岩のドームの郵便学2:英領パレスチナの誕生 内藤陽介
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1914年6月、サラエボでオーストリアの皇太子が暗殺されると、翌月、オース
トリアはセルビアに宣戦布告。これを機に、長年にわたる英独両国の対立を背
景に、ドイツとオーストリアの同盟国と、英仏露の連合国の戦争として第一次
世界大戦がはじまった。
開戦当初、オスマン帝国は中立を保っていたが、1914年10月29日、ドイツ(同
盟国)側に立って参戦。この結果、いわゆる中東地域ではオスマン帝国と英仏
両軍の間で戦闘が展開されることになった。
http://blog-imgs-44.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20130125110536235.jpg は、
第一次大戦中にオスマン帝国支配下のパレスチナ・ガザから差し出されたドイ
ツ軍の軍事郵便。
こうした状況の下で、オスマン帝国を中東から駆逐するためには、現地のアラ
ブ勢力の協力を得る必要があると考えた英国は、1915年、預言者ムハンマドの
血を引くハーシム家の当主で、当時のメッカの太守、フサイン・イブン・アリー
(シャリーフ・フサイン)に接触。
カイロ駐在の英国の高等弁務官、ヘンリー・マクマホンとフサインとの間の十
通にも及ぶ往復書簡(フサイン・マクマホン書簡)を通じて、戦争終結後のア
ラブ人国家(フサインはその領域を地中海東岸とアラビア半島、ならびに現在
のイラク全域を含むものと理解した)の建設と引き換えに、現地のアラブ勢力
がオスマン帝国への反乱を起こして英国の軍事行動をサポートするという取引
を成立させる。
この密約に従って、シャリーフ・フサインは1916年6月、オスマン帝国に叛旗
を翻した。いわゆるアラブ叛乱の勃発である。
フサインの第3皇子ファイサルが率いる叛乱側は、はやくも1916年7月にはメッ
カとジェッダでオスマン帝国の守備隊を降伏させたほか、同年9月にはターイ
フも陥落させ、メディナを除くヒジャーズ(アラビア半島北西部の紅海沿岸地
帯)のほぼ全域を制圧した。
ちなみに、
http://blog-imgs-23.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20051210160744.jpg
は叛乱側の支配下で1917年に差し出された郵便物だが、切手は貼られず、臨時
の料金収納の印を押して処理されている。従前どおり、オスマン帝国時代の切
手を使用することはオスマン帝国の支配を認めることになるので認められない
が、新たな切手の発行は間に合わなかったため、このように暫定的な処理を行
わざるを得なかったのである。
さらに、叛乱軍は、メソポタミアの英印軍とも共同して対オスマン帝国のゲリ
ラ戦を展開しながら北上し、翌1917年にはアカバのオスマン帝国軍を撃破し、
エルサレムに進撃。
同年12月、アレンビーひきいる英軍がエルサレムに入城し、パレスチナを軍事
占領下に置いた。ちなみに、当時、70万ともいわれたパレスチナの人口のうち、
ユダヤ系は総人口の1割に満たない約5万6000人だった。
しかし、フサインの叛乱軍が進撃を続けている一方で、1915年から翌16年にか
けて、英仏両国は大戦後の中東の分割についての具体的協議を開始。アラブの
意向を完全に無視して、シリア地域(現在のシリア共和国のみならずレバノン
も含まれる)をフランスの支配圏、パレスチナおよびメソポタミア(現在のイ
ラクとクウェートを合わせた地域がほぼこれに相当する)を英国の支配圏とし、
パレスチナのエルサレムとヤッファ、ガザを含む地域に関しては英仏露三国の
共同管理とするという秘密協定(英国のマーク・サイクスとフランスのジョル
ジュ・ピコとの間でまとめられたので"サイクス・ピコ協定"と呼ばれる)を
調印し、これを帝政ロシアに通知した。
さらに、ロンドンではシオニズム運動を展開していたシオニストたちが、大戦
の勃発を契機に英国政府の支援を取り付けるべく工作を開始した。
シオニズムは、世界各地に離散したユダヤ人が"民族的郷土"であるシオン
の丘(エルサレムの別称)に結集し、ユダヤ人国家を再建しようという政治的
主張で、旧約聖書時代、古代イスラエル国家がパレスチナを領有していたこと
をその根拠として掲げている。
こうした主張は、基本的には神話に依拠したものであり、必ずしも論理的な説
得力をもつものとはいえない。それにもかかわらず、ロシアや東欧諸国でのポ
グロム(ユダヤ人迫害)や、ユダヤ系将校の冤罪事件として広く知られている
ドレフュス事件など、ナショナリズムの昂揚によりユダヤ人への差別や圧力が
強まっていった19世紀のヨーロッパでは、迫害を逃れて安住の地にユダヤ教徒
=ユダヤ人の祖国を建設しようというシオニズムの主張は一定の説得力を持っ
ていた。
その結果、シオニズムは、19世紀にヨーロッパを席捲した国民国家論(一民族
一国家を前提としていた)の一亜流として、ヨーロッパのユダヤ人社会に次第
に浸透していくことになる。
さて、ロシア系シオニストで英海軍省の技術顧問だったハイム・ワイツマンは、
大戦の勃発を機に英国政府にシオニズムへの支援を求めた。結局、これが効を
奏して、1917年10月、英外務省はバルフォア外相から英国・シオニスト連合会
会長のロスチャイルド卿宛の書簡(バルフォア宣言と呼ばれる)を送付し、「
英国政府はパレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の建設に好感を抱いてお
り、この目的の達成を容易にするために最善を尽くすだろう」との声明を発す
るにいたっている。いわゆるバルフォア宣言だ。
当然のことながら、1917年秋になって、あいついで明るみにでたサイクス・ピ
コ協定とバルフォア宣言は、大戦後のアラブ国家独立を求めてオスマン帝国と
戦っていたアラブ側に、英国に対する不信感を抱かせることになった。しかし、
それでも、1918年に入ると、ファイサル率いるアラブ軍とアレンビー率いる英
軍は、共同作戦を展開して勝利を重ね、9月30日にはダマスカスを占領。ファ
イサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言され、戦局の帰趨は決定的となっ
た。
http://blog-imgs-42.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20110114092337c9a.jpg
は、現在のシリア=トルコ国境に近いシリア北部の都市、アレッポから差し出
されたカバーで、この地に進駐していた英国エジプト遠征軍用の切手が無加刷
で使用されている。後に、この地域はフランスの委任統治下に置かれるが、こ
の時点では、イギリスの軍事占領下に置かれていたことが良くわかる資料とい
えよう。
一方、
http://blog-imgs-44.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20120227104617604.jpg
は、アレッポからエルサレム宛に差し出されたカバーで、ファイサル政権の切
手が貼られている。ファイサル政権もまた、オスマン朝時代の切手を接収して
"アラブ政府"と加刷した切手を発行することによって、アラブ政府の存在を
既成事実化しようとした。そして、その試みは、彼らの切手が貼られた郵便物
がエルサレムまで無事、料金不足となることなく(=彼らの切手が国際的に有
効なものとみなされて)届けられたことによって、この時点では、とりあえず
は一定の成果を上げていたといってもよい。
さて、1918年10月30日、オスマン帝国が連合国に降伏。さらに翌11月にはオー
ストリアとドイツも降伏し、第一次大戦は連合国の勝利をもって終結した。オ
スマン帝国を占領下に置いた連合国は、大戦の戦後処理のため、1919年1月か
らベルサイユ講和会議を開催する。
この会議には、アラブ代表としてファイサルもヒジャーズ代表団の団長として
招待されていたが、「列強が中東を支配するのは大義に反する」との彼の主張
はほとんど顧みられることはなく、結局、シリア・パレスチナ地域は
1.英支配の南部OETA(敵国領土占領行政区域:Occupied Enemy Territory
Administration):現在のイスラエル国境とほぼ同じパレスチナ
2.アラブ支配の東部OETA:アカバからアレッポにいたる内陸部、
3.フランス支配の西部OETA:ティールからキリキア(シリアとトルコの国
境地帯で、現在はトルコ領)にいたるレバノンとシリアの海岸地帯
に分割されることになった
http://blog-imgs-44.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20130125111950c12.jpg
は、その南部OETAに組み込まれたパレスチナから1919年1月20日に差し出
された葉書で、消印は不鮮明だが、OETAの文字とエルサレムの地名表示の
一部が読み取れる。なお、貼られている切手は、この時期の中東における他の
英軍占領地同様、英国エジプト遠征軍用の切手である。
一方、会議にはシオニスト代表としてワイズマンが出席し、パレスチナをユダ
ヤ人が排他的に支配することを主張していた。結局、"パレスチナ"の範囲は
ワイズマンの主張よりも大幅に縮小されたが、会議では、バルフォア宣言に従
い、パレスチナを英国の委任統治領としてシオニストの移民を受け入れ、将来、
シオニストに対して自治を付与するという大枠が決定される。
しかし、ダマスカス陥落とともにファイサルを首班とするアラブ政府の樹立を
宣言していたシリアの民族主義者たちは、列強によるシリア・パレスチナの分
割を不服として、講和会議終了直後の同年7月、ダマスカスで汎アラブ会議(
シリア国民会議)を開催。東部OETAのみならず、シリア・パレスチナ全域
の主権と独立ならびにファイサルを国王とする立憲君主制国家の樹立等を決議
する。
これに対して、フランスはシリアに対する自国の権利を主張して譲らなかった
ため、大戦中の密約に基づいて独立を求めるアラブ側との板挟みになった英国
は、同年九月、シリア地方からの撤兵を表明。同年11月以降、西部OETAで
はフランス軍が、東部OETAではアラブ軍が、それぞれ、英国に代わって占
領行政を担当することになった。
これを受けて、翌1920年3月、ダマスカスでシリア国民大会が開催され、ファ
イサルを国王とする立憲君主国"アラブ王国"の独立が宣言された。
しかし、英仏両国はアラブ王国の存在を無視し、1920年4月に始まったサンレ
モ会議は、フランスには旧オスマン帝国のシリア(現在のレバノンを含む)の
統治を、英国にはパレスチナ(現在のヨルダンを含む)とイラクの統治を、そ
れぞれ国際連盟が委任するという、サイクス・ピコ協定そのままの内容が正式
に決定された。この結果、アラブ支配の東部OETAも、それぞれ、英仏の委
任統治領として分割されることになる。
この決定を受けて、同年6月、英仏両国は、それぞれの勢力圏内での委任統治
を開始する。全シリアを軍事占領したフランスは、同年7月、ファイサルを放
逐してアラブ王国を崩壊させた。
当然、アラブ側は英仏に対する不信感を募らせ、ファイサルの兄・アブドゥッ
ラーは、同年11月、パレスチナで大規模な反仏闘争の開始を宣言。ダマスカス
攻略をめざしてヨルダン川東岸に兵を進めた。
一方、1920年7月、パレスチナによる英国の統治が実質的にスタートすると、そ
の最高責任者である高等弁務官としてハーバート・サミュエルが着任する。
サミュエルは、当初、自らもシオニズムの支持者として、パレスチナへのユダ
ヤ人の移民枠を年間1万6500人と規定する。
この移民枠いっぱいにユダヤ人の入植が行われると、アラブが9割を占めてい
たパレスチナの人口構成は、40年足らずのうちにユダヤ人が半数を占めること
になるため、パレスチナのアラブはサミュエルの決定に憤激。1921年4-5月に
かけて、パレスチナ各地で大規模な反ユダヤ暴動が発生。死傷者は3000名を越
えた。
アラブの暴動に直面して事態の収拾に迫られたサミュエルは、一転してパレス
チナへのユダヤ人移民の受け入れの一時凍結を発表してしまう。こうした英国
当局の場当たり的な姿勢は、当然のことながら、今度はシオニスト側の不信感
を醸成することになる。
結局、フランスとの衝突を回避するためにも、アラブ勢力に対する一定の譲歩
を余儀なくされた英国は、みずからの委任統治領となった地域において
1.メソポタミアを"イラク王国"として独立させ、ファイサルを国王に就任さ
せる
2.イラク以西のヨルダン川東岸地域には、新たに"トランスヨルダン王国"を
創設し(同国の正式な成立は1923年5月)、ダマスカス攻撃の中止を条件にア
ブドゥッラーを即位させる
3.英委任統治領としての"パレスチナ"の領域はヨルダン川以西の地中海沿岸
地域とし、この地域ではバルフォア宣言の約束どおり、ユダヤ人国家の独立を
めざすユダヤ人移民の受け入れを容認する、
という解決策を提案。結局、ファイサルとアブドゥッラーもこの提案を受け入
れ、旧オスマン帝国のアラブ地域の分割は、一応の決着を見ることになった。
英国によるパレスチナの委任統治が正式にスタートしたことを受けて、1920年
9月、パレスチナでは、それまで無加刷で使用されていたエジプト遠征軍用の切
手に、(上から)アラビア語・英語・ヘブライ語の三か国語で"パレスチナ"
と加刷した切手が発行された。
http://blog-imgs-23.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20070802005127.jpg
一方、"パレスチナ"から切り離されるかたちで創設されたトランスヨルダン
でも、当初は、エジプト遠征軍用の切手の切手に"東ヨルダン("トランスヨ
ルダン"はヨルダン川の向こう側という意味で、東ヨルダンと同義である)"
と加刷した切手が使われていた。
http://blog-imgs-23.fc2.com/y/o/s/yosukenaito/20070524232007.jpg は
その実際の使用例で、1926年6月7日、ヨルダン北部のエル・ホスンからカイ
ロ宛に差し出された郵便物
いずれにせよ、現在の中東の国境が確定されていく過程で、当初、英国の占
領ないしは支配地域ではエジプト遠征軍用の切手が幅広く使われていたわけだ
が、次第に、それらに代わって各地で独自の図案の切手が発行されていくこと
になる。
英領パレスチナで岩のドームを描く最初の切手もまた、そうした経緯を経て
発行されることになるのだが、そのあたりの事情については、次回、詳しく説
明することにしよう。
◎内藤陽介(ないとう・ようすけ)
1967年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。
フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や
地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し研究・著作活動を続けている。主
な著書に、戦後記念切手の読む事典<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵
趣出版、全7巻+別冊1)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『
切手と戦争』(新潮新書)、『皇室切手』(平凡社)、『満洲切手』(角川選
書)、『大統領になりそこなった男たち』(中公新書ラクレ)など。最新作『
喜望峰 ケープタウンから見る南アフリカ』彩流社 電子書籍で「切手と戦争
もうひとつの昭和戦史」復刊
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