2013-05-29

「「カフカはひたすら書いた、ベケットはもうこれ以上は書けないという 地点で(から)書いた」

「カフカはひたすら書いた、ベケットはもうこれ以上は書けないという
地点で(から)書いた、どちらもその書く行為に
意志が機能しないことで共通している」
……保坂和志「試行錯誤に漂う」12「小さい声で書く」
月刊「みすず」2013年5月号

『戦う女、戦えない女  第一次世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ』

2013/05/20発売予定 哲学・宗教・歴史・地理
戦う女、戦えない女
 第一次世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ
レクチャー 第一次世界大戦を考える
ISBN:978-4-409-51118-3
本体価格:1600円+税
判型:四六
Cコード:C1320
 林田 敏子
(人文書院)

戦う女、戦えない女 新刊

第一次世界大戦期のジェンダーとセクシュアリティ
戦う女、戦えない女

愛国熱と制服フィーバーの時代
著者 林田 敏子 著
ジャンル 社会 > ジェンダー
歴史
シリーズ レクチャー 第一次世界大戦を考える
出版年月日 2013/05/20
ISBN 9784409511183
判型・ページ数 4-6・164ページ
定価 本体1,600円+税

■内容紹介
愛国熱と制服フィーバーの時代

総力戦は同時に女性の社会進出もおしひろげた。

戦えない性である女性は、愛国心をどう示したのか。

カーキ・フィーバー、社会進出の象徴でもある制服への熱狂。

大戦は女性をどう変えたのか、戦いのなかの女性を描き出す。

■目次
はじめに
1 カーキ・フィーバー
2 大戦がひらいた世界
3 制服の時代
4 生産か生殖か

第1章 戦いを鼓舞する女
1 募兵ポスターのなかの女性
2 白い羽運動

第2章 ベルギーの凌辱
 1 「ベルギーを忘れるな」
 2 ブライス委員会報告
 3 イーディス・カヴェル事件---ベルギーに散ったイギリス人看護師

第3章 愛国熱と戦争協力
 1 女性参政権運動の休止
 2 女性警察---統制か保護か
 3 別居手当と妻の監視
 4 女性農耕部隊----農村における労働代替

第4章 「戦う」女たち
 1 銃後の世界から戦場へ-----女性ヴォランティア予備軍
 2 陸軍女性補助部隊
 3 性的スキャンダル
 4 「越境する女」への批判
 5 女性戦士か家庭の天使か
 6 「越境する女」の自己意識

おわりに
 1 セクシュアリティの戦争
 2 大戦が変えたもの、変えなかったもの
 3 「空」への扉

ペーターアンドレ・アルト『カフカと映画』書評(佐々木敦・岡田温司・中条省平)

カフカと映画 [著]ペーターアンドレ・アルト

[評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)  [朝日新聞掲載]2013年05月26日

著者:ペーター=アンドレ・アルト、瀬川裕司  出版社:白水社 価格:¥ 3,570

■『城』の舞台発見?踏み込む論証

 前世紀のはじめ、若きフランツ・カフカは、昼間は公務員として働き、夜はのちに文学史上の大事件と見なされることになる数々の小説と、そのもとになる創作メモ、日記や手紙などを書いていた。ではそれ以外の時間、彼は何をしていたのか。カフカはプラハの街に繰り出し、友人と語り、呑(の)み、食事し、そして映画を観(み)ていた。
 ベルリン自由大学の学長を務める著者は、カフカの日記や手紙から映画にかんする記述を拾い出し、そこで言及されているカフカが実際に観たとおぼしき映画を調べ上げ、カフカの小説が、ちょうど揺籃(ようらん)期にあった同時代の映画に、いかに影響されていたかを検証してみせる。同様の観点に立つ本は過去にもあったが、この本の論証と推理がもたらす知的スリルは半端ではない。なにしろカフカの『城』のモデルになったかもしれない実在する城を発見してしまったのだから。
 当時まだ生まれてまもない映画の特性(撮影と映写のメカニズム、ショットとその編集という技法など)と、無声映画の他の芸術とは異なる感情表現やドラマツルギーの、カフカの小説との類似性。あの独特な文章と、奇妙だが生々しい叙述は、言われてみれば確かに映画的だ。だがそれを単なる同時代性としてではなく、更に踏み込んで論じている点に本書の白眉(はくび)がある。
 1921年の夏、カフカは肺病治療のためサナトリウムに滞在した。そこから遠くない場所にオラヴァ城という城があった。カフカがその城を訪ねたという証拠はない。だが『城』の舞台は確かにオラヴァ城に似ている。そしてこの城は、F・W・ムルナウ監督の傑作「吸血鬼ノスフェラトゥ」の撮影場所だった。つまり私たちはムルナウの映画でカフカの小説の「城」を見ることが出来るのだ。そう著者は推論している。大胆な仮説だが、実に面白い。カフカの読み方が変わってしまいそうである。
    ◇
 瀬川裕司訳、白水社・3570円/Peter−Andre Alt 1960年生まれ。ベルリン自由大学学長。

評・岡田 温司(西洋美術史家・京都大教授)
作品への影響を解く

 アートはたんに世界を映すだけの鏡なのではない。

 世界を変革する力をも秘めている。19世紀末に産声を上げた新たなアート、映画がその良い例だ。今や映画を抜きに、私たちを取り巻く現実世界を語ることはできない。とするなら、映画がはじめて公衆の目にさらされたときの衝撃はどれほどのものであったか、察して余りある。まずもって、知覚や感性のあり方そのものを一新することになったのだ。それゆえ当時、歓迎するにしろ戸惑うにしろ、多くの芸術家や作家や学者たちを引きつけたのも、理由のないことではない。

 本書は、なかでも映画に「途方もない楽しみ」を見出(みいだ)していたカフカの文学に焦点を当て、映画がその作品に及ぼした影響の大きさを解き明かそうとするもの。カフカが映画に熱を上げていたことは、その手記等からこれまでにもよく知られていた。本書はさらに踏み込んで、カフカ文学のモチーフや文体の特徴の数々を、実際に彼が見たとおぼしき映画に照らし合わせて具体的に検証していく。たとえば、『審判』における人格の二重化や主体の分裂というテーマは、初期映画の名作『プラーグの大学生』や『分身』に、『城』の超現実的な設定は、『吸血鬼ノスフェラトゥ』に比較される等々、といった具合。さらに、全体よりも細部に執着する人物描写の独特の効果や、たえず動く視点から記述される空間表現などにもまた、運動のイメージをとらえるカメラ・アイの手法が生かされているという。

 私の勝手な想像だが、芥川龍之介や稲垣足穂をはじめ日本の近代文学にも、類似の例は少なくないだろう。カフカは映画をうまく利用したが、逆にカフカ文学を映画化することがいかに困難かをめぐる訳者の解説も興味深い。これまでややもすると神秘主義やユダヤ思想に傾きがちだったカフカ解釈に、それとは異なる視座から一石を投じた点で、本書は新たな道を開いたといえるだろう。瀬川裕司訳。

 ◇Peter‐André Alt=1960年生まれ。ドイツのベルリン自由大学学長。

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カフカと映画 ペーター=アンドレ・アルト著
最先端メディアを吸収した作家

[日本経済新聞朝刊2013年4月28日付]
(映画評論家 中条省平)

 『カフカと映画』、一見奇妙なタイトルに見えるかもしれない。しかし、1883年生まれのカフカは、映画が発明されたとき感受性豊かな少年であり、保険協会の職員だった20代の日記や手紙には、鑑賞した映画について多くの記述が残されている。ツィシュラーの『カフカ、映画に行く』という本は、カフカの映画ファンぶりを追跡、実証したものだ。

 本書はツィシュラーの研究のさらに先に踏みこみ、映画という当時最先端のメディアをカフカがどのように自分の文学世界に吸収したかを論じている。

 ところで、カフカはプルーストやジョイスと並ぶ20世紀最高の作家と見なされている。だが、カフカがプルーストやジョイスと根本的に異なっているのは、その人間観である。プルーストは記憶を人間の最も重要な根拠とし、ジョイスは人間の意識の流れを描く革命的手法を開発した。

 だが、彼らと違って、カフカは自己という人間の内面を信じていない。本書に引用されるとおり、カフカは、「自己忘却」こそが「作家であることの第一の前提」であると考えていた。

 そんな人間観をもつカフカにとって、内面を表現することができず、人間をもっぱら外側から描く映画というメディアはうってつけの芸術形式だったはずだ。カフカが様々なかたちで映画的手法やテーマを小説にとり入れたことは当然のなりゆきといえよう。

 映画とは何よりも運動とスピードの芸術である。リュミエール兄弟が発明した映画の初期短編のなかで、「列車の到着」が一番センセーションを呼んだことはよく知られている。カフカの小説にも列車や車など交通機関を描いたものが多いのである。

 また、批評家ベンヤミンは、「カフカ解釈の真の鍵を握っているのはチャップリンだ」と述べたが、カフカの長編『失踪者』のなかには、ドタバタ喜劇のように面白い追っかけの場面が登場する。

 カフカの『城』と映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」のつながりなど、本書を読んでいると、本当にカフカの小説が映画と深い関係をもつように思えてくるのである。

2013-05-27

カフカと障害

日本障害者リハビリテーション協会 情報センターホーム > 協会発ジャーナル > 月刊ノーマライゼーション > 月刊「ノーマライゼーション
障害者の福祉」2007年6月号(第27巻 通巻311号) > 文学にみる障害者像-フランツ・カフカ著『変身』
佐々木正子(ささきまさこ 「しののめ」編集長)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n311/n311014.html

"George Mitaka /
見鷹祥而"「カフカの『変身』。グレゴール・ザムザを障害者や要介護者と置き換えて読むと、改めてすごい作品であることが分る。この作品の本質は、主人公が死んだ後、家族が晴れ晴れとした気持ちで町に出て行くところにある。ひきこもりでも、受験生でも、病人でもいかようにも置き換え可能。凄まじい人間観察力。」

2013-05-25

『ミレナへの手紙』フランツ・カフカ 著/池内 紀 訳 2013年6月7日刊 ■3465円

フランツ・カフカ著/池内 紀 訳
ミレナへの手紙
税込価格 : 3465円 (本体価格3300円)
ISBN : 978-4-560-08280-5
新編集によって明らかになるミレナとの関係
ジャンル : 海外文学
体裁 : 四六判 上製 342頁
刊行年月 : 2013-06予定
内容 : カフカは手紙に日付を入れる習慣がなかった。ゆえに手紙の排列を間違えて読むと、二人の関係、手紙の持つ意味がまったく変わってくる。
カフカが恋人宛てに書いた、新編集による書簡集。

2013-05-08

カフカ作品における女性像http://hdl.handle.net/10402/era.10962

Title or Caption:The women in Kafka's works: a critical analysis of
the biographical approach
Author or Creator:Mower, Helen Elizabeth.
Subject keyword(s):Kafka, Franz, 1883-1924
Kafka, Franz, 1883-1924
Women in literature
Type of Item:thesis
Language:English
Format(s):Adobe PDF
Description:Submitted to the Faculty of Graduate Studies and Research
in partial fulfilment of the requirements for the degree of Master of
Arts, Department of Germanic Languages.

2013-05-07

福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(東京大学出版会)

A5判 448ページ
定価:5,800円+税
ISBN978-4-13-026234-7 C3021
奥付の初版発行年月:2013年03月 / 発売日:2013年03月上旬

日本の「開国」は、西洋諸国とのあいだのどのような交渉の中で形成されていったのか。多言語史料をもとにこの問いに取り組む本書は、「堂々たる19世紀半ばの東アジア国際関係史であり、プロイセンに代表される新興資本主義勢力の世界進出が生み出す国際的問題を日本に即して浮き彫りにした、グローバルヒストリーとしても通用する作品」として、東京大学南原繁記念出版賞を受賞しました。

19世紀の日本の「開国」は,西洋諸国とのどのような交渉過程で模索されて形成されたのか.本書はプロイセンの東アジア遠征使節オイレンブルクを軸に通商条約締結交渉を明らかにするとともに,東アジア,そして世界情勢の変遷のコンテキストのなかに位置づける国際関係史.【第2回東京大学南原繁記念出版賞】

目次

序章 多言語史料が拓く地平
第一章 一八四〇—五〇年代の東アジア情勢とドイツ諸国——プロイセン東アジア遠征の実施背景について
補 論 遠征の正式決定から使節団来日まで
第二章 幕末開国史と日蘭追加条約——幕府〈開国宣言〉流布の過程
第三章 五ヶ国条約後における幕府条約外交の形成
第四章 対プロイセン条約交渉と開港延期問題の結合
第五章 プロイセンか北ドイツか?——ドイツ諸国の条約参加をめぐる攻防
第六章 日本開国と非条約締結国民——ドイツ系商人の事例
終章 国際関係の動態を解剖する

本書は1860年に日本を訪れたプロイセン使節オイレンブルグと徳川幕府との条約締結交渉に焦点を当てながら、幕末日本の外交政策に新たな光を投げかけ、さらに東アジアの対西洋関係の変化全体についても斬新な展望を提示した研究である。ドイツ語と日本語で書かれた一次史料だけでなく、オランダ語や英語の史料も合わせ使用するという空前の難行に挑んだ仕事であるが、諸史料を手堅く精緻に分析しながら、19世紀中葉における日本と中国の外交政策の変容を多角的な国際政治の展開の中で描出すことに成功している。

全体は序章と終章のほか6章に分かれている。第一章ではプロイセンとハンザ諸都市による使節団の組織とその背景が描かれる。なぜシャム・中国・日本に大規模な使節団を送ったのか、1850年代の東アジアにおける条約秩序の変化と各国の内情、および英仏露やオーストリアなどの大国との対抗関係の分析を通じてこれを説明している。第二章はこの遠征を誘発したオランダ発の訛伝とその役割の分析である。オランダ政府は世界に対し、幕末最初の通商条約、日蘭追加条約の締結に成功した際、日本は諸外国一般との条約締結を約束したと宣伝した。条約当事者における解釈の齟齬、そして遠距離通信におけるタイムラグの役割は外交史の世界ではよく知られる現象であるが、これほど経緯が具体的に説明されることは珍しい。

第三章以下は舞台を日本に移した本論である。まず第三章では、西洋との国交・通商に踏み切った後の日本の外交政策の変化が述べられる。従来の研究では日本の「開国」はいわゆる安政の五ヶ国条約によりほぼ解決されたと理解されてきた。しかし、著者はそれら締結と同時に発生した大政変の後、幕府は締約国を増さない方針に転じたと指摘する。オイレンブルグが到着したのは、先約のあったポルトガルを除き、スイスやベルギーの締結要求を峻拒していたときであった。第四章はオイレンブルグと幕府の交渉過程の前半を扱う。両者は、在日外交団とくに先任公使ハリス(アメリカ)の仲介によって交渉に入り、幕府が国内の攘夷論緩和に必要と考え始めていた五ヶ国条約の内容縮減、すなわち二市二港の開放延期を既締約国全体が受け入れるという交換条件の下に、幕府は条約調印を決意した。ところが、その直後、オイレンブルグがプロイセンに加えてドイツ関税同盟を初めとする30余の諸国との条約締結も要求したため、幕府は窮地に追い込まれた。朝廷に対しいずれ五ヶ国条約を破棄するという密約を結び、それを条件に将軍への皇女降嫁を進めていた最中だったからである。五章はこの紛糾を扱ったものであり、プロイセンとの条約のみが結ばれた経緯、およびその途中に生じた外国奉行の自刃事件が語られる。

第六章は開港地における非条約国民の地位を取り上げ、それを通じて東アジア大の国際秩序の変化について論ずる。アヘン戦争後、清朝はイギリスと結んだ条約で、他の外国人にも開港地への来住と貿易を認めていたが、日本の結んだ条約は非条約国民に一切権利を与えないものであった。この原則はその後、アロー戦争後の清朝の条約にも採用され、これによって東アジアでは条約を結ばない限り開港地で無権利状態になるという体制が成立していった。ドイツ諸国が東アジアに大使節団を派遣したのもこのような事情を背景としていたのである。ただし、実際には、非条約国民は条約国の領事に国籍登録をしてもらったので実害は蒙むらなかったという。

以上を内容とする本論は研究史の大きな空白を埋め、19世紀半ば過ぎの東アジア条約秩序像を大幅に書き換えた。1)日本の外交政策史としては、研究の乏しかった安政五ヶ国条約以後、条約勅許以前について、その性格を既定条約の可及的維持を図った時代として明確に描き出した。2)従来の日本外交史は日本側の外交政策を内政との絡みで描き出すことにもっぱら集中していて、相手側や第三者の政策を軽視してきた。本論は外国側の事情を入念に分析した画期的なものである。3)国際関係を扱った先行研究はほとんどが2国間関係史であり、しかも日英関係のみに焦点を当てたものだった。本研究はドイツだけでなく、オランダ、アメリカ、イギリスの動きも視野に入れ、多角的な競合・対立・協調関係を具体的に描き出すことに成功している。4)日本だけでなく、中国での条約秩序の変遷を参照し、それによって日本の「開国」過程のみでなく、東アジア全体の構造変動に新たな巨視的展望を提示した。5)日本におけるドイツ諸国の認識-統一国家か主権国家の連合体か-や人々の特定国籍への囲い込みの分析は、同時代のヨーロッパや近代世界一般における国家アイデンティティの揺れという興味深い問題について、その一断面を鮮やかに照らし出している。

『カネと文学—日本近代文学の経済史—』

カネトブンガクニホンキンダイブンガクノケイザイシ
カネと文学—日本近代文学の経済史—


山本芳明/著
山本芳明/著
ヤマモト・ヨシアキ

1955年千葉県生れ。1986年東京大学大学院博士課程人文科学研究科国語国文学専門課程単位取得退学。学習院大学文学部教授。著書に『文学者はつくられる』(ひつじ書房)、共編に『編年体大正文学全集別巻
大正文学年表・年鑑』(ゆまに書房)など。

文学はいつから食える職業になったのか——。苦闘の100年を辿る。

明治時代、文士は貧乏の代名詞だった。日露戦争や二度の世界大戦という激動の時代に、その状況はどう変化していったのか。痛ましい生活難をしのぎ、やがて社会的地位を獲得、ついには億を稼ぐ高額所得者が輩出するまで……。日記や書簡、随筆に綴られた赤裸な記録をもとに、近代文学の商品価値の変遷を追うユニークな試み。

発行形態 : 書籍
シリーズ : 新潮選書
判型 : 四六判変型
頁数 : 286ページ
ISBN : 978-4-10-603724-5
C-CODE : 0395
ジャンル : 文学
日本文学の研究
発売日 : 2013/03/29

はじめに
第一章 大正八年、文壇の黄金時代のはじまり
一、あがる原稿料
二、売れる単行本
三、変わる出版販売システム
四、変貌する作家たち その一
五、変貌する作家たち その二
第二章 文学では食べられない!
一、作家と報酬との極めて遠い関係
二、試された啄木の「文学的運命」
三、作家と生活難
四、出版ビジネスのゆくえ
第三章 黄金時代の作家たち
一、島田清次郎とその時代 その一
二、島田清次郎とその時代 その二
三、島田清次郎の栄光と悲惨
四、有島武郎の苦悩 その一
五、有島武郎の苦悩 その二
第四章 円本ブームの光と影
一、黄金時代の終焉
二、縮む文学市場
三、不況下の「新進作家」たち
四、広津和郎の戦い
第五章 文学で食うために
一、芥川賞制定における文藝春秋社の戦略
二、それは[純粋小説論]から始まった
三、流行作家のライフスタイル その一
四、流行作家のライフスタイル その二
五、「純文学」と映画化
六、実践された「純粋小説論」
七、[純文学」と大衆化運動の軌跡 その一
八、[純文学」と大衆化運動の軌跡 その二
第六章 黄金時代、ふたたび
一、単行本がまた売れ出した
二、伊藤整『太平洋戦争日記』の経済学
三、小説家、「現代の英雄」となる
四、不況続きの出版ビジネス
五、作家の高額所得者番付 その一
六、作家の高額所得者番付 その二
七、流行作家のライフスタイル——舟橋聖一の場合
八、「現代の英雄」たちのその後
あとがき

編集者の言葉:文学はいつから食える職業になったのか——。

 明治時代の小説家といえば、森鴎外と夏目漱石の名前がすぐに浮かびます。しかし、文豪と呼ばれる二人でも、専業作家ではありませんでした。森鴎外は陸軍の軍医、漱石は東京帝国大学の講師から、朝日新聞専属の作家になっています。つまり、鴎外にとって作家は副業、漱石は給料をもらって小説を書いていたのです。


『当世書生気質』で日本近代文学の旗手とされた坪内逍遥は、早い段階で作家として活動することを断念し、東京専門学校(後の早稲田大学)の教育者になっています。その逍遥は、文学を職業とする愚を戒める文章さえ発表しています。誰もが知っている漱石の『こころ』や島崎藤村の『破戒』でさえ、最初は自費出版でした。まさしく「文学では食えなかった」のです。


 では、そんな状況が変わりはじめるのは、いつからなのでしょう。日露戦争や二度の世界大戦、関東大震災、世界恐慌など、情勢はめまぐるしく変化します。作家たちの社会的地位や経済状況の変化は、出版ビジネスの発展と密接に関連しています。文学の商品価値が高まれば、必然的に作家のお財布もふくらむわけです。


 明治時代、文士は貧乏の代名詞とさえいわれていたのに、昭和40年代には、億を稼ぐ高額所得者が出現するようになります。明治、大正、昭和にいたる100年に何があったのか。作家たちの日記や書簡、随筆につづられた赤裸な記録をもとに、苦闘の歴史を辿ります。

■書評:波 2013年4月号より

日本近代文学史の風景を塗りかえる

中条省平
(ちゅうじょう・しょうへい 学習院大学教授)


「カネと文学」、凄いタイトルです。文学はカネだ、といっているわけではありません。カネがなければ文学はできない、といっているのです。これでも凄いですね。でも、そういったのは著者の山本教授ではなく、ゾラなのです。ゾラ曰く、
「金銭が作家を解放し、金銭が現代文学を創出したのである」(「文学における金銭」)
 ということは、作家はまずもって食える職業でなければならないのですが、日本では文学の黄金時代のように見える明治の御代にも、作家では食えませんでした。実力・人気ともにナンバーワンの漱石でさえ朝日新聞社員との兼業で食えていたのです。明治41年に国木田独歩が死に、川上眉山が自殺しますが、その要因は経済的貧窮でした。要するに、作家では食えなかったのです。
 そんな状況に変化が生じたのはいつか?
ずばり大正8年だ、と山本教授は断言します。本書は徹底して実証的な記述を積み重ねていきますが、その丹念な資料の博捜の結果なされる断言には千鈞の重みがあり、読者は深く納得させられます。文学史の解説で大正8(1919)年を特筆する本をほかに知りませんが、本書を読んだあとではこの年号を忘れることができないでしょう。著者はカネ、すなわち文学者の経済力をキーワードにして、日本近代文学史の風景をいとも鮮やかに塗りかえてみせます。なんと軽やかな力業でしょう。
 なぜ大正8年なのかという議論は緻密きわまる本書の実証で見ていただくとして、それ以降、文学者の第1期黄金時代を描くにあたって、著者は二人の小説家に対象を絞ります。島田清次郎と有島武郎です。片や大正期最大のベストセラー小説『地上』を書いた天才青年、片や日本人の誰もが知る大文豪です。経済事情を中心にすえて概観するこの二人の生涯の興味深さは格別です。
 島田清次郎、通称島清はいわば新潮社(!)の販売宣伝政策に乗せられてわが世の春を謳歌し、まもなく婦女暴行のスキャンダルに見舞われ、発狂してしまいます。逆に、有島武郎は文学の商業化を拒否して潔癖な出版事業を試みますが、最後は人妻との不倫を夫からカネで清算しろと迫られて、心中に追いやられます。作家の解放の武器であるカネは、両刃の剣だったのです。
 山本史観による日本近代文学史は何度か食える時代と食えない時代が交替するというパースペクティブをうち立てますが、戦前の食えない時代に、食えていた娯楽小説家が次々に過労死した事実も面白いし(失礼!)、戦後の高度経済成長期に作家が「現代の英雄」となっていく経緯を長者番付を駆使して活写するところも本書の読みどころです。
 とくに著者私蔵の舟橋聖一の日記をもとにこの作家の生活を再現し、官能小説家が政財界に力を及ぼした根源が経済力にある、つまりカネだという分析にはじつに説得力があります。日本文学史に新たな展望を開くユニークな労作です。