
 第4節 肉体性忌避の現代

第15章 『エドウィン・ドルードの謎』 (加藤 匠)
 「クロイスタラムに潜む闇の暴力」
 第1節 過去の痕跡
 第2節 「別種の恐ろしい奇跡」
 第3節 直観と論理
 第4節 クロイスタラムに落ちる帝国の影

あとがき

使用文献一覧

図版一覧

執筆者一覧

索引

2012-10-19

ハプスブルク帝国の最後の財務相Josef Redlich (1869-1936)遺産

オーストリア国立図書館に寄贈された。

Bemerkenswert sind vor allem die Briefwechsel mit berühmten
Persönlichkeiten wie Hugo von Hofmannsthal, Hermann Bahr, Felix
Salten, Ignaz Seipel, Karl Renner, Richard Coudenhove-Kalergi oder
Alice Schalek.

Als Jurist und Universitätsprofessor korrespondierte er mit
zahlreichen Intellektuellen seiner Zeit. So finden sich im Nachlass –
neben privaten Aufzeichnungen, Fotografien und Materialien zu Redlichs
wissenschaftlichen Arbeiten – äußerst umfangreiche Korrespondenzen mit
herausragenden Persönlichkeiten des literarischen und öffentlichen
Lebens: Hermann Bahr (296 Briefe), Hugo von Hofmannsthal (64 Briefe),
Joseph Maria Baernreither, Edmund Bernatzik, Richard
Coudenhove-Kalergi, Heinrich Friedjung, Michael Hainisch, Thomas G.
Masaryk, Karl Renner, Felix Salten, Alice Schalek, Ignaz Seipel oder
Jakob und Julie Wassermann.

Tagesaktuelle Einblicke in die „Schicksalsjahre Österreichs" 1908 – 1918

Gerade in den Tagebüchern berichtet der österreichische Politiker und
Gelehrte tagesaktuell über die „Schicksalsjahre Österreichs" von 1908
bis 1918 und erlaubt so einen Einblick in das politische und
gesellschaftliche Geschehen des habsburgischen Vielvölkerstaates.
http://www.onb.ac.at/services/presse_21094.htm

2012-10-18

近現代のドイツ系ユダヤ人の各種資料を提供する“DigiBaeck”公開

franzkafkaで検索すると、36件ヒット
Fanta, Berta夫人の日記や、プラハサークルの貴重な資料も多数


2012年10月16日、Internet Archiveは、Leo Baeck
Institute(LBI)とともに開発した"DigiBaeck"を公開しました。"DigiBaeck"は、LBIが所蔵する、16世紀から20世紀の第二次世界大戦までのドイツ系ユダヤ人のアーカイブズ資料や手稿資料、それらの人々が作成した芸術作品、図書、雑誌、写真、オーディオ記録のデジタル化資料を提供するゲートウェイサイトとのことです。

DigiBaeck
http://www.lbi.org/digibaeck/

Launch of the DigiBaeck Project (Ineternet Archive Blog 2012/10/15付けの記事)
http://blog.archive.org/2012/10/15/launch-of-the-digibaeck-project/

2012-10-16

Court orders Kafka scripts moved to Israel library

Court orders Kafka scripts moved to Israel library
October 15, 2012(Mainichi Japan)

JERUSALEM (AP) -- After a long, tangled journey that Franz Kafka could
have written about himself, an unseen treasure of writings by the
surrealist author will be put on display and later online, an Israeli
court ruled in documents released Sunday.

Ownership of the papers had been in dispute after the Israeli National
Library claimed them, over the wishes of two sisters who had inherited
the vast collection of rare documents from their mother and insisted
on keeping them.

Friday's ruling by the Tel Aviv District Family Court ordered the
collection to be transferred to the library in Jerusalem, which had
argued that Max Brod, Kafka's close friend, had bequeathed the
manuscripts to the library in his will.

The two sisters, Eva Hoffe and Ruth Wiesler, had inherited the
documents from their mother, Brod's secretary, and had been storing
them in a Tel Aviv apartment and bank vaults.

Kafka, a Jewish Prague native who wrote in German, is known for his
dark tales of everyman protagonists crushed by mysterious authorities
or twisted by unknown shames. His works have become classics, like
"The Metamorphosis," in which a salesman wakes up transformed into a
giant insect, and "The Trial," where a bank clerk is put through an
excruciating trial without ever being told the charges against him.

The trove is said to include Brod's personal diary and some of Kafka's
writings, including correspondence the two kept with other notable
writers, which could shed new light on one of literature's most
influential figures.

The German Literary Archive was not part of the legal proceedings but
had backed the sisters' claims, hoping to purchase the manuscripts and
arguing that they belong in Germany.

Ulrich Raulff, who heads the archive, said the papers have drawn great
interest because they will likely reveal much about the years in
Kafka's life that the public knows very little about.

"I hope that the Israeli National Library will provide open access to
the material for the public as soon as possible," he said.
"Researchers have been waiting for the material with excitement for
years already."

Kafka gave his writings to Brod shortly before his own death from
tuberculosis in 1924, instructing his friend to burn everything
unread. But Brod instead published most of the material, including the
novels "The Trial," ''The Castle" and "Amerika."

Aviad Stollman, Judaica Collections Curator at the National Library,
said that the majority of the manuscripts are by Brod not Kafka, but
that they contained tremendous research and sentimental value.

"For decades these manuscripts were hidden and now we can display and
preserve them under proper conditions," he told Israel's Channel 2 TV.

"There are 40 thousand pages, a tremendous amount," he added. "Whoever
loves Kafka will be able to see his signature and notes and crossings
outs ... We hope the material will be on the library's website soon."

Despite the ruling, Hoffe will be entitled for royalties from any
future publication of the documents.

Professor Otto Dov Kulka, a self-described Kafkaphile and retired
professor of history at Israel's Hebrew University, supported the
court decision.

"The National library has taken care of Einstein's theory of
relativity, and we will now take care of the great works of Kafka," he
said.

October 15, 2012(Mainichi Japan)

カフカの遺稿、所有権はイスラエル国立図書館に

カフカの遺稿、所有権はイスラエル国立図書館に 未発表作品も

2012年10月15日 15:12 発信地:エルサレム/イスラエル

【10月15日 AFP】現在のチェコ出身の作家フランツ・カフカ(Franz Kafka)が友人マックス・ブロート(Max
Brod)氏に託した遺稿は、イスラエルの国立図書館に寄贈されるべき——。40年以上にわたり個人の手元にあったコレクションをめぐり、イスラエル・テルアビブ(Tel
Aviv)の裁判所がこのような判決を下した。

■プラハからパレスチナ、そしてドイツへ—ユダヤ系作家の遺稿の旅

 オーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ)のプラハ(Prague)に生まれたカフカは1924年、40歳のときに友人のブロート氏に全ての原稿類を預け、自分の死後に焼却するよう指示した。だが、カフカ作品は20世紀で最も影響力のある文学の1つだと考えたブロート氏は、カフカの遺志を無視しドイツ語で出版した。

 1939年にブロート氏は英委任統治下のパレスチナへと逃れる。カフカの未発表作品などを含む同氏のコレクションは、1968年に死去する際に秘書のエステル・ホフェ(Esther
Hoffe)氏が相続し、銀行に保管しつつ一部を売却するなどした。その後、コレクションは2007年にホフェ氏の娘2人の手に渡った。

 現在、遺稿の一部はドイツのマールバッハ(Marbach)にあるドイツ文学史料館(German Library
Archive)が収蔵しており、さらなる遺稿収集に意欲を見せている。

■「ブロート氏が公共機関への譲渡を指示」と認定

 コレクションの所有権をめぐる裁判は2008年に始まった。国立エルサレム・ヘブライ大学(Hebrew University of
Jerusalem)の所有権の主張に対し、ホフェ氏の娘たちは、ブロート氏のコレクションはホフェ氏への贈り物だったと反論していた。

 しかしこのほど裁判所は、ブロート氏がホフェ氏に向かってはっきりと、コレクションの目録を作成し「ヘブライ大学かテルアビブ市立図書館、あるいはイスラエル国内外の公共機関」に譲渡するよう指示していたと認定。「ブロート氏のコレクションなどのカフカの遺稿」をホフェ氏の娘たちへの贈り物とみなすことはできないとして、ヘブライ大の要求通りのコレクションを同大に引き渡すよう命じた。(c)AFP

2012-10-12

「ネズミの驚くべき才能、合唱うたう」

ネズミは歌を覚え、再現することが出来るという発見が最近なされたが、ここに新たなセンセーションが加わった。ネズミは合唱をうたうことまで出来るという。実験を通じて、米国の学者らが明らかにした。

オスのネズミが数匹、メスの個体と一緒にケージの中にいるとき、彼らは歌い出す。各オスはリズムとメロディーを調節し、コーラス・アンサンブルを形成する。報告書に記された。隣の歌い手に合わせて、各個体が音程を調節することも明らかになった。

残念ながら、人間の聴力では、ネズミの「トリル」を完全に聴くことは出来ない。50から100キロヘルツという音域で歌うからだ。人間の耳には一部の音階が聴こえるのみで、「きいきい」鳴っているとしか感じられない。

これまでは、動物界でこうした能力を有しているのは鳥類だけだと考えられていた。

イタル・タス(12.10.2012, 05:14)

2012-10-11

日本独文学会研究叢書087『動物とドイツ文学』

日本独文学会研究叢書087
松村 朋彦編 動物とドイツ文学
Tiere in der deutschen Literatur, hrsg. von Tomohiko MATSUMURA
松村 朋彦 まえがき
松村 朋彦 猿が言葉を話すとき— ホフマン、ハウフ、カフカ —
土屋 京子 動物の認識能力とはなにか
— 18世紀の動物に関する言説とホフマンの猫 —
川島  隆 人間のような犬と、犬のような人間
─ エーブナー=エッシェンバッハからカフカまで —
千田 まや 「犠牲」にみる神と人間と動物─ トーマス・マンを中心に ─

2012-09-15

『カフカとの対話 増補版』[解説] 三谷研爾

著者: グスタフ・ヤノーホ 著 / 吉田仙太郎 訳 / 三谷研爾 解説
出版社: みすず書房
判型: 四六変型判
ISBN: 9784622083597
ジャンル: 文芸書
配送時期: 2012/10/上旬

2012年10月10日発行予定
始まりの本
カフカとの対話【増補版】
[著者] グスタフ・ヤノーホ [訳者] 吉田仙太郎 [解説] 三谷研爾
四六変型判 タテmm×ヨコmm/384頁 定価 3,990円(本体3,800円) ISBN 978-4-622-08359-7 C1398

2012-09-07

『東欧地域研究の現在』

編:柴宜弘 編:木村真 編:奥彩子
出版社:(株) 山川出版社
発売日:2012年09月
ISBN:9784634672260
管理コード:463467226X
カナ:トウオウチイキケンキュウノゲンザイ
シュッパンシャ:ヤマカワシユツパンシヤ
[要旨]
かつてハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下にあった「東欧」という歴史的地域の,冷戦終結後の「今」を,歴史学・政治学・社会学・文学などさまざまな視点から考える。

2012-09-06

カフカ研究の憂鬱 ——高度複製技術時代の文学作品     明星 聖子

A5判変型/上製/276頁
初版年月日:2012/09/21
ISBN:978-4-7664-1971-9
(4-7664-1971-5)
Cコード:C3000
税込価格:3,150円
『貴重書の挿絵とパラテクスト』
松田 隆美 編著


明星 聖子(みょうじょう きよこ)
埼玉大学教養学部教授(ドイツ文学・編集文献学)。東京大学大学院博士課程修了(博士 [文学])。
主要業績:『新しいカフカ——「編集」が変えるテクスト』(慶應義塾大学出版会、2002年)、
『グーテンベルクからグーグルへ——文学テキストのデジタル化と編集文献学』ピーター・シリングスバーク著(共訳書、慶應義塾大学出版会、2009年)。

書物の「仕掛け」を読み解く。
テクストを取り囲む視覚的な要素は、
いかに私たちの読書行為に影響を与えるのか?

挿絵やブックデザインから、古今東西の貴重書を分析する
11篇の論考を収録。
▼書物が「もの」として持つ物理的形態をめぐり、基本的な形状の決定から、表紙のデザイン、ページのレイアウト、前書きや注釈の挿入、挿絵の利用など、様々なパラテクスチュアルな仕掛けは、書物を文化的産物ととらえる書誌学の重要な研究領域であることを提示する。

2012-08-22

Josef Cermak "Living in the shadow of death. Franz Kafka, The Letters of Robert"

言語:チェコ語
タイトル:死の陰に住んでいる。フランツ·カフカ、Robert Klopstockへの手紙
出版地:プラハ
発行者:ヤングキュー
出版年:2012
ページ数:280
著者:Josef Cermak

Jazyk: Čeština

Název: Život ve stínu smrti. Franz Kafka, Dopisy Robertovi

Místo: Praha

Nakladatelství: Mladá fronta

Rok: 2012

Počet stran: 280

Žánr: Korespondence, Literární věda


Vynikající znalec života a díla Franze Kafky Josef Čermák se ve své
nejnovější knize zaměřil na málo známá fakta z posledních let života
Franze Kafky. Představuje nám jeho velkého přítele Roberta Klopstocka,
který jako jeden z mála Kafku nutil, aby věřil klasické medicíně a
nepodceňoval léčení své tuberkulózy experimenty s tzv. alternativní
medicínou – na začátku 20. let 20. století totiž nemocným léčitelé
ordinovali např. ledové sprchy, cvičení v zimě venku bez oblečení a
naboso apod. V knize autor ukazuje i prostřednictvím 70 unikátních
dopisů z Kafkovy korespondence, z nichž některé český čtenář uvidí
poprvé, jaký boj Robert Klopstock vedl i s Kafkovou rodinou a také s
Dorou Diamantovou, kteří spíše podléhali tehdy módnímu trendu tzv.
teosofického léčení.


An expert in the life and work of Franz Kafka's Josef Cermak in his
latest book focuses on little-known facts of the last years of the
life of Franz Kafka.
Presents us with his great friend Robert Klopstock, who was one of the
few Kafka forced to believe conventional medicine and underestimate
their tuberculosis treatment experiments with so-called alternative
medicine - at the beginning of the 20th 20th century is sick healers
prescribed them as icy showers, exercise outside in winter without
clothes and barefoot, etc.

In the book, the author shows through 70 unique letters from Kafka's
letters, some of which Czech reader will see for the first time, which
led the fight Robert Klopstock with Kafka's family and also with Dora
Diamond, who had been subject to more fashion trend called
theosophical(神知学の[に関する]) treatment.

Kafka & Schulz. Masters of the Borderlands in Prague

フランツ・カフカ+ブルーノ・シュルツの対比列伝展。
生涯や生地(プラハとドロホビチ)に関するパネル展示。
シュルツ唯一の現存する油絵の精巧な複製やドロホビチの写真展示、シュルツ作壁画の発見をめぐる映画ダイジェスト版など。

Prague, 10.07.2012 - 19.10.2012

Two leading figures of international Modernism, Central European Jews
and denizens of the lost worlds of Czech-German-Jewish Prague and
Polish-Ukrainian Galicia, Franz Kafka and Bruno Schulz who through
their work created alternate universes

Through paintings, films, texts, the exhibition Kafka & Schulz -
Masters of the Borderlands traces the surprising parallels between the
lives and work of the Prague-born writer Franz Kafka (1883–1924) and
the Polish-Jewish writer and artist Bruno Schulz (1892–1942).

"Kafka's method of creating a parallel, alternative reality is
unprecedented; this dual reality is achieved through a sort of
pseudo-realism," yet at the same time, "the knowledge, insights and
penetrative nature of Kafka's work are not his alone, but part of a
shared heritage of mysticism of all times and nations", Bruno Schulz
wrote in 1936 in an epilogue to the Polish edition of The Trial.

Presented at the Czech Centre Gallery, the exhibition features panels
with original texts by writer and playwright Agneta Pleijel dedicated
to the two places inseparably connected with the writing and
imagination of Franz Kafka and Bruno Schulz, Prague and Drohobych.
Offering an insight into the world of Schulz's dream visions – his
visual and literary fantasies, it a-includes a copy of his sole
surviving oil painting, The Encounter and a short version of Benjamin
Geissler's documentary Finding Pictures which depicts Schulz'
discovery of murals in the Drohobych villa linked to the Gestapo
officer Felix Landau. Drohobych Without Schulz, a series of
photographs by Grand Press Photo winner Kuba Kamiński shows the
current appearance Schulz' native town.

The exhibition was created by the joint effort of three
Stockholm-based institutions: the Stockholm Jewish Museum, the Polish
Institute, and the Czech Centre, and Agneta Pleijel.

Events accompanying the exhibition:

* July 19th, 7.30 pm at Divadlo v Celetné, Celetná 595/17, Praha 1

13th month / Requiem for Bruno Schulz - a pantomime directed by Petr
Boháč inspired by Schulz' works

* September 6th, 5pm at the Polish Institute in Prague

Schulz's work brought to life in a performance of the TrAKTOR theatre
group, as well as a screening of Sanatorium Under The Sign of the
Hourglass, the Czech premiere of a newly-restored print of the famous
film by Wojciech Jerzy Has.

* October 16th, 6.30pm at the Polish Institute in Prague

Screening of Marcin Giżycki's Alfred Schreyer from Drohobycz

Exhibition:

July 10th – August 22nd, 2012 Czech Centre, Prague, Rytířská 31, Prague 1
September 6th – October 19th, 2012 Polish Institute in Prague, Malé
nám. 1, Prague 1

For more information on Bruno Schulz, see the new website brunoschulz.eu
http://brunoschulz.eu/en/

Sources: Polish Institute in Prague press materials

Editor: Marta Jazowska

2012-08-14

カフカが生前に遺した草稿は、友人ら何人もの「エディティング・ワーク」  によって、今日の「カフカ文学」になった。

カフカが生前に遺した草稿は、友人ら何人もの「エディティング・ワーク」
 によって、今日の「カフカ文学」になった。カフカに限ったことではなく、
 あらゆる出版は編集されており、編集なき出版はない。
 しかし、編集の歴史は丁重に無視されるか、ひそかに認証されるかであって、
 その成果は著者の活動の中に折りたたまれてきた。編集はつねにオーサリン
 グの歴史の一部に組みこまれてしまってきたのだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━http://1000ya.isis.ne.jp/sp051
 ★千夜千冊PRESS★ vol.51 2012年8月13日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■千夜千冊PRESSは、編集工学研究所関連サービスをご利用いただいたこと
 があるみなさまにお届けさせていただいております。配信を希望されない方は、
 お手数ですがメール下部にある、配信解除URLをクリックの上、解除手続を
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 みなさん、こんにちは。
 千夜千冊編集部より、千夜千冊PRESS vol.51をお届けします。

 1479夜は、読相篇『人文学と電子編集』、
 副題は「デジタル・アーカイヴの理論と実践」です。
 厖大なテキストが日々電子排出され、
 莫大なビッグデータが企業に蓄積されつづけているのが、
 いま私たちをとりまくデジタル環境であるといえるかもしれません。

 しかし、グーテンベルクの活版印刷術がもたらしたテキストを
 グーグルの電子ネットワーク上に移し変えるだけでは、
 新たな価値が生み出されていくことはないでしょう。
 学知と書籍と欲望と商品とをもっとダイナミックにまたいでいく
 「電子の編集」が待望されはじめています。
 将来のデジタル・アーカイヴはいかに電子編集されていくべきか。
 その提案のいくつかを今夜は紹介します。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ★ 千夜千冊 1479夜(2012年8月7日 更新)読相篇
 ★ 『人文学と電子編集』デジタル・アーカイヴの理論と実践
 ★  ルー・バーナード キャサリン・オキーフ ジョン・アンスワース
   (2008)慶應義塾大学出版会
 ★ http://1000ya.isis.ne.jp/sp051-01
─────────────────────────────────────
 ┏
  印刷時代の編集力を十分に研究しないまま、
  電子時代の編集技術力が新たな脚光を浴びている。
  簡易なウェブブラウザとサーチエンジンによって
  テキストの流動化や意味の液状化が
  全世界的に目に余るようになってきたからだ。
  こうしてデジタル・エディティングによる
  編集文献学やテキスト編集学が登場してきた。
  これはやっと訪れた「編集工学の夜明け」であるが、
  けれども、いまこそは二つのG(グーテンベルク/グーグル)が
  新たなナレッジサイトの構築と
  柔らかいリベラルアーツの発動のために、
  エディット・ラディカルに統合されるべきなのだ。
                               ┛

【当夜案内(千夜千冊編集部より)】

 カフカが生前に遺した草稿は、友人ら何人もの「エディティング・ワーク」
 によって、今日の「カフカ文学」になった。カフカに限ったことではなく、
 あらゆる出版は編集されており、編集なき出版はない。
 しかし、編集の歴史は丁重に無視されるか、ひそかに認証されるかであって、
 その成果は著者の活動の中に折りたたまれてきた。編集はつねにオーサリン
 グの歴史の一部に組みこまれてしまってきたのだった。

 電子時代のいま、オーサリング・データやライティング・コーパスがコンピ
 ュータ・ネットワークと連動するにしたがって、エディティング・ワークの
 重要性が脚光を浴びはじめている。ひとつが編集文献学、もうひとつが編集
 工学である。
 現在のウェブ社会では、スマホやツイッターやフェイスブックなどのソーシ
 ャルメディアやグーグル型のサーチエンジンによる「テキストの分解」が驀
 進し、電子的エディターシップはいっさい省かれている。「パンとサーカス」
 (大衆をよろこばす欲望と娯楽)の介入に蹂躙され、境界のないフラットな
 情報で満たされているのが現状である。

 本来のナレッジサイトの構築や21世紀のリベラルアーツが組み上がってい
 くには、「知のエンジニアリング」と「編集の工学化」が必要とされている。
 では、どのように? それは、今夜の千夜をご覧ください。

   http://1000ya.isis.ne.jp/sp051-01


━TOPICS━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 〜千夜千冊サテライトメディア 「方」会員申し込み受付中〜

  ★★8月の「方」はツナミとレヴィ=ストロース★★

  「千夜千冊が体の奥から入ってくる」「朗読と解説で理解が深まる」と
  多くのユーザーから好評をいただいている、松岡正剛自身による
  千夜千冊読み解き語り「一册一声」。
  8月は『3・11を読む』刊行を記念して、
  初めて番外録から1439夜『ツナミの小形而上学』を収録しました。

  もう一夜は、松岡自身が「こんな奇怪な一冊はない」と語った
  レヴィ=ストロースの古典的名著『悲しき熱帯』をお届けします。
  いったい何が"奇怪"なのか、一册一声の中で解き明かされます。
   今月の表紙:http://1000ya.isis.ne.jp/how/


  ★★バジラ高橋が語る「日本のデスクトップ」とは★★

  古代から現代までをつなぎ、日本文化に潜む編集知をさぐる
  「日本編集文化誌」は、編集工学研究所主任研究員の
  高橋バジラ秀元による深くて軽い「方」限定語り下ろしコンテンツです。

  今夜の千夜と関連する6月号「日本のデスクトップの編集」は、
  アラン・ケイによるコンピュータの誕生と中世の日本の思索空間をつなぎ、
  あるべき「日本のデスクトップ」を考察したものです。必見です。
   方インデックスページ:http://1000ya.isis.ne.jp/how/?page_id=100


  4月創刊号の第一回配信はこちらから無料で視聴、閲覧できます。
   http://1000ya.isis.ne.jp/how/?page_id=316


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┏──────────────────────────┓
  ◎日刊セイゴオ「ひび」◎ 2012年8月9日(木)
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  原爆投下都市長崎の遺構と式典と眩しい夏を見て、
  この六十四年を深々と、しかし切なく振り返る。
  陸奥、フクシマ、ヒロシマ、長崎、沖縄を重ねたい。
 ┗──────────────────────────┛

 8月6日、原爆の日の広島市長の「平和宣言」では、震災と原発事故の被災
 者の姿を「67年前の広島の人々と重なる」と、あらためてフクシマとヒロ
 シマを重ねる言及がありました。

 原爆投下と終戦の8月。
 陸奥、フクシマ、ヒロシマ、長崎、沖縄を想う千夜千冊を紹介します。

 <陸奥を想う>
  1417夜 『北上幻想』森崎和江
  http://1000ya.isis.ne.jp/1417.html

 <フクシマを想う>
  1447夜 『「フクシマ」論』開沼博
  http://1000ya.isis.ne.jp/1447.html

 <ヒロシマ・長崎を想う>
  238夜 『黒い雨』井伏鱒二
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0238.html

  832夜 『国破レテ』村上兵衛
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0832.html

 <沖縄を想う>
  437夜 『沖縄は歌の島』藤田正
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0437.html


 |twitterでも、アカウント「@seigowhibi」にて配信しております。
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2012-08-10

Landolfi, Tommaso作品集『カフカの父親』 (Il babbo di Kafka e altri racconti)

カフカの父親
トンマーゾ・ランドルフィ著 ; 米川良夫, 和田忠彦, 柱本元彦訳
# 単行本: 256ページ
# 出版社: 国書刊行会 (1996/05)
# ISBN-10: 4336035911
# ISBN-13: 978-4336035912
# 発売日: 1996/05
# 商品の寸法: 19.4 x 13.6 x 2.2 cm

奇抜なアイデア、日常生活にぽっかり開いた裂けめを完璧なストーリーテリングで調理する、現代イアリア文学の奇才ランドルフィ、初の作品集。

  * 「マリーア・ジュゼッパ」
* 「手」
  * 「無限大体系対話」
* 「狼男のおはなし」
* 「剣」
* 「泥棒」
* 「カフカの父親」
* 「『通俗歌唱法教本』より」・・・オペラ歌手の歌声の重さや固さ、色、はては匂いや味についての怪論文
* 「ゴーゴリの妻」 Gogol's
Wife・・・文豪ゴーゴリの愛妻は、吹き込まれた空気の量によって自在にその姿を変えるゴム人形だった。グロテスクなユーモア譚
* 「幽霊」 Ombre
* 「マリーア・ジュゼッパのほんとうの話」
* 「ころころ」
* 「キス」
* 「日蝕」
* 「騒ぎ立てる言葉たち」 ・・・ある朝突然口から飛びだしてきた言葉たちが意味の配分をめぐって大論争を繰り広げる、ナンセンスな味わい

http://d.hatena.ne.jp/owl_man/20090217/1234868501

トンマーゾ・ランドルフィ(1908-1979)
イタリアの作家。フィレンツェ大学に学び、同市の文学サークルに参加。逆説、言葉遊び、ナンセンスなどの手法を用いた超現実的な作品を多数発表、20世紀イタリアを代表する短篇作家。賭博狂いなど、数々の奇行でも有名だった。

カルヴィーノやブッツァーティなどもそうだが、イタリアの奇想作家の 「奇妙な味」 は、英米の所謂 「異色作家」
系統のものとは、根本的に何かが違うような気がする。アングロサクソンのストーリー・テリングの伝統にもとづいた語りとは、最初から異なる地面の上に立った、突拍子もない、素っ頓狂なお話が飛び出してくる。ランドルフィはそのなかでも、もっとも
「たがのはずれた」 作家である。このセンスを気に入ってもらえたら、「ゴキブリの海」 (『現代イタリア幻想短篇集』
国書刊行会、所収)もどうぞ。

〈文学の冒険〉シリーズ

英米の人気作家から東欧・ラテンアメリカの未知の傑作まで、
エキサイティングな世界文学の最前線を紹介して
フィクションの新たな可能性を切り拓く
まったく新しい形の世界文学全集。
国書刊行会
四六変型・上製ジャケット装

2012-08-02

明星聖子「境界線の探究 ——カフカの編集と翻訳をめぐって——」

岩波書店『文学』《特集》翻訳の創造力
隔月刊 第13巻・第4号 2012年7,8月号
ISSN 0389-4029 雑誌07709-08
2012年7月25日発行 定価2100円

2012-06-28

『変身』後の姿が、「虫」である理由を探る一助となるかも・・の本

「腹の虫」 の研究
日本の心身観をさぐる
長谷川雅雄/辻本裕成/ペトロ・クネヒト/美濃部重克 著
定価/本体価格 6,930円/6,600円
判型 A5判・上製
ページ数 526頁
刊行年月日 2012年
ISBNコード 978-4-8158-0698-9
Cコード C3047

■書籍の内容

「虫が知らせる」 「虫の居所が悪い」といった表現の根底には、日本特有の 「虫」 観がある。心と身体、想像と現実のはざまに棲み着いた 「虫」
の多面的な姿を、かつての医学思想、文芸作品、民俗風習などを横断的に読み解くことで明らかにし、日本の心身観を浮彫りにしたユニークな研究。

■目次

はじめに

  第�部

第1章 言葉を発する 「虫」 —— 「応声虫」 という奇病
     1 「応声虫」 の事例
     2 創作文芸に見る 「応声虫」
     3 医書の 「応声虫」 論
     4 「応声虫」 とは何か —— 精神医学的検討

第2章 「虫」 の病と 「異虫」
     1 「虫証」
     2 姿を現す 「異虫」 たち
     3 顕微鏡の登場とその波紋
     4 顕微鏡による 「異虫」 の観察

第3章 「諸虫」 と 「五臓思想」
     1 「諸虫」
     2 「五臓思想」
     3 「離魂病」
     4 「五臓」 と 「虫」

第4章 「虫の居所」 —— 「腹の虫」 と 「胸の虫」
     1 「腹の虫」 と 「胸の虫」
     2 「癪」 —— 「腹」 と 「胸」 の病
     3 「癪の虫」
     4 「虫の居所」 としての 「腹」 と 「胸」

第5章 「疳の虫」
     1 文芸作品の 「疳の虫」 とその周辺
     2 医家による見解
     3 「疳」 の病症変遷 —— 「疳」 と 「労」
     4 「疳」 と 「労」 の 「虫」 像

第6章 「疳の虫」 の民間治療
     1 江戸時代の 「疳の虫」 の治療法
     2 「虫封じ」 の民俗誌
     3 現代の 「虫封じ」
     4 「虫封じ」 の社会における意味

  第�部

第7章 「虫」 病前史 —— 「鬼」 から 「虫」 へ
     1 「霊因」 と医の領域
     2 「鬼」 と 「尸」
     3 「伝尸」 と 「伝尸虫」

第8章 「虫」 病の誕生
     1 室町・戦国期の日記と 「虫」 所労
     2 わが国特有の 「虫」 病
     3 「胸虫」 から 「積虫」 へ

第9章 「虫」 観・「虫」 像の解体と近代化
     1 「脳・神経」 学説とその影響
     2 「虫」 の発生思想とその変容
     3 近代医学と 「虫」 病の解体

第10章 教科書と近代文学に見る 「五臓」 用語と 「脳・神経」 表現
     1 初等教育用教科書に見る心身観
     2 近代文学に見る 「脳・神経」 と 「虫」
     3 消え去ることのない 「腹の虫」

おわりに

欧州図書館(The European Library)が開発した新ポータルサイト

欧州各国の国立図書館が参加している欧州図書館(The European Library)が開発した新ポータルサイト公開

このサイトは、主に研究者コミュニティに向けられたもの、
欧州46か国の国立図書館、大学図書館が提供する2億点以上のオンラインリソースにアクセスできる。

The European Library
http://www.theeuropeanlibrary.org/

New Online Discovery Service For Researchers (European Library
2012/6/25付けのプレスリリース)
http://www.theeuropeanlibrary.org/confluence/download/attachments/6979655/TEL_Launch_press+release_final.pdf?version=1&modificationDate=1340619966872

2012-06-19

『ダニエル・デフォーの世界』 塩谷 清人 著

<世界思想社>
『ダニエル・デフォーの世界』 塩谷 清人 著
税込価格 : \4830 (本体 : \4600)
# 単行本: 480ページ
# 出版社: 世界思想社 (2011/12/14)
# ISBN-10: 4790715477
# ISBN-13: 978-4790715474
# 発売日: 2011/12/14
# 商品の寸法: 22 x 16.1 x 4 cm

■目次
はじめに
序 章 デフォーの時代
第一章 幼少期から青年になるまで、王政復古期の状況(一六六〇年から)
第二章 結婚、反乱軍への参加、商売の失敗、著作活動へ(一六七八年から)
第三章 アン女王の治世:政争と宗派対立の波(一七〇二年から)
第四章 政治の世界、変節者か?(一七〇八年から)
第五章 新しい時代、しかし最悪の時期(一七一四年から)
第六章 小説家デフォーの誕生(一七一九年から)
第七章 最後の奮闘、そして死(一七二四年から)
あとがき
◎使用したデフォー関係書/デフォーの作品(原題と訳題)/デフォー関連年表/索引

■富山太佳夫・評 毎日新聞 2012年04月08日 東京朝刊

◇作家の生きた錯綜するイギリス社会

 ダニエル・デフォーについてのこれまでにない素晴らしい本である、と書くと、なんだか怪訝(けげん)な顔をされそうな気がする。あの、『ロビンソン・クルーソー』って小説を書いた人でしょう、というわけで。確かにそれはそうなのだが……これは、あまりにも有名になり過ぎた作品を書き残した作家の悲喜劇ということだろうか。

 ともかくこの本を手にすると、まず最初に彼の肖像画が載っている。これはよく知られたものであるが、それほど立派な身分というわけでもないのに、いかにも一八世紀のイギリスらしい立派なかつらを頭にのせて、それなりにハンサムと言えなくもない。一〇七頁(ページ)までめくると、今度は頭と左右の手首を木の枠にはさまれて晒(さら)し台に立つ男を描いた別の絵に出くわす。勿論(もちろん)そこに描かれているのはデフォー本人の姿である。「この刑では群衆に石や腐ったリンゴ、汚物、卵など危険なものを投げつけられ、ときに不具者に、あるいは最悪の場合殺される恐れがあった」。一七〇三年のロンドンではこんなことも日常的にあったのだ。もっとも、こうした晒し台騒動のことは、日本の読者にも比較的知られているはずである。

この本の斬新さは、実はその先にある。デフォーの拘束された「晒し台の周りを支持者が囲み、花束を投げられ、逆に英雄視された……周りでは彼の著作が売られ、問題の『非国教徒撲滅最短法』まで売られた」。この本にはただこう書いてあるだけではない。著者はこの事件に関係する冊子や詩や手紙を徹底的に調べ上げて、この文章を書いているのだ。少し古い言い方をするならば、実証的な研究と言うことになるのだが、その徹底ぶりとは裏腹に文章は簡潔で、論理はすっきりとしている。デフォーの生きた一七世紀末から一八世紀初めにかけてのイギリスの政治、宗教、経済の錯綜(さくそう)をこれだけ見事にまとめた本はこれまでの日本には存在しなかった。その中に著者はデフォーの膨大な量の著作を埋め込んでいくのである。

 「『レヴュー』は一七〇四年二月から一七一三年六月まで九年間、号数では一五〇〇号をデフォーが一人で書き続けた。当初週一回土曜に出されたからウィークリーで八ページ、値段は二ペンスだった。第七号目……から火曜と土曜の二回出された」。政治、経済は勿論のこと、娯楽のこと、魔女論や霊感の話も。移民問題も。私自身もかつてこの雑誌を手にし、第一号がいきなりフランスの話題から始まっているのに仰天したのを覚えている。

我々はなんとも気安く小説家デフォーと呼んでしまうけれども、『ロビンソン・クルーソー』の出版は一七一九年のことであって、この『レヴュー』の時代の彼はまだ小説家ではないのだ。彼は還暦寸前になってやっと小説家に変身して、今度は小説を書きまくるのだ。いや、小説だけではない。『グレイトブリテン全島周遊記』(一七二四−二六年)というとんでもない旅行記の大作を仕上げてしまうのだ。

 そうか、一七〇四年には『嵐』までまとめていた。この本は、前年にイングランドとウェールズを襲い、八千人超の死者を出したイギリス史上最悪の嵐のルポルタージュであって、その情報収集法の新しさにはただただ驚くしかない。

 そんな一八世紀のデフォーと、一九世紀のディケンズの作り上げたイギリス小説史を前にしながら、塩谷清人氏はこの本を書き上げた。単なる偶然だろうか、今年はディケンズの生誕二〇〇年にあたる。そんな年に、この本を読む幸運。

2012-06-07

『シュンペーター伝—革新による経済発展の預言者の生涯』

■シュンペーター伝—革新による経済発展の預言者の生涯
 一灯舎 トーマス・K.マクロウ著、ThomasK.McCraw原著、八木紀一郎翻訳、田村勝省翻訳 価格:¥3,990

トーマス K. マクロウ 著 著
八木紀一郎 監訳
田村勝省 訳
2010年12月 発行
定価 3,800円
ISBN 978-4-903532-44-8

■目次

第I部 恐るべき子供(一八八三 - 一九二六):革新と経済学
プロローグ シュンペーターとその業績
第一章 故郷を離れる
第二章 性格の形成
第三章 経済学を学ぶ
第四章 徘徊
第五章 出世への歩み
第六章 戦争と政治
第七章 グラン・リフィウート
第八章 アニー
第九章 悲嘆
第II部 成人期(一九二六 - 一九三九):資本主義と社会
プロローグ シュンペーターは何を学んだか?
第十章 知性の新たな目標
第十一章 政策と企業家精神
第十二章 ボン大学とハーバード大学の往来
第十三章 ハーバード大学
第十四章 苦悩と慰め
第III部 賢人(一九三九 - 一九五〇):革新、資本主義、歴史
プロローグ どのように、なぜ歴史と取り組んだのか
第十五章 景気循環、企業史
第十六章 ヨーロッパからの手紙
第十七章 ハーバード大学を去る?
第十八章 不本意ながら
第十九章 エリザベスの勇気ある信念
第二十章 疎外
第二十一章 資本主義・社会主義・民主主義
第二十二章 戦争と困惑
第二十三章 内省
第二十四章 名誉と危機
第二十五章 混合経済に向けて
第二十六章 経済分析の歴史
第二十七章 不確定性の原則
第二十八章 結びの句
エピローグ 遺産
監訳者あとがき
写真出所

索引

■概要

本書はシュンペーターの数少ないが特異な伝記である.狭い意味でのシュンペーターの経済思想を扱うものではなく,波乱に満ちた人生と,様々な分野を統合して資本主義を徹底的に追求し理解しようとするシュンペーターの正にすさまじい生き方を描いている.本書の特徴は,シュンペーターが資本主義の本質を革新(イノベーション)としてとらえ,終生その研究に没頭し多くの大著を著したその過程と,その間に彼を支え続けた女性や同僚達について詳しく書かれていることである.

また,著者はシュンペーター自身だけでなく親しかった人達の日記や手紙,写真等を豊富に引用して,シュンペーターが生きた時代をリアリティをもって詳細に描き出している.著者は,たいへんな知日家だった最後の妻のエリザベスが,アメリカによる対日経済制裁は日本の戦線を拡大すること(真珠湾攻撃)を予告し,そのためFBI
からスパイとしてつけねらわれたことも取り上げている.

シュンペーターの資本主義の捉え方は,戦後の日本の経済発展,今日のアメリカ資本主義の停滞と没落,中国など新興国の発展,そして今後の日本の方向を考える上で役立つだろう.著者のトーマス
K. マクロウは1985年に歴史部門でピューリツアー賞を受賞している.また原著書はヘイグリー経営史最優秀出版賞,ジョセフ・J・シュペングラー経済学史賞,国際シュンペーター学会賞を受賞した好著である.

■トーマス K. マクロウ(THOMAS K. McCRAW)

トーマス K. マクロウはハーバード大学経営学大学院のストラウス記念・企業史名誉教授である.ハーバードビジネススクールで,マクロウ教授は1984-86
年にかけて研究部長を務めた.マクロウ教授は1985 年に Prophets of Regulation: Charles Francis
Adams, Louis D. Brandeis, James M.Landis, Alfred E. Kahn
でピューリッツァー賞(歴史部門)を受賞した.本書ではヘイグリー経営史最優秀出版賞,ジョセフ・J・シュペングラー経済学史賞,国際シュンペーター学会賞を次々に獲得した.また,ライブラリー・ジャーナル
と ストラテジー・+ ビジネスでベストビジネスブックに選ばれた他,ビジネス・ウィークやスペクテイター(ロンドン)で最優秀の本に選ばれている.最近の著書として,
American Business Since 1920: How It Worked (2009) がある.

■監訳者紹介
八木 紀一郎(やぎ きいちろう)

1947 年福岡県生まれ.
東京大学で社会学,名古屋大学大学院で経済学を学ぶ.
岡山大学助教授,京都大学経済学部教授をへて,現職,摂南大学経済学部長.
京都大学名誉教授,VCASI フェロウ.
経済理論学会,経済学史学会,進化経済学会に所属.
著書
『ウィーンの経済思想』(ミネルヴァ書房),『近代日本の社会経済学』(筑摩書房),『社会経済学』(名古屋大学出版会),Austrian and
German Economic Thought: From Subjectivism to Social Evolution
(Routledge).


■訳者紹介
田村 勝省( たむら かつよし)

1949 年生まれ.東京外国語大学および東京都立大学卒業.旧東京銀行で調査部,ロンドン支店, ニューヨーク支店などを経て,現在は関東学園大学教授,翻訳家.

訳書
『アメリカ大恐慌(上下)』(NTT 出版,2008 年)
『大転換 ——帝国から地球共同体へ』(一灯舎,2009 年)
『企業の名声 ——トップ主導の名声管理・回復十二か条』(同,2009 年)
『ウォール街の崩壊の裏で何が起こっていたのか? 』(同,2009 年)
『ニューエコノミーでアメリカが変わる!——幻の富から真の富へ、オバマ大統領への期待』(同,2009 年)
『世界給与・賃金レポート——最低賃金の国際比較 組合等の団体交渉などの効果、経済に与える影響など』(同,2010 年)

■評者 橋本 努 北海道大学大学院准教授

 20世紀を代表する三大経済学者の一人、ジョセフ・A・シュンペーターの決定的な伝記が現れた。

 資本主義の原動力として「創造的破壊」を称揚したシュンペーターは、毎日、自分を厳しく評価していた。日記では0点から1点満点までで、自己の達成度を記録したという。他方で彼は、一流の演技力でもって会話や講演を楽しんだ。財務大臣としての横顔もある。だが財産は市況の暴落で失ってしまった。それでも派手な生活を好み、数々の女性たちに囲まれた。栄光と挫折、愛と孤独という、波乱万丈の人生を送った巨人の実像が、いま鮮やかによみがえる。

 おそらくエコノミストやビジネスパーソンに必要な人生訓は、この一冊に詰まっているのではないか。それほどまでに感銘を受ける。シュンペーター本人、あるいは親しかった人たちが残した日記や手紙から、本書はさまざまな名言を抜粋する。人生を深く洞察するための、言葉の宝庫である。

 シュンペーターは悲劇の英雄であった。43歳にして母と妻とその新生児を同時に失い、絶望の淵に立たされた。「私はこれからの歳月のことを思うと身震いし、私はお前(妻)のいない人生に戦慄する」と彼は記している。「すべてが私の働く能力次第である。そうであれば、仮に私の私生活は終わったとしても、動力源は稼動し続けるだろう」。

新資料に基づいて書かれた本書は、ヘイグリー経営史最優秀出版賞、シュペングラー経済学史賞、国際シュンペーター学会賞、等々の賞を受賞。前作でピュリッツァー賞を授与されたハーバード大学教授の手による、渾身の作である。

 シュンペーターは逆説家であり、皮肉屋ともいわれた。たとえば彼は、創造的破壊の精神を鼓舞する一方で、実際には「保守主義」の立場をとっていた。創造的破壊は、大切な人間的価値を低下させることをよく知っていた。彼は、古きよき旧世界の芸術的達成を維持するために、民衆の革新勢力を抑えるべきだとも考えた。

 そんな保守主義者のシュンペーターが、名著『資本主義・社会主義・民主主義』では、社会主義への移行を必然的であると主張したのは、人を驚かせようとする彼の習癖ゆえだったのであろうか。

 弟子のポール・サミュエルソンは、師の性格に「大切にされてきた一人っ子に典型的」な不安定さを見抜いている。シュンペーターは、疎外された異邦人としての役割を演じていたのだと。だがたんなる道化師と呼ぶにはあまりに巨人すぎる。巨人は完璧な仕事の理念に突き動かされる。その執念に学びたい。

Thomas K. McCraw
米ハーバード大学経営学大学院のストラウス記念・企業史名誉教授。長年、ハーバード・ビジネススクール教授を務めた。本書でヘイグリー経営史最優秀出版賞、国際シュンペーター学会賞ほかを受賞。ピュリッツァー賞(歴史部門)の受賞歴もある。

一灯舎 3990円 609ページ

『自己愛過剰社会』

■自己愛過剰社会
 河出書房新社 ジーン・M・トウェンギ、W・キース・キャンベル著、桃井緑美子翻訳 価格:¥2,940

The Narcissism Epidemic:
Living in the Age of Entitlement

by Jean M. Twenge and W. Keith Campbell

Published in April 2009 by Free Press,
a division of Simon & Schuster, Inc.

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■評 岡田温司(西洋美術史家、京都大学教授)

米個人主義の病に迫る

 OLが出勤中に電車でお化粧、そんなのは序の口。

 最近よく目にするようになったのは、目の前の座席に陣取った高校生らしき男子たちが、カバンから大きな鏡を取り出して長々とヘアスタイルを整えているという光景。人は誰でも自分がかわいい。大なり小なりナルシシストであり、その意味で、名高いギリシア神話の主人公ナルキッソスの末裔(まつえい)である。

 だが、そうした自己愛が近年ますます過熱して、一種の社会的な「流行病」にすらなっているのではないか、本書の著者である2人の心理学者は、アメリカの現状を具体的に分析しながら鋭くその病理をえぐり出してみせる。もちろん他人事ではない。それはわれわれ自身の問題でもある。この傾向をあおっているのは、マスメディアやインターネットなどに氾濫している、スターやセレブ、有名人やいわゆる「勝ち組」たちの華やかなイメージである。それらのイメージはいわば鏡像として機能していて、人はいやがうえにもそこに自分を重ねて見ようとする。いかにしてその鏡像に近づき一体化することができるか、それが、せちがらい社会を生き抜くための有効な戦略として持ち上げられる。いまやコンピューターやテレビの液晶画面が、かつてギリシアの美青年を魅了した水面に取って代わったのだ。

 それにしてもなぜこれほどまで自己愛過剰な社会が出現したのか。著者は、あらゆる局面で打ち消しがたい価値とみなされてきた個人主義に、その最大の原因を見ている。個性の尊重、個人の自由、自尊心、自己表現、自己啓発、自己主張、自己実現、自己宣伝、われわれの耳にもなじみ深いこれらの言い回しは、いずれも個人主義の発想に培われたものだ。が、それは容易に自己中心的な自己愛へと転倒する。とするなら、いまや発想の転換が求められている。子育て、教育、メディア、経済政策等に向けられた彼らの批判的な提言は、「俺さま」時代を生きるわれわれへの警告でもある。桃井緑美子訳。

 ◇Jean M.Twenge=サンディエゴ州立大教授。◇W.Keith Campbell=ジョージア大教授。

 河出書房新社 2800円
(2012年1月10日 読売新聞)
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書評 岡井崇之

「現代の自己愛とは何か」

 本書は、アメリカの心理学者トウェンギとキャンベルによって2009年に出版されたThe Narcissism
Epidemicの邦訳である。直訳すると「ナルシシズムの蔓延」とでもなるのだろうが、訳者は本文で「ナルシシズム流行病」としている。つまり、それらを病理としてとらえているのである。
 日本でも時期を同じくして『現代のエスプリ』522号(ぎょうせい、2010年12月)でナルシシズムが特集されているし、また、2008年の秋葉原通り魔事件以降「他者からの承認」をテーマにした書籍の出版が続いているのは興味深い。

 著者たちにとって、ナルシシズムとは「文化の影響を受けた心のあり方」であり、ナルシシズム流行病は「(アメリカ)文化全体に広がり、ナルシシストも、またあまり自己中心的でない人もその影響を受けている」という(8頁)。
 日本でも、エッセー的なものから藤田省三の『全体主義の時代経験』(みすず書房、1995年)に収められている「ナルシズムからの脱却」(初出は
1983年)のような硬派な論考まで、自己愛的な時代状況を評した文献は多数あるが、著者はアメリカにおけるそういった類書と本書を次のような点で明確に線引きする。それは科学的データに基づくということと、ナルシシズムをめぐる俗説の検証も取り上げていることにおいてである。

 自己愛性パーソナリティの事例として度々紹介されるのは、多重債務、経歴詐称、銃乱射事件、SNSでの自己呈示、パーティー文化、セレブリティなどである。確かにこれほどまでに事例を並べられると説得力がある。だが、それらの一つひとつが、本当にナルシシズムに起因するものなのか、ナルシシズムの症例として非難されるべきものなのかは、評者には疑問が残る。著者は「暴力、物質主義、他者への思いやりの不足、浅薄な価値観など、アメリカ人が自尊心を高めて食い止めようとしていることは、実のところすべてがナルシシズムに起因している」(16頁)とまで断言している。

 評者などは心理学の門外漢ゆえ的を外しているかもしれないが、そもそも人間の本性は自己愛的であり、それが資本主義やメディア文化の進展のなかで担保され、さらには称揚されるようなったということではないかという解釈図式を取ってしまう。たとえば、フェイスブックで自己の経歴をアピールすることで、ビジネスのネットワークを構築することなどを取ってみても、置かれた環境のなかで個々人が行動を最適化するのはある意味、当然ではないかと思うからだ。

 さて、新たな方法論を用いて文化としてのナルシシズムを検証しているだけでも本書は有意義なものだが、それ以外の点では1970年代以降に流行したナルシシズム論と本書との構造的違いが何だろうかというのが、評者が本書を手に取ったときに抱いた興味関心だ。

 藤田がナルシシズムの特徴をいくつか挙げているなかで、「世界はそれ自体として存在する物ではなくて、消費されるためにだけ、そしてそれまでの間一時的に存在している仮の物に過ぎなくなる」(25頁)という論述は、現代でも検討されるべきだと評者は考えている。それは、ナルシシズムがもたらす一つひとつの弊害や、ある犯罪事件との関連というような次元の議論ではなく、ナルシシズムがもたらす世界像の変容を問うものであった。

 本書は1部「自己愛病の診断」、2部「自己愛病の原因」、3部「自己愛病の症状」、4部「自己愛病の予後と治療」で構成され、全17章からなる。それぞれの部で、原因や症状として「物質主義」「見た目への依存」「虚栄心」「低年齢化」などさまざまな例が列挙されているが、そこでの通底奏音として全体を貫いているのは、メディア文化への不信ではないかと評者は読んだ。
 度々「メディア漬け」という言葉が(悪意を込めて)使われることが示唆しているように、著者が1980年代以降の特徴とするのは、1980年代以降の雑誌やテレビでのセレブリティ言説、90年代以降のリアリティTV、2000年のインターネットでのSNSといったメディア文化が自己賛美の価値観を創りだしているとする点だ。

 著者は、ナルシシズムを病理ととらえているため、その治療は可能だと言う。しかし、実のところ著者たちはその治癒について悲観的なのではないかと評者は読んだ。そこでは疾病モデルが有効であるとされるが、その最も効果的な治療法である隔離がこの文化的・メディア的な病理においては意味をなさないからだ。
 ナルシシズムのグローバル化の議論も含め、著者たちの視座は多分に悲観的であり、アメリカ文化の影響力を過大にとらえているという印象もあるが、それは、そのようなことを例証するさまざまな事態をつぶさに見てきた著者たちの危機意識に由来するのだろう。本書からは「ナルシシズム流行病」の最先端を行くアメリカの症例を詳しく知ることができる。

■岡井崇之
(おかいたかゆき)
1974年、京都府生まれ。
上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士後期課程単位取得退学。東洋英和女学院大学国際社会学部専任講師。専門はメディア研究、文化社会学、社会情報学。メディア言説と社会や身体の変容をテーマに研究している。主著に、『レッスル・カルチャー』(風塵社、2010年、編著)、『プロセスが見えるメディア分析入門』(世界思想社、2009年、共編著)、『「男らしさ」の快楽』(勁草書房、2009年、共編著)など。

「今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付

今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著

 ◇『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』
 (みすず書房・3360円)

 ◇『カフカノート』
 (みすず書房・3360円)

 ◇「辺境」に向かう新たな芸術の試み
 中欧から東欧にかけて、旧オーストリア=ハンガリー二重帝国の版図だったあたりは、文明論的関心の対象としておもしろい。作曲家=ピアニスト高橋悠治の本を読むと、彼が音楽的にも言語的にもこの地域に惹(ひ)かれていることがわかる。たとえば彼は書く。「シェーンベルク以来のヨーロッパ風現代音楽の音から手を切りたい、と思っている」と。ウィーンから離れようとしながらプラークのカフカにこだわるのかな?

 というのは、彼は一九六〇年代、カフカの創作ノートをテクストにして作曲しようと努め、このノート『カフカ
夜の時間』を書きつづけた。八七年に上演。八九年に初版出版(晶文社)。みすず書房版の『カフカ
夜の時間』は再演の反省を含めての増補新版。その執着ぶりを見ると、文学者の個性に対する愛着よりも、あの地域の、ヨーロッパの辺境としての条件に興味をいだいているらしい。たとえば彼はカフカの文学の、商業ジャーナリズムを媒介としない前近代的な発表形態、孤独と自由にあこがれる。そしてまた、辺境であるせいでの言語的運命にも。なぜなら、日本こそヨーロッパの辺境の最たるものだから。

 二十世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえ管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。(中略)思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。(中略)

 「もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって」(カフカ「インディアンになる望み」)

 ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。

 シェーンベルク以来の現代音楽に別れようとすると、言葉が必要となり、そこでまたカフカの断章三十六片と出会う。六〇年代の失敗ののち半世紀後にまた試みられて(その台本が「カフカノート」)、今度はもっと即興性が強くなり、全体の統一は軽んじられ、神が細部に宿り過ぎ、ストーリーの方向は茫漠(ぼうばく)としている。それでも「カフカノート」という「演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみ」に参加しなければならない聴衆の負担は増す。わたしは昨年四月、シアターイワトで公演に立会い、感覚の斬新と趣向の妙と豊かなエネルギーに熱中したり、疲れ果てたりした。文学の場合と違い、パーフォーミング・アーツは、テクストを読み返したり、飛ばし読みしたりするわけにゆかない。そういうジョイスやプルーストやカフカの読者の特権はわれわれに与えられていないから、芸術の新しい形態や方向を探求することの当事者となる者、すなわち享受者の責任の取り方はむずかしい。
    −−「今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付。

『トクヴィルの憂鬱  フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』「何者でもない」世代の誕生

税込価格 : 2730円 (本体価格2600円)
ISBN : 978-4-560-08173-0
ジャンル : 思想・歴史
体裁 : 四六判 上製 334頁
刊行年月 : 2011-12


■内容 : 初めて世代が誕生するとともに、青年論が生まれた革命後のフランス。トクヴィルらロマン主義世代に寄り添うことで新しい時代を生きた若者の昂揚と煩悶を浮き彫りにする。

「大革命後のフランスでは、ナポレオンが失脚した後、社会の枠組みは定型化する。そんな閉塞する時代に生まれたのが「青年論」だった。……そして今、若者論が溢れるこの時代、トクヴィルらロマン主義世代の声は、いっそう切実なものとして響いてくるはずである。」(序章より)

■「何者でもない」世代の誕生
 「かれが剣で始めたことを我はペンで成し遂げん」。そう暗い屋根裏部屋でナポレオン像に誓ったバルザック。「シャトーブリアンになりたい。そのほかは無だ」と断言したユゴー。そして、自らのステータスを誇示しようと、競って馬車を疾駆させた無数の若者たち。
 旧体制の桎梏から解き放たれた大革命後のフランスは、誰もが偉大な英雄になろうと思い詰め、その途方もない野心を持て余して悩んだ時代だった。
 一方、ナポレオン失脚とともに閉塞する社会のなかで「立身出世」の途を断たれ、「何者でもない」自分に直面させられた若者たちは、歴史上初めて〈世代〉意識を共有するとともに(青年の誕生!)、巨大なロマン主義運動を展開してゆく。
 『アメリカのデモクラシー』『旧体制と大革命』で知られるアレクシ・ド・トクヴィルもこの時代を生きた一人だ。本書は、これまで「大衆社会の預言者」として聖化されてきたかれをロマン主義運動の坩堝に内在させて理解する試みである。
 憂鬱、結核、そして自殺が社会問題として浮上し、精神医学が産声を上げたこの時代におけるトクヴィルらロマン主義世代の声は、若者論が氾濫する今日、いっそう切実なものとして響いてくるはずである。

 ■[目次]
  序章「世紀病」をめぐって
 � 欲望の解剖──ロマン主義と世代問題
  第一章 立身出世の夢と青年の苦悩
  第二章 アメリカへの旅、自己への旅
  第三章 幻滅──無関心と羨望
 � 絶対の探求──神に代わる人間の宗教
  第四章 「新しい信仰」の噴出
  第五章 預言者の詩想──「汎神論」への地平へ
  第六章 トクヴィル・パラドックス──多数 or 宗教
 � 利益と政治──失われた公衆を求めて
  第七章 中央集権と不確かな名誉
  第八章 ジャーナリズムと「野党」の使命
  第九章 革命と〈自尊〉
  終章 憂鬱の世紀
   あとがき
   参考文献
   人名索引

■�山 裕二(たかやま ゆうじ)*データは刊行時のものです
1979 年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在、早稲田大学政治経済学術院助教。専門は政治学・政治思想史。『社会統合と宗教的なもの
— 十九世紀フランスの経験』(編著、白水社)、ジョン・ロールズ『政治哲学史講義�・�』(共訳、岩波書店)

『ヴィデオ 再帰的メディアの美学』

[著者]イヴォンヌ・シュピールマン
[監訳者]海老根剛
[訳者]柳橋大輔+遠藤浩介
定価=本体 6,000円+税
2011年11月25日/A5判並製/592頁/ISBN978-4-88303-299-0
三元社


■ヴィデオは過渡的なメディアではない。電子信号の変換と即時再生の再帰的構造に立脚する真に視聴覚的なメディアとして、ヴィデオは映画ともコンピューターグラフィックスとも異なる独自の映像美学を実現する。映画映像やコンピューター映像とは異なる構造とダイナミズムを持つヴィデオ映像の宇宙の解明。

■この書物は、ヴィデオというメディアのテクノロジー的基盤と美的表現の多様な展開を透徹した視点から論じた研究として、いまのところ類書のないヴィデオ研究の成果となっています。映像文化論やメディア研究では過去のメディアとしてお払い箱にされている感のあるヴィデオですが、映画映像やコンピューター映像とは明確に異なる独自の特性を持つ映像表現として、ヴィデオは独自の美学を発展させてきました。そうしたヴィデオのポテンシャルの考察は、デジタル/アナログの二元論や映画とコンピューターの二元論に対して批判的な視座を提供してくれます。その意味では、ヴィデオ研究者のみならず、デジタルメディアや映画の研究者にとっても興味深い研究だと言えるでしょう。

■本書で論じられている映像作品へのリンクを集めたウェブサイトも同時に開設しました。このサイトで作品を実際に見ながら本書を読むと、一層、理解が深まると思いますので、こちらもご参照ください。

http://www.korpus.org/video/

■目次
[目次]

      まえがきにかえて 私とヴィデオ(アート)   伊奈新祐   7

序論:視聴覚メディア   13

第一部:テクノロジーそしてメディアとしてのヴィデオ   41
      メディア発展の系譜学的モデル 44  メディアシステムの変動とヴィデオの独自性の美学的分析 49
   メディア論的考察   50
      デジタルとアナログ:既存の理論的アプローチの不十分さ 50  ハイブリッド化の概念 55
      表象/電子映像/合成映像 60  電子的変換とデジタル的シミュレーション 63
      表象/電子映像/コンピューター映像 65  ヴィデオとハイブリッド化 68
   視覚化をめぐる議論   72
      画像的転回 72  エイゼンシュテインの試み 75  フルッサーの技術映像論 76
      図像的転回/シミュレーションとディシミュレーション 80  メディア映像の諸類型 82
      ヴィデオ映像の批判的ポテンシャル 84  視覚文化/電子文化 85
   技術と機器に関わる諸前提   88
      ヴィデオの技術的構造 88  ヴィデオ映像の諸特性 92  ヴィデオとテレビ 94  電子映像とデジタル映像 97
      映画/ヴィデオ/コンピューター 100  ヴィデオとテレビの成立過程 101  ヴィデオの再帰的諸形式 104
   マトリクス映像   107
      不可視的秩序の可視的構造化 107  マトリクスの概念 108
      ヴィデオにおけるマトリクス現象:ウッディ・ヴァスルカの習作 110  ベクトル循環のメカニズム 114
      デジタルなシミュレーション映像 116  デジタル性と映像の隠喩 120
      ヴィデオとコンピューターの結びつき:コード化とプログラミング 123
      ハイブリッド化と反復的二重化:ビョークのミュージッククリップ 124

第二部:再帰的メディア   131
      〈映像技術者〉の仕事 136  実験的ヴィデオ実践の三つの方向性 138
   実験段階   140
      ポータパックの登場 140  ヴィデオ誕生期のいくつかの場面 143  複数の同時並行的発展 147
   ゲリラ・テレヴィジョン   152
   アーティスト・ヴィデオ   155
      ホワイトキューブへの抵抗 155  メディアの境界とその越境 156  マルチメディア的展示 157
      コンセプチュアルなヴィデオ—パフォーマンス 159  女性表象の脱構築 160  公共映像との取り組み 161
      観察・チェックのメディアとしてのヴィデオ 163  空間インスタレーションへの拡張 164
      中継メディアとしてのヴィデオ 166  ヴィデオ使用のその他の諸方法 166  劇映画へのヴィデオの進出 167
      ヴィデオ、映画、アートシーンの緊張関係 168
   補論:映画、ヴィデオ、コンピューターの関係について   170
      ヴィデオと実験映画の非対称的な相互関係 170  実験ヴィデオと実験映画の並行的発展 171
      映画からヴィデオへの越境者たち 172  シャーリー・クラーク 173  エド・エムシュウィラー 175
      ジャド・ヤルカット 177  拡張映画の別の方向性 179  映画とヴィデオへのデジタルテクノロジーの導入 180
      パット・オニール 180  スタン・ヴァンダービーク 182  映画とヴィデオ:同時並行的発展 187
      シンセサイザーとプロセッサー:定義と概説 188
   実験ヴィデオ   195
      ヴィデオ実践の映像技術的な方向性 195  実験ヴィデオで用いられた機器と装置 196
      実験ヴィデオのアプローチとテクノロジーの発展の密接な結びつき 201  写真的思考からの離反 202
      抽象映画と実験ヴィデオの相違点 205  ウッディ・ヴァスルカの Art of Memory 206  ゲイリー・ヒル 209
      ナム・ジュン・パイク 212
   実験ヴィデオの二重のアプローチ 214
   ヴィデオ文化   217
      ヴィデオ実践の三つの方向性 217  キッチン:メディア横断的な実験の場 221
      メディアの誕生の諸段階 222  ヴィデオ文化的実践の端緒:アコンチとオッペンハイム 223
      女性の身体表象の再帰的主題化:ローゼンバッハ、ジョナス、エクスポート、ペッツォルト 224
      テレビ映像への介入:バーンバウム、パイク 224
      写真的—映画的映像への介入:フォム・ブルッフとオーデンバッハ 226
      映像レベルと対象レベルの緊張関係:キャンパス 227
      二次元的摸像と三次元的シミュレーションの対置:中島 227
      ヴィデオによる映像の再メディア化 228  映像性のダイナミズムの強化と圧縮:ギトンとランゴート 231
      ダイナミズムの除去:レヴィーネ 231
      メディア的リアリティの自己反省と閉回路の活用:セラとキースリンク 232
      物語的リニア性とプロセス的視覚性の緊張関係:カエン 233
      異所的なコラージュとしてのヴィデオ映像:カラス 233
      ヴィデオ—スクラッチ:オルティスとアーノルト 234  コンピューターメディアにおけるスクラッチ: Jodi 235
      可視性の限界の探究:ラーチャー 236  ヴィデオ映像の諸性質の意識化:フーヴァー 239
      マトリクス映像における表面と構造の諸関係:ヒル 239
      メディア言語の翻訳と電子的語彙の探究:ヴァスルカ夫妻 240
      メディア的リアリティの多面的考察:ハーシュマン 241  ハイパーメディアへの移行:シーマン 243
      電子的語彙の探究にほとんど寄与しないヴィデオ使用:ビル・ヴィオラの事例 245
      マルチメディアへの拡張:アハティラ、アケルマン、ウェアリング 246

第三部:ヴィデオ美学   251
      スケール、ペース、パターン 253  キャパシティ、速度、操作性 255  技術と美学の対話的関係 256
      プロセス性と変換性 257  視聴覚性、再帰性、複数的な装置的秩序 259
      ヴィデオの間メディア的な確立 259  ノイズからのヴィデオの誕生 261
      視聴覚性(変換性)、再帰性(プロセス性)、抽象化(ノイズ) 263
   機器、自己反省、パフォーマンス:ヴィト・アコンチとデニス・オッペンハイム   264
   映像、摸像、メディア映像:ウルリケ・ローゼンバッハ、ジョーン・ジョナス、ヴァリー・エクスポート   281
   ヴィデオ/ TV :ナム・ジュン・パイクとダラ・バーンバウム   297
   ヴィデオ、写真、映画:クラウス・フォム・ブルッフとピーター・キャンパス   310
   構造ヴィデオ:ミヒャエル・ランゴート、レス・レヴィーネ、ジャン=フランソワ・ギトン、リチャード・セラ、
   ディーター・キースリンク   325
   ヴィデオの音楽化:ロベール・カエン   341
   マルチレイヤー化と圧縮:ピーター・カラス   349
   ヴィデオ・スクラッチ:マーティン・アーノルトとラファエル・モンターニェス・オルティス   357
   ヴィデオ・ヴォイド:デイヴィッド・ラーチャー   365
   ミクロ次元/マクロ次元:ナン・フーヴァー   373
   映像、テクスト、声、書字:ゲイリー・ヒル   380
   ヴィデオとコンピューター:スタイナ・ヴァスルカとウッディ・ヴァスルカ   391
   ヴィデオとヴァーチュアル環境:リン・ハーシュマン   428
   ヴィデオ、詩学、ハイパーメディア:ビル・シーマン   438
   ヴィデオ・インスタレーション:エイヤ=リーサ・アハティラ、シャンタル・アケルマン、ジリアン・ウェアリング   447

展望:複雑性とインタラクティヴ性   457

      訳者あとがき   465
      文献一覧   471
      図版一覧   480
      人名索引   486

『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』

御園生 涼子
ISBN978-4-13-080216-1, 発売日:2012年05月下旬, 判型:A5, 304頁

■内容紹介

文化・資本が国境を越え流動化していった1930年代,映画はいかにグローバル資本主義と結びつき,国民国家を強化したか.『その夜の妻』『非常線の女』から『愛染かつら』まで,松竹メロドラマ作品を詳細に分析し,その物語に潜む政治イデオロギーを抉り出す.

「女性という主体」から映画学・映画批評界に一石を投じている。旧来の「男たち」による小津安二郎神話が解体され、軽視されてきたメロドラマの政治性に目を向けている。

■主要目次

序 章 メロドラマの近代
第1節 国境横断的な文化形式としてのメロドラマ
第2節 女性映画としてのメロドラマ映画——消費文化における女性の主体化/客体化
第3節 「国民国家」の臨界点としてのメロドラマ映画
第1章 サスペンスと越境——小津安二郎の「犯罪メロドラマ映画」
第1節 近代都市の境界——『その夜の妻』
第2節 アメリカン・ギャングスター——『非常線の女』
第2章 港の女たち——清水宏の「堕落した女のメロドラマ」
第1節 国境を漂う女たち——国民国家と帝国建設の狭間で
第2節 「混血」という戦略——『港の日本娘』
第3節 「母性愛メロドラマ」と「無国籍者たち」——『恋も忘れて』
第3章 二つの都市の物語——島津保次郎『家族会議』と「メロドラマ的創造力」
第1節 1936年2月26日——交錯するマス・メディアの網の目
第2節 複数のメディアを越境する
第3節 「レトリックの論理」——三木清のメディア論
第4章 「大衆」を「国民化」するイメージ——野村浩将『愛染かつら』と「母性愛メロドラマ」
第1節 熱狂したのは誰だったのか?
第2節 「大衆」と「国民」の狭間で
第3節 「大衆」のためのメロドラマ——『愛染かつら』の物語構造
第4節 「大衆」の時間、「国民」の時間——「すれ違い」というレトリック
第5節  呼びかける「母」の歌声——「大衆」のイメージから「国民」のイメージへ
終 章 メロドラマ的二元論の彼方へ

■御園生 涼子
MISONOU Ryoko

1997年東京大学文学部英語英米文学科卒業、2002年パリ第八大学造型文化学科DEA課程修了、2006年東京大学大学院総合文化学科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了、博士(学術)(東京大学)

十九世紀後半に誕生した映画という文化形式が、二〇世紀における感覚知覚の変容とメディア文化の拡大を通じて、どのようにグローバルな文化的・政治的地政学の構築に参与していったのかを考えてきました。主に両大戦間期における文化の流動性、無国籍者や異種混淆性といった概念を手掛かりとして、日本、アメリカ、ヨーロッパの映画を中心に研究しています。

■御園生涼子博士論文公開審査

論文題目:「越境する情動:一九三〇年代松竹メロドラマ映画における文化の流動性」

審査員(順不同):松浦寿輝・浦雅春・内野儀・吉本光宏・蓮實重彦

2012-06-06

『狩猟文学マスターピース』

■狩猟文学マスターピース (大人の本棚 )
 みすず書房 服部文祥著、服部文祥編集 価格:¥2,730
四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/288頁
定価 2,730円(本体2,600円)
ISBN 978-4-622-08095-4 C1395
2011年12月8日発行

「獲物を狩る、もしくは獲物として狩られる、という行為は人類史を通してずっと行われてきた。だが、それを言語表現にうまく置き換えている作品はそれほど多くない。……本書と並ぶような狩猟文学の作品群を集めるのは、現時と近未来では不可能だとおもう」(服部文祥「解説」)

サバイバル登山家、そして大の読書家。最近では「狩猟サバイバル」を実践する服部文祥がこよなく愛し、自らの血と骨としてきた国内外の狩猟文学から「マスターピース」の名にふさわしい11作品を厳選。稲見一良、津本陽からデルスー、ナンセン、宮沢賢治まで、分野は小説、エッセイ、ノンフィクションなど多岐にわたる。人とケモノ、人と狩猟をめぐるみずみずしい思想の発露がここに。
「狩猟文学マスターピース」の著訳者:

服部文祥
はっとり・ぶんしょう
登山家。1969年横浜生まれ。94年東京都立大学フランス文学科とワンダーフォーゲル部卒。大学時代からオールラウンドに登山をはじめ、96年カラコルム・K2、冬期の黒部横断から黒部別山や剱岳東面の初登攀など、国内外に複数の登山記録がある。99年から長期山行に装備と食料を極力もち込まず、食料を現地調達するサバイバル登山をはじめ、そのスタイルで南アルプス・大井川〜三峰川、八幡平・葛根田川〜大深沢、白神山地、会津只見、下田川内、日高全山、北アルプス縦断、南アルプス縦断など日本のおもな山域を踏破。それらの記録と半生をまとめた異色の山岳ノンフィクション『サバイバル登山家』が話題を呼ぶ。
フリークライミング、沢登り、山スキー、アルパインクライミングなど登山全般を高いレベルで実践する一方、近年は毛バリ釣り、魚突き、山菜・キノコなど獲物系の野遊びの割合が増え、05年からは狩猟もはじめる。
96 年から山岳雑誌「岳人」編集部に参加。旧姓、村田文祥。著書に『サバイバル登山家』『狩猟サバイバル』(ともにみすず書房)、『百年前の山を旅する』(東京新聞出版局)、『サバイバル!』(ちくま新書)。共著に『森と水の恵み』(みすず書房)、共編著に『日本の登山家が愛したルート50』(東京新聞出版局)がある。妻と三人の子供と横浜在住。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

目次


猟の前夜  マーリオ・リゴーニ・ステルン
鹿の贈りもの  リチャード・ネルソン
「密猟志願」より  稲見一良
新しい旅  星野道夫
クマと陸地  フリッチョフ・ナンセン
『深重の海』より  津本陽
灰色熊(グリズリー)に槍で立ち向かった男たち  シドニー・ハンチントン
デルスー運命の射撃  ウラジミール・アルセーニエフ
又吉物語  坂本直行
イヌキのムグ  辻まこと
なめとこ山の熊  宮沢賢治

解説——一〇頭目の鹿、もしくは狩猟文学の傑作たち  服部文祥
出典

■狩猟文学アンソロジータイトル案
  「狩猟文学アンソロジー」
  「狩猟文学選」
  「狩猟文学名選」
  「狩猟文学傑作選」
  「狩猟文学傑作集」
  「ザ・狩猟文学」
  「狩猟文学の傑作(マスターピース・るび?)」
  「傑作・狩猟文学」
  「狩猟文学マスターピース」(「狩猟文学マスターピースズ」)hunting story masterpieces
masterpieces of hunting literature
  「狩猟文学のマスターピース」
  「狩猟文学ベスト10」

「ネズミ自身に刺激ボタンを押させると、寝食を忘れてボタンを押し続ける。だから装置電源をオフにしなくては餓死してしまう。最高の快楽は命よりも優先されるようだ。」

■快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか
 河出書房新社 デイヴィッド・J・リンデン著、岩坂彰翻訳 価格:¥1,995
 評 池谷裕二(脳研究者、東京大学准教授)


刺激的な「快楽」の探求

 遺伝子を検査してみた。その結果はじめて知った自分の秘密の一つは、ヘロイン依存症になりやすいことだった。まさかそんなことがわかるのかと驚きつつ他の項目に目をやると、アルコールにも依存癖があるが、タバコやコーヒーにはないと出ている。正解だ。

 そんな経緯で本書を手にした。ふざけた書名にも思えるが「快感回路」は脳に実在する神経系だ。ドラッグや嗜好(しこう)品のみならず、美食、セックス、ギャンブル、恋愛、慈善などあらゆる快感にこの神経系が関与すると著者は言う。

 実は私も研究室で快感回路の刺激実験をしている。たとえばネズミ自身に刺激ボタンを押させると、寝食を忘れてボタンを押し続ける。だから装置電源をオフにしなくては餓死してしまう。最高の快楽は命よりも優先されるようだ。「一度このネズミになってみたい」、そう漏らす学生の気持ちも理解できる。

 本書はこの強烈な回路を徹底的に描く。快楽を感じる脳の機序、快楽が備わっている理由、系統発生的な快楽の獲得——動物たちもアルコールを嗜(たしな)み、自慰行為をする。だから、生命の本質たる「快」の探求はヒトを知ることにも通じる。トピックは幅広い。やせ薬、マニア心理、痛みの快楽、オルガスム増強薬、神秘体験。思わず人に話したくなる話題が盛りだくさんで、読むほどに快感回路が刺激される。とくに性愛を扱う第4章は多くが興味を持つだろう。

 くだんの遺伝子は第6章で説明されていた。この辺りから最終章にかけては未来像が語られ、相当に読み応えがある。快楽を制御できれば、薬物中毒ばかりでなく、パチンコ依存症や浮気症、ストーカーの治療さえ可能かもしれない。いや、そればかりではない。小型の刺激装置を脳に埋め込めれば、誰でも至高のひとときが手軽に味わえるだろう。著者は問い掛ける。「快感がありふれたものになったとき、私たちは何を欲するのだろうか」。岩坂彰訳。

 ◇DavidJ.Linden=神経科学者、米ジョンズ・ホプキンス大教授。著書に『つぎはぎだらけの脳と心』。

 河出書房新社 1900円
(2012年2月20日 読売新聞)

最新科学でここまでわかった、快楽と依存の正体
カイカンカイロ
快感回路
なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか
デイヴィッド・J・リンデン 著
岩坂 彰 訳
単行本 46変形 ● 256ページ
ISBN:978-4-309-25261-2 ● Cコード:0040
発売日:2012.01.23

The Compass Of Pleasure

David Linden's New Book That Explores How Our Brains Make Fatty Foods,
Orgasm, Exercise, Marijuana, Generosity, Vodka, Learning, and Gambling
Feel So Good

http://www.compassofpleasure.org/

■目次
Prologue

One-- Mashing the Pleasure Button

Two-- Stoned Again

Three-- Feed Me

Four-- Your Sexy Brain

Five-- Gambling and Other Modern Compulsions

Six-- Virtuous Pleasures (and a Little Pain)

Seven-- The Future of Pleasure

Notes

Acknowledgments

Index

■デイヴィッド・J・リンデン (リンデン,デイヴィッド・J・)
神経科学者。ジョンズ・ホプキンス大学医学部教授。主に細胞レベルでの記憶のメカニズムの研究に取り組むともに、脳神経科学の一般向けの解説にも力を入れている。著書に『つぎはぎだらけの脳と心』。


■岩坂 彰 (イワサカ アキラ)
1958年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。編集者を経て翻訳者に。訳書に、『ロボトミスト』、『心は実験できるか』、『「うつ」と「躁」の教科書』、『うつと不安の認知療法練習帳』、『西洋思想』など多数。

女性像研究2冊『〈悪女〉と〈良女〉の身体表象』『煩悶青年と女学生の文学誌—「西洋」を読み替えて』

神奈川大学人文学研究叢書 29
〈悪女〉と〈良女〉の身体表象
神奈川大学人文学研究所 編者, 笠間 千浪 責任編集
A5判 272ページ 上製
定価:4600+税
ISBN978-4-7872-3336-3 C3036
奥付の初版発行年月:2012年02月/書店発売日:2012年02月18日

「悪女」や「良女」という概念を、『風と共に去りぬ』や『サロメ』などの文学作品や演劇、バウハウスの女性芸術家、モダンガール、戦後日本の街娼表象、現代美術のなかの赤ずきん表象などから検証し、女性身体とその表象をめぐる力学と社会構造を解き明かす。

目次
序文 笠間千浪

第1章 奴隷制擁護の小説とマミーの身体——「反アンクル・トム小説」から『風と共に去りぬ』へ 山口ヨシ子
 1 黒く巨大でアセクシュアルな身体
 2 黒人奴隷の身体描写が示すもの
 3 「反アンクル・トム小説」における乳母の多様な身体
 4 児童向け図書と奴隷体験記における黒人乳母
 5 黒く巨大でアセクシュアルな乳母へ

第2章 踊る女の両義性——ロイ・フラー『サロメ』を中心に 熊谷謙介
 1 倒錯の女か、「新しい女」か?
 2 サロメ/ヨハネの二元論
 3 オスカー・ワイルド、あるいはゲイが「演じる」サロメ
 4 ロイ・フラー、あるいは〈良女〉としてのサロメ?
 5 トランス‐フォーマンスする身体

第3章 マリアンネ・ブラントのフォトモンタージュ——バウハウスにおける〈もう一つの身体〉 小松原由理
 1 『me』、あるいはバウハウスへの挑発?
 2 バウハウスとの出合い
 3 バウハウスのフォトモンタージュ
 4 ブラントによるフォトモンタージュと〈女たちの身体〉
 5 『me』、あるいはバウハウスにおける〈わたしの身体〉

第4章 消費、主婦、モガ——近代的消費文化の誕生と「良い消費者/悪い消費者」の境界について 前島志保
 1 消費者二例——「消費者」としての主婦、モガ
 2 婦人雑誌と消費者の誕生/創造
 3 消費者としてのモダンガール
 4 消費者の分節化——主婦とモガから見えてくる日常的近代性がはらむ問題

第5章 占領期日本の娼婦表象——「ベビサン」と「パンパン」:男性主体を構築する媒体(ルビ:メディア) 笠間千浪
 1 日本占領期研究におけるジェンダー的視点
 2 「占領軍慰安婦」制度と戦後日本のジェンダー秩序
 3 占領改革と「女性解放」——GHQの〈ダブル・スタンダード〉
 4 GI・イン・敗者の国——「現地の女」の形象〈ベビサン〉
 5 〈女の身体(ルビ:パンパン)〉をめぐるポリティクス——「占領期性的ナラティヴ」と「肉体小説」
 6 「敗者」と「勝者」の〈メディア〉としての女性身体/表象

第6章 狼少女の系譜——現代美術における赤ずきんの身体表象 村井まや子
 1 赤ずきんの身体の両義性
 2 赤ずきんの狼化——アンジェラ・カーター
 3 狼少女の系譜——ヤズミナ・ツィニナス
 4 少女・狼・森——鴻池朋子
 5 狼少女の逆襲
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『煩悶青年と女学生の文学誌——「西洋」を読み替えて』

平石典子
発行:新曜社
A5判 360ページ
定価:4,200円+税
ISBN 978-4-7885-1273-3 C1090
在庫あり
奥付の初版発行年月:2012年02月 書店発売日:2012年02月15日
装幀 — 難波園子

◆「新しい男」「新しい女」はいかに誕生したか◆

日露戦争が始まる前年の明治三六年、一東大生が「人生は不可解なり」との遺書を残して華厳の滝から投身自殺をしました。以来、「煩悶」と自殺がブームになり、若者の望みは立身出世から煩悶青年にシフトしたのです。女子の高等教育の必要も叫ばれ、「女学生」も誕生しましたが、そこには「良妻賢母」から「堕落女学生」「宿命の女」など、様々の「女学生神話」が形成されました。森田草平と平塚らいてうの心中未遂事件もありました。本書は、これら「新しい男」「新しい女」のイメージの形成を文学作品のなかに探ったものですが、特に、西洋文学の翻訳を通して、そのイメージがどのように読み替えられていったかをたどります。そこには現在の若者像の萌芽がいたるところに見られます。ユニークな視点からの若者論です。著者は筑波大学准教授。

■目次

はじめに

第一章 明治の「煩悶青年」たち
一 「煩悶青年」とは何か
煩悶の萌芽
「巌頭之感」の衝撃
煩悶の流行と変質
二 文学のなかの煩悶青年たち
ロシア経由の無為 — 文三から欽哉へ
煩悶できる身分
「恋」という煩悶
三 明治末の『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
「煩悶青年」の物語としての『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
自由劇場試演とその反響
鴎外のテクスト

第二章 「女学生」の憂鬱
一 「女学生」というメタファー
開かれた少女たち — 明治の新教育
『薮の鶯』の少女たち
「恋愛」する女学生
二 「恋愛」の波及
『女学雑誌』の役割
「恋愛」の翻訳
翻訳の功罪
三 「女学生神話」の確立
ファンタスムの誕生 —「新聞小説」と女学生
「神話」の確立
「知性」と「堕落」—『魔風恋風』と囲い込まれる女学生

第三章 「堕落女学生」から「宿命の女」へ
一 「堕落女学生」の行方
引き裂かれる頭と身体
「悪女」の可能性
新しい二極化 —『青春』の女たち
二 明治東京の「宿命の女」
翻訳のなかの「宿命の女」 —『みをつくし』とダンヌンツィオ
エキゾティックな強者
クレオパトラと「新式の男 」—『虞美人草』をめぐって

第四章 「新しい男」の探求 — ダンヌンツィオを目指して
一 『煤煙』という出発点
「塩原事件」と『死の勝利』— 明治日本のダンヌンツィオ
「宿命の女」の造形 —『煤煙』の女性像
「新しい男」の出現
二 漱石と・Oの青年像 —「新しい男」とは何か
塩原事件と『三四郎』
漱石の「新しい男」 — 長井代助
『青年』における「新しい男」と女性たち、そしてその後継者
三 「醜い日本人」をめぐって — ダンヌンツィオと高村光太郎を結ぶ糸
ダンヌンツィオのジャポニスム — サクミの登場
ロティの影 —『快楽』のサクミとその翻訳
日本人の手になる「醜い日本人」 — 高村光太郎の「根付の国」

第五章 女たちの物語
一 「令夫人」から「妖婦」へ — 大塚楠緒子の作品をめぐって
「令夫人」からの発信 —『晴小袖』と『露』
ロマンティック・ラブ・イデオロギーの解体と再構築
明治の「パオロとフランチェスカ」ブーム
二 遅れてきた女学生小説 —『あきらめ』の意義
女をめぐる言説
遊歩者としての女学生 — モデルニテの獲得
同性愛的世界
三 女たちの新たなる地平 —『青鞜』に集う物語
『青鞜』創刊号のフィクション —「生血」と「陽神の戯れ」
フラッパーとブッチ
「真の恋」の希求

おわりに
 注
 あとがき
 事項索引
 人名・著作・雑誌索引


■煩悶青年と女学生の文学誌 はじめに

 本書は、明治中期から後期において、日本の文学のなかで新しい若者像がどのように形成されたのか、ということを明らかにしようとするものである。明治の日本は、突然世界史のなかに組み込まれ、十九世紀の進歩史観に基づいて、「近代文明」への階段を登り始めた。そのなかで、「近代文明」の在り処である「西洋」の文学が若者たちにどのような影響を与え、彼らの自己像および他者像の形成に関わったのか、ということに焦点を当て、比較文学的なアプローチでの究明を試みる。

 明治文学における西洋文学の影響と受容、という問題は、日本の比較文学研究が長年取り組んできたテーマであり、既に多くの成果が存在している。本書では、そうした先行研究を参考にしながらも、西洋文学を、日本の知識人たちがどのように読み替えたのか、という差異の部分に着目する。文学作品の「翻訳」—
translationの語源は trans = 横切る +la│tus =もたらされる、でまさに「移動」を意味するもの(1)だが —
におけるテクストの差異や異同を考察することによって、明治の日本文学における若者表象の特色が、より鮮明になるのではないかと考えるからである。「基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれない」と多和田葉子は語っている(2)が、翻訳者がテクストに必ず自分と、翻訳が読まれる世界での価値観や効果を反映させるものであることは、ボルヘスが『千夜一夜物語』の翻訳史を追った「『千夜一夜』の翻訳者たち(3)」にも明らかだろう。とすれば、差異や異同に着目することによって、当時の西洋文学の読者(そして翻訳者、紹介者)であった明治の知識人たちが「何を見たかったのか」ということが明らかになるのではないだろうか。また、翻訳だけではなく、その伝播の様相からも、若者表象の特徴が見えてくるのではないか。西洋の文学にあらわれた特徴的な人物類型が、時には読み替えられ、ねじれながら、日本のテクストのなかで広がっていく過程を追うことによって、明治後期の若者表象の特色を考察したい。その手法からも、本書は一つの作品や特定の作家を深く分析するものではなく、広く同時代の文脈のなかで西洋文学と日本文学との関わりを考察することになる。

 一方、明治の若者を論じたものとしては、E・H・キンモンス『立身出世の社会史』(広田照幸ほか訳、玉川大学出版部、一九九五年)、木村直恵『「青年」の誕生
— 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、一九九八年)などがある。また、明治の女学生に関する研究は、本田和子『女学生の系譜 —
彩色される明治』(青土社、一九九〇年)以降、文学や社会学など、さまざまなアプローチから進んできたといえる。本書は、木村が論証した、慷慨から内省、未熟へと移ってゆく青年の自画像のその後として「煩悶青年」と文学との関わりを考察するとともに、そうした青年たちの「新しい男」としての自己像と、それに伴う文学的想像力が、他者としての「女学生」像を形成してゆくさまを検証する。そして、当時の女学生たち自身も、このようなイメージから自由でなかったこと、むしろ彼女たちに貼り付けられたイメージを逆手にとる形で明治末期の「新しい女」たちの文学運動を盛り上げていったことを明らかにする。このような視点からの研究が、現代の若者・女性論にも寄与するところがあればと願う。

 考察手法は基本的には文学テクストの分析であるが、翻訳をも含めたフィクションを分析するにあたっては、同時代のテクストのなかに作品を置きなおし、その意味を考察することを心がけた。明治の知識人たちが触れたであろう外国語のテクストに関しては、できる限り原典を参照したが、イプセンの作品やロシア文学など、著者の能力を超えるものに関しては、現代の日本語訳に拠っていることを記しておかなくてはならない。また、本書で扱う「若者像」は、「煩悶青年」と「女学生」という言葉に象徴されるように、あくまでも当時の文学に最も積極的に関わった階層である、高等教育を受けた知識階級の若者たち(4)を指すものであることも、断わっておく必要があるだろう。

 以下、各章の概要を述べる。

 第一章は、「立身出世」を追い求めるべきものとされていた知識階級の青年たちが、そうした価値観に背を向けて、自己の内面へと向かう様子を「煩悶青年」という呼称を軸に追ってみた。天下国家を論じることをやめ、恋愛などの身の回りの問題を重視するようになる若者たちの姿からは、彼らが「西洋」の文学にあらわれた青年像をモデルにすることで、自己像の正当化を図ろうとする姿が見える。また、イプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』をめぐっては、作品の本来の姿からは離れる形で、親の世代の価値観に背を向けて生を謳歌する若者の物語としてこの作品が日本で受容される様相が明らかになる。

 一方、第二章で扱うのは、「新しい」青年たちがパートナーとして選び取ろうとした、「新しい」女性たち、当時の「女学生」である。ここでは、女学生たちがどのように自己を表現したか、という点よりは、女学生たちが客体としてどのように表象されたのか、ということが中心になる。新時代の女性として、西洋的な教養を身につけることを期待された女学生たちは、日本社会のなかでは、最初から物議を醸す存在だった。三宅(田辺)花圃が描き出す、社会に貢献したいという女学生の願いは、顧みられることがない。一方で、西洋風の男女交際や恋愛を説くことによって女学生を「啓蒙」しようとする『女学雑誌』の戦略は、精神性を称揚し、肉体性を排除するという、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの日本的な受容の広まりとともに、青年男女に刷り込まれていく。しかしながら、生身の人間の関係である「恋愛」を、理念だけで語ることはできない。女学生たちは性的スキャンダルに巻き込まれることにもなる。その結果、メディアと文学を中心とした言説は、「女学生神話」を作り出し、女学生たちを囲い込んでいくのである。

 続く第三章では、女学生をめぐる否定的な言説が、ヨーロッパ世紀末文学の影響を受けながら、新しい女性表象を形成していくことを論じる。「女学生神話」の波及とともに、女学生たちの知性と身体は相反するものとして描かれ、結局彼女たちは身体的(性的)な存在として、その知性をE奪されてきた。しかし、そのなかで、性的な側面ばかりが強調される彼女たちの表象は、自らの性的魅力を利用して男性を誘惑する、悪女としての自覚を持つ女性像をも生み出していく。一方、煩悶青年のパートナーとして、都会的で西洋的な女性をヒロインに据えようとする文学的想像力は、ヨーロッパ世紀末文学のなかの「宿命の女」像にも魅力を感じるようになっていく。

 第四章では、男性の価値観の変容の様子を、イタリアの詩人・作家であるガブリエーレ・ダンヌンツィオの作品との接触を軸にして考察する。森田草平と平塚明子が一九〇八年に起こした心中未遂事件と、その事件をもとに森田が創作した小説『煤煙』は、世紀末文学としての特色を備えたダンヌンツィオの小説に多くを負ったものとして、当時の知識人たちの興味をひいたものだった。ダンヌンツィオの作品と『煤煙』を対照することによって、『煤煙』に描かれる男女が、当時の日本文学のなかでどのような新しさを備えていたのかを明らかにする。そして、この新しい男性表象が、夏目漱石と森・Oをも刺激し、彼らが彼らなりの「新しい男」像を創造したことを考察する。また、ダンヌンツィオの『快楽』に登場する日本人の描写をてがかりに、この日本人描写がどのような過程を経て生まれたのか、そしてこのような日本人の描写が日本でも採用された例として、高村光太郎の詩を見てみたい。

 最後の第五章では、これまで論じてきたような女性表象に囲まれながら、実際の女性作家たちが、どのような発信をしたのか、という点について考察する。その際、注目するのは、大塚楠緒子、田村俊子と、初期の『青鞜』に寄せられたフィクションである。大塚楠緒子は、女学生の「その後」の物語を数多く描いた作家だが、西洋の文学や文化に関する知識も作品のなかに取り入れながら、女性の側から見たロマンティック・ラブのあり方などを模索している。田村俊子は、『あきらめ』という作品において、遊歩者(fl穎euse)としての女学生と、同性愛的な世界を描くことによって、女学生が単に視線を注がれるだけの存在ではないことを示す。この作品において描かれるのは、主体的な存在であろうとする女学生なのである。大塚も、田村も、男性たちの紡いだ女性表象をも取り入れ、それを自分なりに解釈して新しい女性表象を試みている。最後に分析するのは、一九一一年に創刊となった『青鞜』に寄せられたフィクションであるが、初期の『青鞜』のフィクションからは、大塚や田村の作品をうけて、さまざまな方向で女性の主体性を主張しようとする女性たちの意気込みを感じることができるだろう。

 なお、本書において使用される「西洋」という言葉は、当時「近代文明」のありかとされていた、西ヨーロッパおよび北アメリカの、白人社会のことを指すものである。その場合、明治期と同様、ヨーロッパ中心主義的コノテーションが含まれているものとする。

『評伝ゲルツェン』

■評伝ゲルツェン
 成文社 長縄光男著 価格:¥7,140
 評 佐藤優(作家、元外務省主任分析官)

■「露魂洋才」の知識人

 19世紀ロシアの知識人ゲルツェンに関する見事な評伝だ。後進国であるロシアの知識人は、「西欧のそれとは異なり、基本的には『国策』にそって人為的に作り出された階層であった」。しかし、知識人の多くは、国策に合致しない革命家となり、亡命を余儀なくされた。ゲルツェンもその一人だ。

 ロシア思想史でゲルツェンは西欧派の代表者と見なされるが、決して外国かぶれではない。ロシアの近代化は、西欧の矛盾を克服し、社会主義革命によって実現されると考えた。社会主義によって人間の自由と幸福が実質的に保障されると信じたのである。同時にゲルツェンは、マルクス主義的な社会主義の危険性を察知していた。そのことが、初期マルクスの思想形成に大きな影響をあたえたヘスとゲルツェンの論争で浮き彫りになる。この点について著者の以下の評価が興味深い。

「早い話、ソ連邦が『社会主義(共産主義)』社会の建設に失敗した今日、『今やプロレタリアートの時代だ』『プロレタリアートの革命に拠(よ)ってヨーロッパは再生するのだ』というヘスの議論は空(むな)しいものに見えるのに反して、『民主主義』や『自由』という近代思想の普遍的成果と思われる理念自体、それが『大義名分』と化したときは、『個人の尊厳性』にとって抑圧者、敵対者でしかありえず、そこに政治史的視点からする『進歩』は何の意味も持たないというゲルツェンの批判は、むしろ今日ただ今の議論として聞いても、それほど違和感はないだろう」

 評者も長縄氏の評価に同意する。西欧近代文明も社会主義もゲルツェンにとっては外皮にすぎない。反体制的言語を用いながらゲルツェンはロシアとロシア人を心底愛し、後進国ロシアの生き残りを真剣に考えて行動した。「露魂洋才」の知識人なのだ。

 「内面の変革を抜きにした外面的変革」では、真の改革はできないというゲルツェンの指摘は、21世紀の日本においても有効だ。日本の復興には、内側から日本人を変革する思想に命を懸ける知識人が必要だ。(成文社・7140円)

 評・佐藤優(作家、元外務省主任分析官)
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ISBN978-4-915730-88-7 C0023
A5判上製 本文縦2段組560頁
定価7140円(本体6800円+税)
2012.01

トム・ストッパードの長編戯曲「コースト・オブ・ユートピア──ユートピアの岸へ」の主人公、アレクサンドル・ゲルツェンの本邦初の本格的評伝。十九世紀半ばという世界史の転換期に、「人間の自由と尊厳」の旗印を高々と掲げ、ロシアとヨーロッパを駆け抜けたロシア最大の知識人の壮絶な生涯を鮮烈に描く。生誕二〇〇年記念出版。

# 目次

 はしがき
 プロローグ

第一部 一八一二年─一八四〇年
 第一章 父のこと、母のこと
 第二章 目覚め
 第三章 学生時代
 第四章 逮捕
 第五章 流刑 ペルミ
 第六章 流刑 ヴャトカ
 第七章 流刑 ウラジーミル

第二部 一八四〇年─一八四七年
 第一章 転々(モスクワ─ペテルブルグ─ノヴゴロド、一八四〇─一八四二)
 第二章 モスクワ帰還
 第三章 ゲルツェンのいないモスクワで(一)──一般的風潮──
 第四章 ゲルツェンのいないモスクワで(二)──チャアダーエフとカトリック的西欧主義──
 第五章 ゲルツェンのいないモスクワで(三)──イヴァン・キレーエフスキーとスラヴ主義の成立──
 第六章 ゲルツェンのいないモスクワで(四)──スタンケーヴィチ、ベリンスキー、バクーニン──
 第七章 新しい地平 『学問におけるディレッタンチズム』(一)
 第八章 新しい地平 『学問におけるディレッタンチズム』(二)
 第九章『自然研究書簡』──「近代的知」の系譜を訪ねて──
 第十章 小説 『誰の罪か?』、『どろぼうかささぎ』、『クルーポフ博士』
 第十一章 西欧派の分岐、そして出国

第三部 一八四七年─一八五二年
 第一章 一八四七年 パリ
 第二章 嵐の前 イタリア(一八四七年十月─一八四八年四月)
 第三章 嵐の中 二月革命
 第四章 嵐の後 向こう岸からの思想
 第五章「ロシア社会主義」論
 第六章「お金」のはなし
 第七章「家庭の悲劇の物語」

第四部 一八五二年─一八七〇年
 第一章 自由ロシア出版所
 第二章『北極星』
 第三章『ロシアからの声』──「ロシアのリベラル」の登場──
 第四章『コロコル(鐘)』──「大改革」への発言──
 第五章 vs チチェーリン
 第六章 父と子──vs チェルヌイシェフスキー&ドブロリューボフ──
 第七章 上げ潮──「解放」のあとさき──
 第八章 引き潮──「ポーランド問題」──
 第九章 最後の闘い

 エピローグ
 あとがき

 関連文献抄録
 ゲルツェン略年譜
 事項索引
 人名索引

# 著者紹介

長縄光男(ながなわ・みつお)
一九四一年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。 現在、横浜国立大学名誉教授。
著書に『ニコライ堂の人びと──近代日本史のなかのロシア正教会』(現代企画室)、『ニコライ堂遺聞』(成文社)、編著に『異郷に生きる』、『異郷に生きるII』、『遥かなり、わが故郷──異郷に生きるIII』、『異郷に生きるIV』、『異郷に生きるV』(いずれも成文社)。訳書にリハチョーフ『文化のエコロジー──ロシア文化論ノート』(群像社)。共訳書にゲルツェン『過去と思索』全3巻(筑摩書房、日本翻訳出版文化賞受賞、木村彰一賞受賞)、『ロシア革命批判論文集』(1・2)(現代企画室)など。

『The Beauty Bias The Injustice of Appearance in Life and Law』

亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ
キレイならいいのか ビューティ・バイアス THE BEAUTY BIAS
Kirei nara ii no ka
デボラ・L・ロード:著, 栗原 泉:訳
シリーズ・叢書「亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ」の本一覧
発行:亜紀書房
四六判 288ページ 上製
定価:2,300円+税
ISBN 978-4-7505-1203-7 C0036
奥付の初版発行年月:2012年02月
書店発売日:2012年02月24日

The Beauty Bias
The Injustice of Appearance in Life and Law
Deborah L. Rhode

■「容姿による差別」はいかに起こるのか。
「容姿による差別」を問題にすると「ほかにもっと大きな問題
があるのになぜそんなことを」と言われてしまう。しかし、そ
の小さなことに年400 億ドル(ダイエット)、180 億ドル(化
粧品)が費やされ、就職差別があり、生涯賃金まで変わってく
る。
スタンフォード大学法科大学院アーネストW.マクファーラン
ドの冠教授で、法曹論理でもっとも多く引用される研究者デボ
ラ・L・ロード(Deborah L. Rhode) が、この問題を歴史的文化
的背景から掘り起し、医療業界やメディアの功罪を暴き、法的
保護の作用までを徹底的に分析・検証する。

Features

* Covers a perennially hot topic--the social power of beauty and
appearance in American culture--in a unique way and empirically
demonstrates its pernicious effects
* First book to explain how our legal system fails to address this
destructive bias
* Will appeal to anyone interested in how appearance norms
reinforce gender inequality
* Author is a major scholar of social injustice in American life


■目次
第一章●些末なことが大事なこと——女たちが支払っている代償
第二章●容姿の重要性と、ひとをマネる代償
第三章●美の追求は割に合う?
第四章●際限のない批判合戦
第五章●外見で人を判断するな——不当な差別
第六章●新しく作るか、あるものを使うか——法の枠組み
第七章●改革に向けての戦略

Table of Contents
Preface

1. Introduction
The Personal Becomes Political: The Trouble With Shoes
The Costs and Consequences of Appearance
Surveying the Foundations: Social, Biological, Economic,
Technological, and Media Forces
Feminist Challenges and Responses
Appearance Discrimination: Social Wrongs and Legal Rights
Legal Frameworks
A Roadmap for Reform

2. The Importance of Appearance and the Costs of Conformity
Definitions of Attractiveness and Forms of Discrimination
Interpersonal Relationships and Economic Opportunities
Self- Esteem, Stigma, and Quality of Life
Gender Differences
The Price of Upkeep: Time and Money
Health Risks
Bias

3. The Pursuit of Beauty
Sociobiological Foundations
Cultural Values, Status, and Identity
Market Forces
Technology
The Media
Advertising
The Culture of Beauty

4. Critics and Their Critics
Nineteenth and Early Twentieth Century Critics
The Contemporary Women's Movement
Critics
Responses
Personal Interests and Political Commitments
Beyond the Impasse

5. The Injustice of Discrimination
Ensuring Equal Opportunity: Challenging Stigma and Stereotypes
Challenging Subordination Based on Class, Race, Ethnicity, Gender,
Disability, and Sexual Orientation
Protecting Self-Expression: Personal Liberty and Cultural Identity
The Rationale for Discrimination and Resistance to Prohibitions
The Parallel of Sex Harassment
The Contributions of Law

6. Legal Frameworks
The Limitations of Prevailing Legal Frameworks
Prohibitions on Appearance Discrimination
A Comparative Approach: European Responses to Appearance Discrimination
The Contributions and Limitations of Legal Prohibitions on Appearance
Discrimination
Consumer Protection: Prohibitions on False and Fraudulent Marketing Practices
Directions for Reform

7. Strategies for Change
Defining the Goal
Individuals
Business and the Media
Law and Policy

2012-06-01

『「窓」の思想史: 日本とヨーロッパの建築表象論』

「窓」の思想史: 日本とヨーロッパの建築表象論 (筑摩選書)
著者:浜本 隆志.
出版:筑摩書房
価格:1,680円(税込み)
# 単行本: 270ページ
# 出版社: 筑摩書房 (2011/10/12)
# 言語 日本語
# ISBN-10: 4480015299
# ISBN-13: 978-4480015297
# 発売日: 2011/10/12
# 商品の寸法: 18.8 x 13.4 x 2 cm

■目次

第1章 ヨーロッパ—発信型文化と垂直志向
第2章 日本—受信型文化と水平志向
第3章 永遠性と一回性—窓ガラスと障子
第4章 ヨーロッパの閉鎖性と日本の開放性
第5章 窓辺の風景
第6章 窓の風俗史
第7章 政治支配のシンボルとしての建築
第8章 窓と欲望の資本主義
第9章 垂直志向から水平志向へ
第10章 窓のメタモルフォーゼ

■書評
(早稲田大学教授 原克)

[日本経済新聞朝刊2011年12月4日付]
窓から世界を見る。とはいっても、窓外の風景を愛(め)でよう、というのではない。窓そのものをモノとして眺め、モノとしての窓に織りこまれた世界観を、あぶりだそうというのである。本書の目指すところはこれだ。

 これは建築史の本ではない。窓を理系の目ではなく、文系の目で分析するのだ。建築学の知見はふまえる。だが、あたかも古文書を鑑定するかのように、窓を鑑定するのである。著者にとり、「窓」は古文書なのだ。

 窓の鑑定士の目には、さまざまな思想的風景が映る。

 大聖堂の高窓からは「中世キリスト教的世界観」、貴族の王宮の窓からは「近代の絶対主義」、ヒトラーの「聖なる巨大なモニュメント」からは「ファシズムの権力構造」。さらには、9月11日、崩壊した「世界貿易センタービル」の高層ガラス建築の「巨大な窓」からは、「普遍的な南北問題」などなど。窓から見える「風景」はさまざまだ。

 キリスト教にせよ、全体主義にせよ、南北問題にせよ、いずれも、かつて歴史学が歴史を語るときに援用した「大いなる物語(グラン・レシ)」たちだ。本書は、窓という小さな建築的できごとから、こうした大きな思想的できごとを遠望している。

 しかし、それだけではない。

 鑑定士の目には、さまざまな小さな物語も映る。窓をめぐり繰りひろげられてきた、文化的できごとたち。たとえば、窓辺で交わされる男女の秘め事。これも鑑定士は見逃さない。

 窓の中には「女性」がおり、「女性を狙う男性」は窓外から窺(うかが)う。基本構造はこれだ。「ギリシア神話」にはじまり、「中世騎士道精神」や「『ロミオとジュリエット』」を経て、アムステルダムの「飾り窓の女」にいたるまで。「窓の風俗史」が、硬軟おりまぜて追求されてゆく。そして、そこから、時代の思潮や社会の欲望が遠望される。

 鑑定士のまなざしは二重性でできている。一方で大いなる物語、他方で散漫な物語の断片。双方ともに、確実に視野に入れ鑑定してみせる。そこにこそ、本書の醍醐味がある。

■週刊東洋経済の書評
窓にとどまらぬ建築文化史という広がりの中で、日本と欧米の比較文化が論じられる。水平と垂直が全編のキーワードとなり、押す文化としての開き戸の欧米と、引く文化としての引き戸の日本という決定的な違いが発信型と受信型の文化の差につながっている。

 垂直方向へ延びる欧米の建物は権威とヒエラルキーの所産であり、低層で水平に延びる日本の古い建物とは好対照を成す。西欧の窓はガラスの進歩で役割を大きく変え、日本では障子を閉じれば半透明、開ければ開放感あふれる独特の世界を生んだ。西欧の窓における光は明と暗、二項対立であるのに対し、日本ではグラデーションとなって国民性を規定しているという。

 「窓辺の風景」「窓の風俗史」「窓と欲望の資本主義」など興味深い章が続くが、窓のみならず建築と政治、建築と思想のかかわりが展開されて大いに楽しめる。建物を見る目に加えて文明の行方を考えるよい手掛かりが得られるだろう。(純)

『文学とテクノロジー  疎外されたヴィジョン』

ワイリー・サイファー著
野島 秀勝 訳
税込価格 : 5880円 (本体価格5600円)
ISBN : 978-4-560-08301-7
体裁 : 四六判 上製 380頁
刊行年月 : 2012-06
内容 : 非人間的な近代産業に反逆し、逃避したはずの十九世紀芸術家たちが、テクノロジーに毒されていたことを喝破。「方法の制覇」「視覚の支配」などを批判した文化史の傑作。待望の復刊!
高山宏解説

■目次
Conquest by Method
3

Two Cultures
10

Limited Initiative
20

The Logic of Purity
28

Romantics and Aesthetes
36

Craft as Bricolage
47

The Rigors of Method
53

The Privations of Art
63

The Visual
74

Mimesis and Methexis
86

Visual World and Visual Field
102

Color and Geometry
112

『都市を生きぬくための狡知—— タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』

# 単行本: 400ページ
# 出版社: 世界思想社 (2011/3/1)
# ISBN-10: 4790715132
# ISBN-13: 978-4790715139
# 発売日: 2011/3/1

自らマチンガとなり、タンザニアの路上で、嘘や騙しを含む熾烈な駆け引きを展開しながら古着を売り歩き、500人以上の常連客をもった著者。ストリートで培われる狡知に着目して、彼らのアナーキーな仲間関係や商売のしくみを解き明かす。

■目次
はじめに

序論
 序章 マチンガと都市を生きぬくための狡知
 第一章 ムワンザ市の古着商人と調査方法
 第二章 マチンガの商世界 — 流動性・多様性・匿名性

●第I部 騙しあい助けあう狡知 — マチンガの商慣行を支える実践論理と共同性
 第三章 都市を航海する — 商慣行を支える実践論理と共同性
 第四章 ウジャンジャ — 都市を生きぬくための狡知
 第五章 仲間のあいだで稼ぐ — 狡知に対する信頼と親密性の操作

●第II部 活路をひらく狡知 — マチンガの商慣行と共同性の歴史的変容
 第六章 「ネズミの道」から「連携の道」へ — 古着流通の歴史とマチンガの誕生
 第七章 商慣行の変化にみる自律性と対等性

●第III部 空間を織りなす狡知 — 路上空間をめぐるマチンガの実践
 第八章 弾圧と暴動 — 市場へ移動する条件
 第九章 「あいだ」で生きる — 路上という舞

結論
終章 ウジャンジャ・エコノミー


あとがき
参照文献
索引

■小川 さやか (おがわ さやか)
1978年生まれ。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、現在、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員。
論文 「タンザニアにおける古着輸入規制とアジア製衣料品の流入急増による流通変革」(『アフリカに吹く中国の嵐、アジアの旋風』(アジア経済研究所)所収)


■第33回(2011年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞 川本 三郎(評論家)評

マチンガ、ウジャンジャ、マリ・カウリ。何やら不思議な言葉が頻出する。
はじめは腰が引けるのだが、読み進むうちにまたたくまに引き込まれる。アフリカの厳しい現実を描き出しているのに、にぎやかな祭りの場にいるような錯覚にとらわれる。
 研究書だが、巷の熱気にあふれ、ノンフィクションを読んでいるような面白さがある。書斎や研究室から元気良くアフリカの町に飛び出していった若い学者の生きのいい行動力には感服する。
 小川さんは、タンザニアのムワンザ市という都市(アフリカ最大の湖、ビクトリア湖の南東岸)に行き、町の経済を底辺で支える路上の商人たちを調査する。
 マチンガとはその路上で商売をする零細商人のこと。ウジャンジャとは彼らが品物を売るために駆使する手練手管、知恵のこと。マリ・カウリとはマチンガのあいだで行なわれている商習慣である、口約束による取引のこと。いずれもスワヒリ語という。
 調査と書いたが、小川さんは高いところからマチンガの実態を観察するわけではない。自分もまた一人のマチンガとなって彼らのなかに深く入り込む。対象となるマチンガは古着を売り歩く商人だが、小川さん自身もその仲間入りをする。
 炎天下を、また雨のなかを両手に数十枚もの古着を抱えて売り歩く。五ヶ月を過ぎる頃には500人以上の常連客を持つようになる。何百人ものマチンガと親しくなり、客を巧みに騙す術も教えられる。
 学者のフィールドワークではあるが、同時にジャーナリストのルポルタージュにもなっている。臨場感にあふれている。小柄な小川さんは彼らから見ると少女にしか思えない。それで可愛がられたのだろう。マチンガになって路上で商売をする。どこか『放浪記』の林芙美子の活力を思わせる。
 マチンガはきちんとした店を持たない。屋台すらない。路上に古着を並べたり、自分で古着を持って売り歩く。わが「男はつらいよ」の渥美清演じるテキヤの寅さんのよう。
 正規の商人ではないからしばしば警察の取締りの対象になる。それを巧みにかわす。「逃散、猫かぶり」「即興的な連携、素晴らしい演技力、変装、変幻自在な話術」。彼らはいわばトリックスターでもある。
 マチンガにとって商売とは客との駆け引きであり、ときに騙し合いでもある。そこでウジャンジャという知恵が必要になる。金のない人間が都市の底辺で生きのびてゆくためにはウジャンジャしか武器はない。そしてそれはストリートで体験しながら覚えてゆくしかない。その意味でも「都市の路上は闘争のアリーナだ」という言葉が面白い。
 アフリカの諸都市には戦いながら生きているこうしたマチンガが数多くいて、それが経済を支えているという。目を開かせてくれる。
 日本から来た小さな女性がマチンガになる。小川さんは当然、町の超有名人になり、「調査地に空気のように溶け込む透明人間」という古典的な人類学の鉄則を捨てざるを得なかったという。愉快。楽しんで書いている喜びが伝わる。

2012-05-31

『象徴としての女性像 ─ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』

# 定価:5,145円(税込)
# Cコード:0071
# 整理番号:
# 刊行日: 2000/05/09
# 判型:A5判
# ページ数:528
# ISBN:4-480-87321-X
# JANコード:9784480873217

■目次

第1章 女神の没落
第2章 禍いをもたらす女
第3章 ルクレティア—ファロス(男根)の帝国
第4章 紡ぐ女—アテナとアラクネ
第5章 女英雄ユーディットの変容

■内容
家庭内では出産・育児を引きうけ、また劣等であるがゆえ社会から遠ざけられ、さらに、男をたぶらかす悪者とされてきた、物言わぬ「女」たち。彼女らがどのようにとらえられ、表象されてきたか—その波瀾万丈な変遷を丹念にたどる新しい美術史。

国家の象徴、男を滅ぼす悪者……男は女をどう描いてきたのか。美術史上の女性像の成立と受容をたどり、その波瀾万丈な変遷を跡づける画期的ジェンダー美術論。

■書評
増え続けるイメージの中で

深瀬有希子
(慶應義塾大学・院)

 駅の売店はさながら女たちの小さな美術館だ。雑誌の表紙を飾る女たちが所狭しと並んでいる。ブランドの鎧で身をかため、いざ出陣のキャリア風の女たち。冬の最中にビキニを着ている、たわわな乳房の女たち。あったかモヘヤのセーターに守られて、誰の帰りを待つの癒し系の女たち。しかし彼女たちは何を表わしているのだろう。

 かつて街にある彫像を調査し、なぜ公共空間に女性ヌードが置かれているのかと問うた、フェミニスト美術史家・若桑みどりの『象徴としての女性像』は、私たちに再び『絵画を読む』ことを教えてくれる。本書は20年前に著者自身が「陥った過ち」を見直すべく執筆された。著者は『寓意と象徴の女性像』において、西洋には、例えば「真理」という、「高貴な尊厳にみちた上位
の観念を象徴する女性像がある」ことに「始終高揚」していた。けれどもその女性像は、現実社会において女性が高い位
置を占めていることを示してはいなかった。だとしたらなぜ、それらのイメージが女性にあてがわれたのか。著者は伝統的な図像解釈学に、フェミニズム、ニュー・ヒストリシズム、ポスト・コロニアリズムといった現代批評理論を導入しつつ、その問いの答えを、イシス、デメテル、パンドラ、エバ、マリア、リリト、ルクレティア、アテナ、アラクネ、ユーディットといった女性たちに求めていく。

 紀元前7000年から現代に及ぶ西洋美術や文学の中に描かれた女性像の変遷を辿る本書は、全5章にわたる大作だ。途中私たちは、扱われる時代や土地に隔たりを感じ、ともすると「ここに分析された女性イメージは決して過去のものではない」という序論における著者の言葉を忘れかけてしまう。しかし、他の章と構成をわずかに異にする第3章「ルクレティア--ファロス(男根)の帝国」において現実に引き戻される。なぜならその第1節において、覚えも新しい「沖縄における少女レイプ事件をめぐる規範的言説」が論じられるからだ。著者は、被害者が「少女」ゆえに表面
化したこのレイプ事件は、沖縄における米軍基地縮小要求という政治的議論を展開するための単なる「きっかけ」になり下がり、性暴力があるのは基地があるからだという代表的見解は、「基地をなくし、戦争をなくしても、力による他者(女性)の抑圧と支配の集団心理とその構造が温存される限り断じてレイプはなくならない」ということを隠蔽していると主張する。そのあとで、およそ2500年以上昔の「歴史上もっとも有名な強姦事件」の被害者である一女性を著者は描く。

 彼女の名はルクレティア。夜遅く帰宅した夫コラティヌスは、王子タルクィヌス・セクストゥスを連れてきた。ルクレティアは嫌な顔一つせずタルクィヌスを歓迎する。皆が寝静まったその時、タルクィヌスはこのできた女ルクレティアの床に忍び寄り剣をもって結婚を迫る。ルクレティアは拒んだにもかかわらず・・・。翌朝ルクレティアは父と夫に昨夜の事件をすべて語り、その復讐を願いつつ自らの胸を刺して息絶える。ルクレティアの父、夫、そして彼らの友人たちはこの事件を「きっかけ」に集結し王一族を追放する。ルクレティアの物語は、王子タルクィヌスとの間の真相をめぐって多くの芸術家や批評家の想像力を喚起した。

 そしてここに一枚の絵がもたらされる。それはすでに死して横たわるルクレティアの傍らで、男たちが手をとりあって王家打倒の誓いをしている場面
を描く。あるいはまたもう一枚の絵においては、前作では服を着ていたルクレティアは、ビーナスにも似た裸の姿で、長い布をもってその顔を隠している。ルクレティアは何も語らない。これらのルクレティアに対して著者がなすことは、彼女自身が何を語ろうとしていたかを安易に読みとったり、彼女に代わって「ノー」と叫ぶことではない。そうではなく、描かれた彼女を通
じて男たちが何を語ろうとしていたかを探ることである。

 先の絵において、自ら死を選び、服を着たままの姿のルクレティアは貞淑とモラルの遵守を表わす。そしてこの貞淑なるルクレティアが画面
の隅に追いやられ、男たちの復讐と共和国建国の誓いの姿が中心に置かれることによって、男女間の性的な事件は政治的事件にすり変えられた。また二つ目の絵においてルクレティアは、なぜ顔を隠しているのかと不審がられ、隠しているのは思いがけず感じてしまった快楽の笑みだろう、と解釈されたのだった。しかし一体なぜ、恐怖と屈辱のせいではないのだろうか。かくして家父長的解釈史の文脈において、貞淑な妻ルクレティア像は欲望と堕落の表象に変化し「永遠にレイプされる」。

 このように、ひたすら一方的に意味を与えられ描かれるだけの女たちを見て苦しくなり、私は半ば救いを求めるようにして読み進めていく。著者はその期待を決して裏切らない。彼女は17世紀初頭の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ
(1597-1652頃)によって描かれ、フェミニスト美術史家メアリ・ガラードをして「史上初の反男性中心主義的ルクレティア図像」と言わせしめた、一作品をとりあげる。ジェンティレスキのルクレティアが、500頁におよぶ本書の中で一頁まるまる使って最も大きく取り上げられたこと自体に、読者は著者が語ろうとしている何かを読み取らなくてはいけないだろう。そのルクレティアは、剣を持っているが決して自らの肉体を突き刺すことはしない。彼女は「受動的な美徳の実践者でもなく、悲劇的なあきらめのヒロインでもなく、自分の運命を自分で選択するために苦悶」する女性であり、「彼女が抵抗するものは、強姦者のみではなく、彼女のまわりのすべての男性に対してである」。

 全章を通じて著者の主張は一貫している。エバがアダムの骨から創られたように、アテナがユピテルの頭から生まれたように、女性=シンボルは男性によって作られた。そしてそれがいかに家父長制度を男女両性に内面
化するために生産され続けたかを、著者は豊富な図版と膨大な先行研究をふまえながら巧妙に暴き出す。それは、家父長制という壮大なタペストリーを、タペストリーの中に編み込まれてきたまさにその対象であるところの女たち、ひいてはそれを作り上げてきた男たちの目に明らかにし、男女双方がともに抱える「内面
の呪縛」を解放するための一つの芸術的作業である。

 しかし私たちは、家父長制のタペストリーに描かれた女たちが「決して過去のものではない」というこの芸術家=著者の言葉を忘れてはいけない。キャリア風の女にせよ、ビキニ姿の女にせよ、癒し系の女にせよ、探し求めている本当の自分もまた一つのイメージだとしたら、一体私たちはイメージを越えることができるのだろうか。あるいは私たちは、増殖し反復されるイメージの只中をこれからも彷徨い続けなければならないのだろうか。渋谷ではかつていた「ヤマンバ」は消え去り、今は「アマゾネス」が出現しているという。長いしなやかな肢体を持ちかつグラマラスな彼女たちは、パンツ・スタイルで街を闊歩し時には大型バイクを乗りこなす。しかし、自らの生き方を意思的に選ぶ彼女たちが「アマゾネス」と呼ばれた瞬間、そこに私は、ギリシャの神殿に彫られた「ヘラクレス」によって退治される「アマゾネス」を思い起こさずにはいられない。
■ 若桑 みどり

ワカクワ ミドリ

1935-2007年。東京芸術大学美術学部芸術学専攻科卒業。1961-63年、イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。専門は西洋美術史、表象文化論、ジェンダー文化論。千葉大学名誉教授。『全集
美術のなかの裸婦寓意と象徴の女性像』を中心とした業績でサントリー学芸賞、『薔薇のイコノロジー』で芸術選奨文部大臣賞、イタリア共和国カヴァリエレ賞、天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ』で大佛次郎賞。著書に『戦争がつくる女性像』『イメージを読む』『絵画を読む』『象徴としての女性像』『お姫様とジェンダー』『聖母像の到来』など多数。

■「猫に鰹節」……追悼若桑みどり
上野千鶴子
(うえの・ちづこ 東京大学教授 社会学)

 若桑みどりさんがいなくなった。今でも信じられない。亡くなった、というより、いなくなった、というのが実感に近い。
 なにしろ格調高い美術史学界のひとだから、わたしとは無縁だと思っていた。そのひとが『戦争がつくる女性像——第二
次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、一九九五年、ちくま学芸文庫収録)で、急速にジェンダー史に接近してきたのは九〇年代半ば以降。あとがきには、「戦争中に生まれ、子供時代に疎開と空襲を体験した」とある。若桑さんご自身の、「これだけは言っておきたい」という焦迫の思いがあふれている。
 八五年にはすでに『女性画家列伝』(岩波新書)を刊行しておられたが、九〇年代以降には、「慰安婦」や「教科書」問題にも積極的に発言し、千野香織さんたち若手とイメージ&ジェンダー研究会をつくるなど、積極的に「ジェンダー研究」の推進役を買って出られた。美術史の現状に対するふんまんやるかたない思いばかりでなく、九〇年代以降の右よりの思潮によほど危機感をつのらせておられたのであろう。その千野さんも四十九歳で早逝した。
 学問界隈では「ジェンダー研究者」を名のってよいことは何もない。業界内の周辺部に追いやられるだけである。とりわけ、美学や芸術学の分野に「ジェンダー」などの、俗世間の変数を持ちこむことはタブー。美の価値は、時代も世代も性別も超える、と考えられているからだ。若桑さんは、その頃すでにエスタブリッシュメントだったが、腹をくくってジェンダー研究を引き受けられたのだと推察する。
 若桑さんには『岩波近代日本の美術2
隠された視線——浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店、一九九七年)という日本近代美術史をジェンダー視点から読み解いた名著があるが、その一節が忘れがたい。なぜ近代美術はあくことなく、女のハダカばかり描いてきたか、という問いを立てて、彼女はこうきっぱり答えたのだ。
「鰹節の像を膨大に生産・消費する文明の、生産・消費の主体は猫である。」(同書、一六頁)
「猫に鰹節」のたとえどおり、「女のハダカ」を欲望する者はだれか?
男に決まっている。男支配の家父長制社会だからこそ、女のハダカが「美」として尊重されるのだ、と。この一節を講演で紹介するときには、いつも笑いをこらえられない。こんな卓抜なたとえは、彼女以外のだれも思いつかないだろう。
 わたしが若桑さんと急接近することになったのは、バックラッシュのおかげである。二〇〇六年一月に、国分寺事件として知られる、東京都が上野を講師とする人権講座に介入して、東京都と国分寺市共催予定だった講座がとりやめに至った事件(翌年、国分寺市主催で実施)が発覚。それというのも、女性学研究者である上野が、講演で「『ジェンダーフリー』という言葉を使うかも」という、言論統制、思想信条の自由をおびやかすような理由からだった。ただちに抗議行動を起こしたわたしを支援して、ネット上で三日間で一八〇八筆の抗議署名が集まった。若桑さんたちが代表して、東京都へ署名を届けたその記者会見の場で、彼女は「どうしてこんなアクションを起こしたのか」と新聞記者に訊かれて、「上野さんを孤立させてはならないと思ったから」と答えたのだ。その抗議行動の成果は、彼女も編者のひとりとなった『「ジェンダー」の危機を超える!
徹底討論! バックラッシュ』(青弓社、二〇〇六年)となって刊行されている。
 時と所はタカ派政治家、石原慎太郎政権下の東京都。そののちネオコン政治家の安倍晋三が内閣首班になって、ジェンダー関係者の危機感はつよまった。二〇〇七年の四月には、石原暗黒都政がこれ以上続くのだけはまっぴらごめん、と若桑さんとわたしは、選挙カーに乗ってマイクをにぎった。彼女は自分で寸劇のシナリオを書き、扮装して「都庁の虎退治」を路上で演じた。選挙で走り回る仲間のためにさりげなくペットボトルの冷たいのみものを、袋一杯用意する心遣いのあるひとだった。
 熱血で純情で、義侠心に富んだひとだった。味方につければ百万倍の力になるひとだったのに……そのひとをとつぜん失った。その穴を埋めるものは、ない。

S.クラカウアー『サラリーマン ワイマル共和国の黄昏』

りぶらりあ選書
サラリーマン ワイマル共和国の黄昏
S.クラカウアー:著, 神崎 巌:訳
発行:法政大学出版局
四六判 184ページ 上製
定価:1,700円+税
ISBN 978-4-588-02075-9 (4-588-02075-7) C1336
奥付の初版発行年月:1979年03月
原題
Siegfried Kracauer, Die Angestellten.
Aus dem Neuesten Deutschland. Frankfurt a. M.: Frankfurter
Societätsdruckerei 1930. 148 S.

1929年——ワイマル共和国末期のベルリンで,社会の底辺にあえぐ350万サラリーマン集団の動態を,徹底した現地取材により解明し,その位相を浮彫りにする。

2012-05-29

「ピアニスト、作家、あるいはカフカ」 高橋悠治と保坂和志の対談記事

『文学界』
2012年2月号 / 1月7日発売 / 定価950円(本体905円)


対談
ピアニスト、作家、あるいはカフカ   高橋悠治  保坂和志
カフカに魅せられたふたりが、自らの書きかた、作りかた、そしてカフカを語りあう——

『カール・ポランニー 市場社会・民主主義・人間の自由』

若森みどり 著
発売日:2011.11.11
定価:4,200円
サイズ:A5判
ISBNコード:978-4-7571-2285-7

市場社会の破壊的な性格を論じた古典『大転換』の著者・カール・ポランニーの思想の全体像に迫る。最新の国際的な研究動向、ポランニー政治経済研究所の未公表資料を駆使した、俊英による本格論考。

カール・ポランニー(英: Karl Polanyi、ハンガリー語:
Polányi,Károly(ポラーニ・カーロイ)、1886年10月21日 - 1964年4月23日)は、ウィーン出身の経済学者。

■目次
序 章 ポランニーへのアプローチ
第1章 ポランニーの思想と人生
第2章 ポランニーの社会哲学の源流
第3章 市場社会の危機とファシズム分析
第4章 『大転換』の世界
第5章 「経済社会学」の誕生
第6章 産業文明と人間存在
終 章 ポランニーの知的遺産

■若森みどり(わかもり・みどり)
首都大学東京都市教養学部准教授。 専門は社会思想史。
共著書に『福祉の経済思想家たち』(ナカニシヤ出版)がある。

『ロシア・シオニズムの想像力 ユダヤ人・帝国・パレスチナ』

鶴見 太郎
ISBN978-4-13-016032-2,
発売日:2012年01月下旬,
判型:A5, 524頁

■内容紹介

シオニズム運動の枢要を担ってきたロシア帝国出身のユダヤ人たち.しかし彼らのなかには,シオニストでありながらあえてロシアにとどまる「ロシア・シオニズム」思想の系譜が存在した.歴史的な文脈を丁寧にたどりながら,シオニズムの新たな側面に光をあてる.【第1回東京大学南原繁記念出版賞】

■主要目次

序 章 パレスチナに行かなかったシオニスト


第1章 ロシア帝国におけるシオニズムの生成
第1節 ロシア帝国という場
第2節 ロシア帝国とユダヤ人
第3節 初期のシオニズム
小 括 目標としての「ネーション」


第2章 「ネーション」概念にはいかなる利点があったのか
第1節 帝政末期のロシア・シオニズムと『ラスヴェト』
第2節 ナショナリズムを分析する理論的視角
第3節 ドゥブノフとユダヤ・ナショナリズム
第4節 集団間アイデンティティとしての「ネーション」
第5節 『ラスヴェト』における本質規定の忌避
小 括 集団内/集団間アイデンティティの相互自律性


第3章 本質規定を忌避するナショナリズム
第1節 ナショナリズムと本質主義
第2節 シオニズムにおける「東」と「西」
第3節 「一人のユダヤ知識人の歴史」
第4節 民族の社会経済的基盤への注目
第5節 非ユダヤ人の影への反発
第6節 「ユダヤ社会」の「ルネサンス」
小 括 社会という位相

第4章 シオニズムの「想像の文脈」
第1節 ネーションの想像と文脈の想像
第2節 二〇世紀初頭のロシア・東欧における民族理論
第3節 ロシア・シオニズムにおける国家、民族、公共圏
第4節 シオニズムとパレスチナ・アラブ
小 括 シオニズムの「国際規範」の光と影

終 章 一九一七年——消えた帝国、散っていった夢
第1節 一九一七年革命とシオニズム
第2節 結 論

『デジタルデータは消えない』

≪4刷出来≫ e法務ディスカバリがゼロから分かる!
# ジャンル 幻冬舎ルネッサンス新書, ビジネス・経済・キャリア
# シリーズ 増刷
# 著者 AOSテクノロジーズ株式会社
佐々木 隆仁・著
# ISBN9784779060380
# 判型 新書・174ページ
# 出版年月日2011-03-10
# 価格838円+税

■目次
* 第1章 事件の陰に、デジタルデータあり

消去したはずのメールが、動かぬ証拠となる
取り扱いが難しいデジタルデータ

* 第2章 高まる情報漏えいリスク

誰もが重要機密を流出できる
企業と情報漏えい ほか

* 第3章 「訴訟大国」アメリカで今、何が起きているか

デジタル訴訟社会のはじまり
訴訟コストとデジタルデータ

* 第4章 これから日本で、何が起こるのか

アメリカで起きたことは、日本でも起こる
訴訟慣れしていない日本企業

* 特別付録 LEGALTECH NEW YORK 2011に出展した主な企業

■消去したはずのパソコンや携帯電話の履歴が証拠となる時代が到来した。「データは消えない」「情報は必ず流出する」を前提にリスクマネジメントをする必要がある。データの復元や抹消、改ざん、漏洩した情報の追跡、コンピュータフォレンジック……、デジタル訴訟社会にどう備えるべきかを論じる。デジタル先進国アメリカに学び、これから日本で何が起きるのかを丁寧に解説した入門書。

■著者紹介
1964年、東京都生まれ。89年早稲田大学理工学部卒業。大手コンピューターメーカーに入社し、OSの開発に従事した後、95年に独立。AOS
テクノロジーズ社を立ち上げ、リーガルテクノロジーを中心とした事業を推進。2000年よりデータ復元ソフト「ファイナルデータ」を発売し、01年日経サービス優秀賞受賞。10年、11年にBCN
AWORDシステムメンテナンス部門最優秀賞受賞。著作に『2000年対応あなたのパソコンが誤動作しないための本』(かんき出版)がある。

『執事とメイドの裏表  イギリス文化における使用人のイメージ』

新井 潤美 著
税込価格 : 2100円 (本体価格2000円)
ISBN : 978-4-560-08179-2
ジャンル : 文化史
体裁 : 四六判 上製 250頁
刊行年月 : 2011-11
内容 : 文学や映画でおなじみ、イギリスの執事やメイドなどの使用人。これらの職種に対する社会的イメージと実情を、19世紀〜現代を中心に、文学や諷刺、各種記録から考察する。日本人の想像する執事はイギリスとどう違う?

■目次
  はじめに
 第1章 執事──旧約聖書からハリウッド映画まで
 第2章 ハウスキーパー──愛しすぎた女性たち
 第3章 料理人──「きまぐれ」が歓迎されるポスト
 第4章 メイド──玉の輿はありかなしか
 第5章 従僕と下男──孔雀の出世
 第6章 乳母──影の実力者
  あとがき
  引用文献

■使用人文化から見たイギリス
 英文学を読んでいると随所に登場するのが使用人(家庭内労働者)である。かつてイギリスの中流以上の家庭では、使用人は身近かつ不可欠な存在だった。一方で、十九世紀のベストセラー『ビートン夫人の家政書』は「社交界では使用人を悪くいうのが習慣になっています」と語る。当時の人々にとって、使用人とはどういう存在だったのだろうか。
 世相を反映する例として小説を見ると、『オリヴァー・トゥイスト』に登場する、盗みの疑いをかけられた主人公をかばう慈母のようなハウスキーパーと、『レベッカ』で女主人に嫌がらせを繰り返す邪悪なハウスキーパーとは、一見正反対の人物に見える。だが著者によれば、両者の行動の裏には、ある共通した人物像があるという。では、そうしたキャラクターが生まれた背景には、ハウスキーパーとは「どういう人」だという世間のイメージがあり、そのイメージはどこからきたのだろうか。
 本書では、回顧録などの記録や文学作品、各種資料をもとに、十九世紀を中心に現代までのイギリスにおける、使用人の社会的イメージについて分析する。さらに、それらのイメージと、日本人やアメリカ人がポップカルチャー等で描いてきた使用人とのギャップについても考察している。

■新井 潤美(あらい めぐみ)
香港・日本・オランダおよびイギリスで教育を受ける。1990年東京大学大学院博士課程満期退学(比較文学比較文化専攻)。現在、中央大学法学部教授。主要著訳書:『階級にとりつかれた人びと
英国ミドル・クラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ
イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『自負と偏見のイギリス文化 ─
J・オースティンの世界』(岩波新書)、ドナルド・キーン『日本文学の歴史
近代・現代篇』7・8巻(中央公論新社)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳、岩波文庫)

『アーティストのためのハンドブック 制作につきまとう不安との付き合い方』

デイヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド著
野崎武夫訳
フィルムアート社
1785円

米国の写真家2人が、創作の際の心がまえを説く手引書。米国では地方出版社から刊行され、毎年のように版を重ねながら約20年間読み継がれてきた「隠れた古典」の邦訳だ。

 アーティストは疎外感と無力感にさいなまれながら一人で創作に励む。そんな孤独な作業に付きまとう疑問や不安との付き合い方を平易な言葉で指南。才能の欠落や想像力の枯渇を嘆く人には〈時間の経過とともに、才能は忍耐や勤勉とほとんど区別がなくなります〉。さらに〈よくない作品をたくさん制作することによって、よい作品が生まれます〉と背中を押す。通読すれば気づくはずだ。「アーティスト」を別の職業に置き換えても意味が通ることに。

■目次

はじめに

第1部

1. 問題の本質はどこにあるのか?
 ・いくつかの前提について

2. アートと不安について考えてみる
 ・見通す力はいつも実行する力を上まわる。
 ・想像力は邪魔をする。
 ・材料は働きかけるとリアルに反応する。
 ・不確実性は本質的に不可避である。

3. 自分自身に関する不安について
 ・作品を制作するふりはできない。
 ・才能は必ずしも必要ない。
 ・完璧は麻痺状態を招く。
 ・消滅してしまうという恐怖が新たな地平を生む。
 ・魔法は捕らえどころがない。
 ・期待はすべてを空想へと導く。

4. 他者に関する不安について
 ・理解されたいという欲求にはリスクがある。
 ・承認が求めているのはあなたではない。
 ・同意を求めると恐ろしいことになる。

5. 自分の制作を見つけるために
 ・規範とは形式と感情が結び付いた家庭のような場所。


第2部

6. 外部の世界について
 ・日常の問題はアーティストを振り回す。
 ・共通の基盤に新しい貢献を加える。
 ・アートの世界にも問題点がある。
 ・競争は自分のなかにある。
 ・アートシステムを操縦するときには注意がいる。

7. 大学の世界について
 ・教員には問題があります。
 ・学生にも問題があります。
 ・役立つのは自叙伝である。

8. 概念の世界について
 ・アイディアは技術より優る。
 ・工芸は完璧を目指す。
 ・新しい制作物をどう受けとめるか。
 ・習慣は美徳でない。
 ・アートと科学は似て非なるものである。
 ・自己参照には自己表明が必要だ。
 ・比喩は概念的な跳躍を誘発する。

9. 人間の声について
 ・質問は原動力になる。
 ・絶え間なく重荷を牽く。
 ・人間の声に合わせて作品をつくろう。

訳者あとがき 野崎武夫

この本は、作品を制作するためにスタジオや教室で作業をし、キーボードやイーゼ
ルやカメラの前にいるあなたのために書かれたものです。自分の将来を自分の手に
ゆだねること。事前に決められた運命よりも自由な意志を尊重すること。そして
チャンスよりも選択を重要視すること。つまりこの本は、あなたが自分の制作を見
つけるために書かれたテキストなのです。
──本書より
著者について
■著者■
デイヴィッド・ベイルズ(David Bayles)
写真家。同時代のアンセル・アダムスやブレッド・ウェストンとともに写真を追求
し、30年間にわたって美術教師を続ける。現在は引退。15年以上の時間をかけて
アメリカ西部のランドスケープを撮影し、作品集『Notes on a Shared Landscape:
Making Sense of the American West』(2005)として刊行。オレゴン州ユー
ジンやペンシルバニア州モントレーで暮らす。

テッド・オーランド(Ted Orland)
写真家。若き頃チャールズ・イームズのもとでグラフィックデザイナーとして社会
人のキャリアをスタート。その後はアンセル・アダムスのアシスタントを経て、現
在は教えることと書くこと、そして引き続き写真を生業とする。著書に『The View
From The Studio Door: How Artists Find Their Way in an Uncertain World』
(2006)など。カルフォルニア州サンタ・クルス在住。

■訳者■
野崎武夫(のざき・たけお)
上智大学文学部哲学科卒業。美術出版社に勤務の後フリーランス。おもに『美術手
帖』『インターコミュニケーション』『エスクァイア日本版』の編集、および
『store』(光琳社出版)、『Luca』(エスクァイアマガジンジャパン)の創刊業
務を担当。訳書に『アート+トラベル』(メディアファクトリー)を刊行予定。
明治学院大学非常講師。

『震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く「3・11」』

震災と原発 国家の過ち

文学で読み解く「3・11」

外岡 秀俊

ISBN:9784022734365
定価:819円(税込)
発売日:2012年2月10日
新書判並製 256ページ 新書336

大震災と原発事故で苦しむ東北に、再び光は差すのか? 著者が被災地で実感した、国家の様相と内外の文学作品との共通項とは?
カミュ、カフカ、スタインベック、井伏鱒二らを介して、「国家の過ち」を考察する。名文家で知られる朝日新聞・元編集委員の渾身作。

第1章  復興には、ほど遠い  カミユ『ペスト』

第2章  「放射能に、色がついていたらなあ」  カフカ『城』

第3章  「帝国」はいま  島尾敏雄『出発は遂に訪れず』

第4章  東北とは何か  ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家——安藤昌益のこと』

第5章  原発という無意識  エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』

第6章  ヒロシマからの問い  井伏鱒二『黒い雨』

第7章  故郷喪失から生活の再建へ  ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』

終章   「救済」を待つのではなく  宮沢賢治『雨ニモマケズ』

『思想』2012年第4号 No.1056「「中欧」とは何か?——新しいヨーロッパ像を探る」

「中欧」とは何か?――新しいヨーロッパ像を探る

思想の言葉※ 石川達夫 (3)


Ⅰ 問題としての「中欧」
「中欧」アイデンティティの夢と現実
  ――拡大EU・NATOのリアリティ―― 羽場久美子 (9)
地政学的運命としての「中間位置」?
  ――1980/90年代のドイツにおける「中央ヨーロッパ」論争―― 大竹弘二 (30)
ドイツの「中欧」構想
  ――経済思想史の視点から―― 小林 純 (53)
「境界」と「媒体」
  ――言語から見た中欧―― 三谷惠子 (73)
チェコとスロヴァキアのロマ
  ――中欧における共生の可能性―― 佐藤雪野 (92)


Ⅱ 歴史の中の「中欧」
「中欧」理念のドイツ的系譜 板橋拓己 (107)
中欧の困難さ
  ――アネクドートと歴史―― ヨゼフ・クロウトヴォル (124)
フリードリヒ・ナウマンの『中欧』
  ――この書物をめぐっての諸事情とその結末―― ユルゲン・フレーリヒ (172)
なぜ神学者ナウマンが『中欧』を書いたのか
  ――神学的でも社会主義的でもないが,「ドイツ・ルター派的」な政策―― 深井智朗 (195)
北西と南東 マケドニクス〔フランツ・ローゼンツヴァイク〕 (225)


Ⅲ 「中欧」の芸術
〈グレー・ゾーン〉に生きる芸術
  ──「正常化」時代におけるジャズ・セクションの活動について── 赤塚若樹 (237)
中欧の作曲家としてのリゲティ
  ――「規範」とのこじれた関係―― 伊東信宏 (262)
中欧とイディッシュ語 上田和夫 (278)
さまよえる境界,捏造された幻影
  ──中(東)欧文学の〈地詩学〉を求めて── 沼野充義 (292)
バルカン文学の可能性
  ――ユーゴスラヴィアの作家,キシュとアルバハリ―― 栃井裕美 (298)

※書き換えられる地図としての「中欧」

石川達夫


 ヨーロッパの地図は幾度となく書き換えられ、塗り替えられてきたが、ここ一〇〇年で最も激しくそうなったのは、ヨーロッパ中部、中欧であろう。

 一九一八年の第一次大戦終結時にオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)が崩壊して、オーストリアとハンガリーが分離し(その際ハンガリーの国土は約三分の一に縮小した)、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア(初めの国名はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国)、ポーランドが独立する。それも束の間、一九三八年のミュンヘン協定によってチェコスロヴァキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに割譲され、翌三九年にはチェコスロヴァキアが解体される。同年、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発、ポーランドはドイツとソ連によって分割され、ユーゴスラヴィアは枢軸諸国によって解体される。ようやく一九四五年に第二次大戦が終結し、これら諸国は独立を復興するが、ポーランド東部地域がソ連領とされる代わりにドイツ東部地域がポーランドに割譲される形で、ポーランド国境は大幅に「西進」する。中欧諸国は独立の復興も束の間、ソ連の強力な影響下で社会主義圏としての「東欧」へと「誘拐」(ミラン・クンデラ)される。そして一九八九年の一連の東欧革命によって、これら諸国の社会主義的政権が崩壊し、その後間もなくチェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアはそれぞれ分裂する。さらに中欧諸国はEUに加盟し、共通通貨ユーロの導入を目指す……。

 このように、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後の一〇〇年で、この地域は国境変更による地図の書き換え、勢力圏の変化による塗り替えを頻繁に経験してきたが、その「余震」は、いまだ完全には収まっていないように思える。この地域に「地震」を引き起こしてきたのは、かつては主としてイデオロギー(ナショナリズムと共産主義)であったのに対して、現在は主として金(通貨と金融)だと言えるかもしれないが(チェコ、ハンガリー、ポーランドという中欧諸国はいまだにユーロを導入していない)、経済の悪化、格差の拡大は、排外主義的なナショナリズムを増大させうる。


 ところで、第一次大戦終結時までヨーロッパ中部に存在した巨大なハプスブルク帝国は、一六世紀前半に、迫り来るオスマン・トルコとの戦いの中で、オーストリアのハプスブルク家の君主がチェコ王とハンガリー王を兼ねることになり、一種の同君連合が成立したことから生まれた。つまり、それぞれの領邦がその法律・特権・伝統などを保ったまま結びつく、緩やかな国家連合として誕生したのである。その巨大な帝国は、様々な言語・民族・文化が混在するモザイク的な国であり、その中では比較的自由に人や物や文化が移動し、交流し、混交した。とりわけ中心地のウィーンには様々なものが集まって来た。一九世紀末―二〇世紀初頭の世紀転換期のウィーン文化の輝きは、広大な「後背地」からの養分摂取なしにはありえなかったであろう。

 だが他方、ハプスブルク帝国内でも一九世紀にナショナリズムが高まってきて、それぞれの近代的なネーション(チェコ民族、ドイツ民族、ハンガリー民族その他)が形成され、互いに明確に分離し、軋轢を起こすようになっていった。この帝国がそのような民族問題をうまく解決できなかったことが大きな原因となって、第一次大戦終結時にハプスブルク帝国は崩壊することになったのである。

 中欧はどのように国境線を引いても少数民族が含まれてしまうと言われてきたように、ハプスブルク帝国崩壊後に独立した諸国家の大きな問題は少数民族問題であった。だがその後、第二次大戦中における大量の(ユダヤ系、ロマ系)住民の殺害や、戦後における大量の(ドイツ系)住民の強制移動、さらに東欧革命後における多民族国家の分裂によって少数民族問題が大幅に縮小され、この地域はモザイク状のものから、より純色に近い独立した部分から成る、いわばパッチワーク状のものに変えられていった。


 「中欧」という概念は、ヨーロッパ中部という地理的な意味でも用いられうるものの、多分に地政学的な概念である。すでにチェコの歴史家・政治家フランチシェク・パラツキー(一七九八―一八七六年)は、一八四八年革命の際に台頭した、オーストリアとドイツ帝国の結合を求める汎ゲルマン主義的思想に対して異を唱えた「フランクフルトへの手紙」(一八四八年)や「オーストリアにおける中央集権化と民族的平等について」(一八四九年)などの中で、地政学的な意味で中欧を捉えていた。すなわち彼は、ハプスブルク帝国の枠組みを維持しながら、それを諸民族の同権が認められる連邦制国家に変え、中欧に、拡張主義的な東の大ロシアと西の大ドイツに対する第三の効果的な均衡勢力を形成し維持することが重要だと力説したのである。

 このように、「中欧」という概念は多分に地政学的な概念であるがゆえに、視点が異なれば中欧の外延は変わってくる(例えば先に挙げたパラツキーの視点からはドイツは当然中欧から排除されるが、汎ゲルマン主義的なドイツ人の視点からはむしろドイツとオーストリアを一つにしたドイツ人世界こそが中欧の中核となるはずであった)。また、この地域の政治的状況が変化すれば、中欧自体も変化する。そのため、中欧とはどこなのか、何なのかを厳密に定義することは難しい。


 地政学(geopolitics)的な概念と同時に重要なのが、いわば「地詩学(geopoetics)」的な概念であろう。つまり、中欧が置かれた位置とその独特の風土から固有の文化様式、芸術様式が生まれたとする見方である。そのような詩学は、先に述べたような、中欧のモザイク的な多民族・多言語・多文化性からだけではなく、この地域の地図が書き換えられ、塗り替えられてきたこと自体、つまりこの地域の人々が歴史の疎外者であり運命の被支配者であったことからも生まれたと考えられる。特に二〇世紀チェコ文学には、「運命の被支配者の詩学」とでも呼ぶべきものが広く見られる。先に挙げたパラツキーにもあったように、ロシアとドイツに挟まれ、その二つの大国の間で中欧の諸小民族は押し潰されかねない重圧にさらされているという自己表象が広く見られるのである。

 例えば二〇世紀チェコ文学を代表する作家の一人ボフミル・フラバル(一九一四―九七年)の代表作の一つ『あまりにも騒がしい孤独』には、主人公がプラハの町もろとも巨大な圧縮機によって押し潰され、プラハの町そのものが一辺五〇〇メートルほどの立方体にプレスされてしまうという凄まじい幻覚が描かれているが、これはそのような詩学の表れであると同時に、(プラハの)地図の書き換えの文学的表現であるとも言えるかもしれない(実はプラハの地図も、一九世紀後半以降、通りや広場などの名前がドイツ語からチェコ語に次第に変えられていくというように、たびたび書き換えられてきたのである)。

 そして、そのような「運命の被支配者の詩学」は文学だけでなく、演劇(例えばヴァーツラフ・ハヴェル(一九三六―二〇一一年))、映画(例えばヤン・シュヴァンクマイエル(一九三九年―)、アニメ、人形劇などにも当てはまると言えよう。


 ところで、中欧を規定するなら、より東(ロシア・東欧)と、より西(西欧)との関係で規定するほかなかろう。その際しばしば、「東」との差異が強調され、中欧は本来は「西」に属していると主張される。それでは、「西」と「東」はどのように違うというのであろうか?

 現代チェコの歴史家ヤン・クシェンが『中欧の二世紀』(二〇〇五年)という大著の中で行った整理によれば、「西」と「東」の相違は通例以下のように捉えられてきたという。

 一、東方の影響の有無――「東」におけるビザンチン、モンゴル、トルコの強い影響(もっともこれは、通例「西」の一部と見なされる南イタリアやスペインにも当てはまる)。

 二、宗教的相違――「西」のカトリシズムおよびプロテスタンティズムと、「東」の正教(およびイスラム教)。それと結びついた構造的相違、すなわち「西」における教会と国家の二元論と、「東」における教会と国家の癒着。

 三、精神的相違――「西」におけるルネサンス、人文主義、宗教改革と、「東」におけるその欠如ないし希薄。

 四、政治的相違――「西」における中世の身分制国家と多元性、そこから発展した近代の多元的民主主義、議会制、自治、下から有機的に形成された市民社会と、「東」における専政ないし独裁、上から革命と改革によって移植された不十分な議会制や自治組織。

 五、社会的相違――農村については、「西」における隷農制(poddanství)(隷農(poddaný)は多少とも権利を付与されている)と、「東」における農奴制(nevolnictví)。都市については、「西」における自分たちの都市法を有した自立的で自治的な組織、財産の市場的・金銭的原理の導入、独立した身分としての市民階級の形成と、「東」における国家による都市の統治と法的自律性の欠如。

 六、社会構造的相違――「西」における法典化を伴う契約原理と、「東」における国家や皇帝などから導き出される社会的地位。

 それでは、中欧はここに示されたような「西」に完全に属しているかというと、様々な理由から不完全に属していると、しばしば見なされてきた。あるいは「西」と「東」の中間に位置すると見なされてきた。

 だからこそ、中欧の人々は、自分たちが本来属するべき「西」に「回帰」しようとしたり、あるいはまた「東」とも「西」とも異なる自分たちの独自性を主張しようとしたりしてきたのであろう。

 またチェコの美学者・批評家ヨゼフ・クロウトヴォルは、本号に訳出した「中欧の困難さ」(一九八一年)において、中欧は、西欧の「歴史性」と東方の「無歴史性」の間にある「非歴史性」=「不条理な歴史」によって特徴づけられるとしている。

 「地詩学」的に言えば、このような中間的な状態から独特の詩学が生まれるのだと言えよう。すなわち、異質なものに取り巻かれ、異質なものの介入によって歴史になれない歴史、(個人のレベルでは)自分になれない自分という不条理が常態化し、日常的な「メランコリーとグロテスクの交差」に生まれる「滑稽な真実」(クロウトヴォル)の表現である。


 中欧は東欧ではないのか? 西欧でもないのか? 中欧には東欧でも西欧でもない、いかなる特徴があるのか、ないのか?
かつてモザイク的なものであり、いまだに様々な差異を含んでいる地域を、一口に「中欧」という言葉で括ることができるのか、できないのか?(中欧をドイツ的地域としての西中欧と、非ドイツ的地域としての東中欧に下位区分する見方や、正教徒とイスラム教徒の住むバルカン地域を排除する見方などもある)

 中欧について考え始めると、様々な問いが湧いてくる。それも、この地域の地図がたびたび書き換えられ、塗り替えられてきたことの一つの結果でもあろう。

 地図がたびたび書き換えられてきたこと、書き換えを招いた、また書き換えに由来する諸問題――それこそが中欧の際立った特徴だと言えるかもしれない。

『カフカ式練習帳』

カフカ式練習帳

カフカシキレンシュウチョウ

定価
:1785円(税込)
ページ数
:400ページ
判型
:四六判上製カバー装
初版発行日
:2012年04月20日
ISBNコ−ド
:9784163813301
Cコード
:C0093

■本書はカフカに倣って、保坂和志が「練習帳」に書き記した無数の断片から成る「長篇(ちょうへん)小説」である。「思いついたらいつでも書けるように家の中のあちこちにノートを置いておいてその場で書き出す」。もとは文芸雑誌に連載されたものだが、そうしてあちこちのノートに書かれた断片を、編集者がデータ入力して掲載していったのだという。途中からは携帯電話のメール機能によるテキストも混じり出すが、作者自身にも、もはやその区別がつかないらしい。何というユニークな書き方だろうか。しかしこれはあくまでも保坂氏が自ら選択した方法なのであって、それでもちゃんと「小説」になるのだという自信と確信がなければ、こんなやり方は採れはしない。

■担当編集者から一言

永遠に謎の作家・カフカは、一篇の小説としてまとまっていない、魅惑的な断片をたくさん遺しました。保坂和志さんの、『カンバセイション・ピース』以来となる長篇は、それにならい、様々な小説の断片、文学作品の引用、作家の思考の軌跡や何げない日常が渾然一体となった、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような新しい小説世界へ読者をいざないます。冒頭から読むもよし、ページを開いたところを気ままに読むもよし。読むたびに新らしい発見がある不思議な小説です。(NK)

2012-05-28

『負債と報い —— 豊かさの影 —— 』

マーガレット・アトウッド
佐藤 アヤ子 訳
■体裁=四六判・上製・256頁
■定価 2,940円(本体 2,800円 + 税5%)
■2012年3月28日
■ISBN978-4-00-024666-8 C0098

負債は古来,宗教や文学の重大テーマであり,人間社会のあり方そのものに深く関わる問題である.本書は,サブプライム・ローン問題を発端にリーマンショックという形で顕在化し今やきわめて現代的トピックとなった「負債」の問題をめぐり,作家,詩人,批評家,社会運動家として活躍するM.アトウッドが,皮肉とユーモアを交えつつ巨視的に論じた文明批評.

■目次
第一章 古代の貸借均衡
第二章 負債と罪
第三章 筋書としての負債
第四章 影なる部分
第五章 清算

謝辞
許諾
訳者あとがき
参考文献

■訳者からのメッセージ
アメリカが2003年3月にイラク侵攻を開始したとき,マーガレット・アトウッドはカナダの新聞『グローブ・アンド・メイル』に「アメリカへの手紙」と題する記事を書きました.そのなかで,アメリカ人は自分たちが抱えた〈負債〉を理解しているのでしょうか,と問うています.以来「負債」は彼女の考察テーマの一つとなっていくのです.
 負債は古来より,宗教や文学の重要テーマであり,人間社会のあり方そのものに深く関わる問題です.本書が出版された2008年は,サブプライム・ローン問題を発端にリーマン・ショックが世界経済を揺るがせた年です.負債を連動させる組織体系の破綻によって経済危機をもたらした〈負債と返済〉という時宜を得たテーマを扱っているために,出版と同時に本書はベストセラーとなり,高い評価は今なお続いています.
 本書は映画化され,2012年度のサンダンス・フィルムフェスティバルのドキュメンタリ—部門で好評を得て,現在カナダやアメリカで上映されています.
 2010年9月の「第76回国際ペン東京大会2010 環境と文学『いま,何を書くか』」で,アトウッドは環境をテーマに基調講演を行いました.
 環境への関心は彼女の近年の小説を見ても明白です.本書の終章でも負債の「清算」というテーマを広く環境問題と結びつけ,今や人間が自然環境に負う「借り」を返す時であること示唆しています.またアトウッドは,東日本大震災に対する日本人への希望のメッセージの中で,原発が抱える「負債」に言及しています.「今回の東日本大震災によって世界中の人たちは教訓を学びました.天災が人工テクノロジーの暴走と結びつくと,予想以上の破壊をもたらすという教訓です」(「月刊文藝春秋
3月臨時増刊号」2012・03・01)と.
 本書は顕在化してきた現代的トピックである「負債」の観念や問題をめぐり,作家,詩人,批評家,環境活動家としてカナダを代表する知識人であるアトウッドが,風刺とユーモアなどの文学的手法を駆使しながら巨視的に論じた文明批評といえます.


■訳者
佐藤 アヤ子(さとう あやこ)
明治学院大学教授.日本カナダ文学会会長.日本ペンクラブ会員.専攻=カナダ文学,現代アメリカ文学.著書に,『J.D.サリンジャー文学の研究』(共編)ほか,訳書に,アトウッド『またの名をグレイス』(上・下)(岩波書店刊),『寝盗る女』(上・下)(共訳),ハイウエイ『ドライリップスなんてカプスケイシングに追っ払っちまえ』,プシャール『孤児のミューズたち』,サリンジャー『ハプワースの16日目』(共訳),フライ『同一性の寓話』(共訳),など.

■著者
マーガレット・アトウッド(Margaret Atwood)
1939年生まれ.カナダを代表する作家,詩人,長編小説,短篇集,児童書,ノンフィクション,詩集,評論等,幅広い作家活動を展開.これまで,カナダ最大の文学賞であるカナダ総督文学賞(2回),ギラー賞(1回)をはじめ,ブッカー賞,アーサー・C・クラーク賞,コモンウェルス作家賞,ハメット賞などを受賞.
邦訳書に『またの名をグレイス』(上・下)(岩波書店刊)をはじめ,『侍女の物語』『スザナ・ムーディーの日記:マーガレット・アトウッド詩集』『浮かびあがる』『青ひげの卵』『食べられる女』『マーガレット・アトウッド短篇集』『寝盗る女』(上・下)『昏き日の暗殺者』『闇の殺人ゲーム』『ペネロピアド』『ほんとうの物語』など.

『会社員とは何者か 会社員小説をめぐって』

カイシャイントハナニモノカ
会社員とは何者か?
会社員小説をめぐって
著者: 伊井直行

発行年月日:2012/04/26
サイズ:四六変型
ページ数:330
ISBN:978-4-06-217601-9

定価(税込):2,520円

会社員が主人公の小説って、……おもしろいの?
誰も気づかなかった「会社員」の謎に迫る、まったく新しい文学論!
『群像』連載に加筆し書籍化。
「普通のサラリーマン」とは、現代日本における凡庸な人生の代名詞である。(……)だが、そこに解くべき謎があることについて、私は強い確信を抱いている。——<「本文」より>

本書で取り上げたおもな小説
●源氏鶏太「英語屋さん」
●山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」
●庄野潤三「プールサイド小景」
●黒井千次「メカニズムNo.1」
●絲山秋子「沖で待つ」
●長嶋有「泣かない女はいない」
●津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」
●カフカ「変身」
●メルヴィル「バートルビー」ほか。

目次

ヒヨドリの羽ばたき
私が会社員だったころ
「サラリーマン」という言葉の二重性
「サラリーマン」という言葉の知られざる履歴
小説と職業生活
「経済小説」と会社員小説
会社員小説の射程
会社員小説の定義—階調の内にとどまる
会社員という視点
源氏鶏太の「サラリーマン小説」
会社員小説としての「プールサイド小景」
二等車の乗客
砂漠を愛する人
ゲームの空間
会社と家庭をへだてる川
法人としての会社員
会社員の誕生—岩崎彌太郎と初期三菱
会社の仕事と人間の労働—黒井千次の試み
会社員小説としてのカフカ「変身」
メルヴィル「バートルビー」—未来の人間

2012-05-22

『 圏外に立つ法/理論 法の領分を考える』

江口厚仁 林田幸広 吉岡剛彦 編
四六判・342頁
税込定価 2520円
ISBN978-4-7795-0611-6
2012年4月

●主な内容

  プロローグ

 序 章 法化論——未完のプロジェクト
      ■江口厚仁
   1 法化論の源流と現在
   2 近代化論としての法化論
   3 ポスト福祉国家論としての法化論
   4 市民的公共性論としての法化論
   5 法化論のポテンシャル

 第1章 「死別の悲しみ」と金銭賠償
      ——法は死者を悼みうるか——
      ■小佐井良太
   1 はじめに
   2 金銭賠償のシステム化と「死別の悲しみ」
   3 損害賠償の「命日払い」請求/判決をめぐって
   4 おわりに

 第2章 法は紛争解決を約束できるか
      ■上田竹志
   1 はじめに
   2 コンテクストをめぐる争い
   3 コンテクストと時間
   4 自己言及問題
   5 コンテクスト紛争の「解決」
   6 「法の前」・イルカ・論理階型
   7 コンテクスト紛争のマネージメント
   8 変化へのプロセスの可能性を高める

 第3章 司法参加と「法の限界」
      ——われわれはどこまで法と折り合うことができるのか——
      ■宇都義和
   1 はじめに
   2 「法の浸透」に対する評価と懐疑
   3 法的判断枠組みとの「せめぎあい」
   4 法的判断の文脈
   5 法の領分を知ることの意義
   6 おわりに

 第4章 おっぱいへの権利!
      ——「見た目」に関する悩みや望みを、法は保護すべきだろうか——
      ■吉岡剛彦
   1 「温泉に行きたい」乳房を失った女性の願い
   2 乳房再建と保険適用
      ——失った乳房をふたたび取り戻すことと公的支援——
   3 保険適用を不要とする論理
      ——近代資本主義社会の障害観と、医療/美容の区別——
   4 女性の「おっぱい」は誰のものか
      ——乳房へ拘泥させるものに抗して——
   5 「おっぱいへの権利」を真剣に考える
      ——「見た目」問題は法の圏内か圏外か——

 第5章 近代ウィーンの「子どもの流通」
      ■江口布由子
   1 はじめに
   2 捨て子院の解体
   3 戦間期ウィーン
      ——子どもの流通の抑制から再活性化へ——

 第6章 公共空間におけるパフォーマンスと法
      ——都市の中心で「I」をどこまで叫べるか——
   1 はじめに
   2 表現の自由と公共空間
   3 公共空間の変容
   4 結びにかえて

 第7章 アーキテクチャ批判(の困難さ)への"いらだち"
      ——近代法主体の「退場」に抗すべき理由はあるか——
      ■林田幸広
   1 アーキテクチャとは何か
   2 アーキテクチャと法的規制の関係
      ——近代法主体の「退場」——
   3 「快適」な主体
      ——再帰的(リフレクシヴ)アーキテクチャ——
   4 批判の困難さ
      ——What's wrong with Architecture?——
   5 よるべない批判の拠点
      ——「リアルの罠」に落ち込みながら——

 第8章 教育コミュニティと法
      ——われわれが学校に参加する条件とは何か——
   1 はじめに
   2 現代版教育コミュニティ法制
   3 意義づけられる学校参加
   4 統治対象としての教育コミュニティ
   5 教育コミュニティを公共空間として構築する条件

   【コラム】
   バスジャック事件と少年法厳罰化の是非(山口由美子)
   法をめぐる虚実としてのハンセン病問題(三宅浩之)
   「事件の本質をとらえる」こと(吉岡俊介)
   在日コリアンにおける結婚・戸籍・国籍(吉本和子)
   「こうのとりのゆりかご」をめぐる問題(蓮田太二)
   俳人の社会的責任?——体験的市民活動試論(甲斐朋香)
   「身の丈ジャーナリズム」のススメ(鈴木美穂)
   「武器」として、時に「自由」を狭めるものとして(雨宮処凛)

  読書案内
  エピローグ

■法の境界を巡るアクチュアルな問題群を探究

法とは何か。法の境界は何処にあるのか。
死亡事故における金銭賠償から、市民の司法参加、
公共空間におけるパフォーマンスの是非など、
「法の領分」を巡る多様な問題群に分け入り、
アクチュアルな論点を導き出す。

●編者紹介

江口厚仁(えぐち・あつひと)
 1959年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。法社会学専攻。九州大学教授。『自由への問い(3)公共性——自由が/自由を可能にする秩序』〔共著〕(岩波書店,2010年),『リベラルアーツ講座
感性・こころ』〔共著〕(亜紀書房,2008年),『法と社会へのアプローチ』〔共著〕(日本評論社,2004年),他。

林田幸広(はやしだ・ゆきひろ)
  1971年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。法社会学専攻。北九州私立大学非常勤講師。『共同体と正義』〔共著〕(御茶の水書房,2004年),「安全,要注意——リスク社会における生‐権力の在処を探るために」(『情況』第3期第3巻第8号,2002年),「ポスト・フーコー的法権力の台頭——差延に感染する〈否〉権力」(『九大法学』第82号,2001年),他。

吉岡剛彦(よしおか・たけひこ)
  1972年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程修了。法哲学専攻。佐賀大学准教授。『周縁学——〈九州/ヨーロッパ〉の近代を掘る』〔共編〕(昭和堂,2010年),『ヨーロッパ文化と〈日本〉——国際文化学のドラマツルギー』〈佐賀大学文化教育学部叢書2〉〔共編〕(昭和堂,2007
年),『ヨーロッパ文化と〈日本〉——モデルネの国際文化学』〈佐賀大学文化教育学部叢書1〉〔共著〕(昭和堂,2006年),他。

2012-04-10

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

判型 : 四六判並製
ページ数 : 402ページ
ISBN : 9784255006130
Cコード : 0095
発売日 : 2011/10/17

目次
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ"ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
結論
あとがき

朝日新聞やニューヨークタイムズのインタビューで注目を浴びる気鋭のスピノザ研究者が、「3.11以降の生き方」を問う。はつ剌と、明るく、根拠をもって「よりよい社会」を目指す論客のデビュー。

何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい……。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。

■すごい思想書
「読み進めるうちに、あぁ、こんなところに生きる意味があったのかと、一度人生をリセットしたような、そういう気分にさせてくれる本です。震災以降の現在ならなおさらです。[…]ありとあらゆる意味や関係にこんがらがってるであろう現実を一旦均してしまうような、まさにリセットするような実に晴々として爽快な内容」——鈴木成一氏(マトグロッソ「鈴木成一
装丁を語る。」#36より)。

※ブログにて、「序章」を読むことができます。
http://asahi2nd.blogspot.jp/search/label/%E5%9C%8B%E5%88%86%E5%8A%9F%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%80%8C%E6%9A%87%E3%81%A8%E9%80%80%E5%B1%88%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%80%8D

[序章「好きなこと」とは何か?より抜粋]
資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その
暇をどう使ってよいのか分からない。[…] 我々は暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。

『恋愛書簡術 古今東西の文豪に学ぶテクニック講座』

中条省平 著
初版発行日2011/12/10
判型四六判
ページ数256ページ
定価1890円(本体1800円)
ISBNコードISBN978-4-12-004314-7

目次
アポリネールと伯爵夫人ルー—官能と陶酔のファンタスム
エリュアールと芸術の女神ガラ—遠く離れた恋人たちをゆさぶるエロス
内田百〓(けん)と憧れの君 清子—読まれることを目的とした日記の真相
バルザックと異国の人妻ハンスカ夫人—ファンレターから始まった一八年間の愛
ユゴーと見習い女優ジュリエット—最後まで添いとげた生涯の陰の女
谷崎潤一郎と麗しの千萬子—サブリナパンツに魅せられた瘋癲老人の手練手管
フロベールと女性詩人ルイーズ—年下の男のリリカルな高揚とシニカルな失速
コクトーと美しき野獣マレー—禁断の同性愛から至高の友愛へ
ミュッセと男装の麗人サンド—『世俗児の告白』に隠された真実
スタンダールと運命の女メチルド—『恋愛論』の真の作者との悪戦苦闘〔ほか〕

愚直な思いか?罠か?粋な駆け引きか?略奪愛、ダブル不倫、遠距離恋愛、援助交際。恋の渦中で身を焦がし、巧みに駆使したレトリックを分析、世界を揺るがせた恋文と名作誕生秘話。
バルザック、谷崎潤一郎など、古今東西の文豪たちが、恋の渦中で身を焦がし、巧みに駆使したレトリックを分析。ラヴレターの魅力と世界を揺るがせた名作誕生の背景を探る。『中央公論』連載に加筆し書籍化。

『屋根裏プラハ』

田中長徳/著
発行形態 : 書籍
判型 : 四六判変型
頁数 : 286ページ
ISBN : 978-4-10-331731-9
C-CODE : 0095
ジャンル : 文学
エッセイ
発売日 : 2012/01/31

ニコリテスリー七番地
ホテルプラハ、神なきカテドラル
プラハの寿司/プラハに死す
プラハのP、夢を語る
旅券(ライゼパス)と国境(グレンツェ)
記念写真と隠し撮り
キュビズム建築に棲みたかった
ルツェルナ・パレスでの写真展
プロペラの記憶
黒い切手と紅い駅
シュコダ贔屓
パブロフのワイン
路面電車とチョコレート
写真機と写真機店
スデクを捨てる
新世界のカフカ
聖なる春
あとがき


街がくぐりぬけてきた過酷な歴史と、急速に変わり行く人々の姿。プラハをめぐる17の断章。

長年この街にアトリエを構えてきた写真家が、住民でもなく旅行者でもない、「屋根裏」からの視点で綴る17章。ふとした瞬間に見える歴史の爪痕。ホテルプラハに漂う旧共産圏の不穏な気配。国境と旅券というものの不思議。伝説の写真家たちの思い出——。独特のユーモアの間に街と人への敬意が滲む、個性溢れる名エッセイ。

■田中長徳/著
タナカ・チョウトク

1947年東京生まれ。写真家。大学在学中の1969年、銀座ニコンサロンにて史上最年少で個展を開催。1973年から1980年までウィーン在住、1982年から翌年にかけて文化庁派遣芸術家としてニューヨーク近代美術館で写真研究に携わる。1989年よりプラハにアトリエを構え、世界各地で個展を開催する一方、カメラ評論家としても活躍している。著書に『晴れたらライカ、雨ならデジカメ』(岩波書店)、『カメラに訊け!』(ちくま新書)、『銘機礼讃』(日本カメラ社)ほか多数。