2013-05-07

福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』(東京大学出版会)

A5判 448ページ
定価:5,800円+税
ISBN978-4-13-026234-7 C3021
奥付の初版発行年月:2013年03月 / 発売日:2013年03月上旬

日本の「開国」は、西洋諸国とのあいだのどのような交渉の中で形成されていったのか。多言語史料をもとにこの問いに取り組む本書は、「堂々たる19世紀半ばの東アジア国際関係史であり、プロイセンに代表される新興資本主義勢力の世界進出が生み出す国際的問題を日本に即して浮き彫りにした、グローバルヒストリーとしても通用する作品」として、東京大学南原繁記念出版賞を受賞しました。

19世紀の日本の「開国」は,西洋諸国とのどのような交渉過程で模索されて形成されたのか.本書はプロイセンの東アジア遠征使節オイレンブルクを軸に通商条約締結交渉を明らかにするとともに,東アジア,そして世界情勢の変遷のコンテキストのなかに位置づける国際関係史.【第2回東京大学南原繁記念出版賞】

目次

序章 多言語史料が拓く地平
第一章 一八四〇—五〇年代の東アジア情勢とドイツ諸国——プロイセン東アジア遠征の実施背景について
補 論 遠征の正式決定から使節団来日まで
第二章 幕末開国史と日蘭追加条約——幕府〈開国宣言〉流布の過程
第三章 五ヶ国条約後における幕府条約外交の形成
第四章 対プロイセン条約交渉と開港延期問題の結合
第五章 プロイセンか北ドイツか?——ドイツ諸国の条約参加をめぐる攻防
第六章 日本開国と非条約締結国民——ドイツ系商人の事例
終章 国際関係の動態を解剖する

本書は1860年に日本を訪れたプロイセン使節オイレンブルグと徳川幕府との条約締結交渉に焦点を当てながら、幕末日本の外交政策に新たな光を投げかけ、さらに東アジアの対西洋関係の変化全体についても斬新な展望を提示した研究である。ドイツ語と日本語で書かれた一次史料だけでなく、オランダ語や英語の史料も合わせ使用するという空前の難行に挑んだ仕事であるが、諸史料を手堅く精緻に分析しながら、19世紀中葉における日本と中国の外交政策の変容を多角的な国際政治の展開の中で描出すことに成功している。

全体は序章と終章のほか6章に分かれている。第一章ではプロイセンとハンザ諸都市による使節団の組織とその背景が描かれる。なぜシャム・中国・日本に大規模な使節団を送ったのか、1850年代の東アジアにおける条約秩序の変化と各国の内情、および英仏露やオーストリアなどの大国との対抗関係の分析を通じてこれを説明している。第二章はこの遠征を誘発したオランダ発の訛伝とその役割の分析である。オランダ政府は世界に対し、幕末最初の通商条約、日蘭追加条約の締結に成功した際、日本は諸外国一般との条約締結を約束したと宣伝した。条約当事者における解釈の齟齬、そして遠距離通信におけるタイムラグの役割は外交史の世界ではよく知られる現象であるが、これほど経緯が具体的に説明されることは珍しい。

第三章以下は舞台を日本に移した本論である。まず第三章では、西洋との国交・通商に踏み切った後の日本の外交政策の変化が述べられる。従来の研究では日本の「開国」はいわゆる安政の五ヶ国条約によりほぼ解決されたと理解されてきた。しかし、著者はそれら締結と同時に発生した大政変の後、幕府は締約国を増さない方針に転じたと指摘する。オイレンブルグが到着したのは、先約のあったポルトガルを除き、スイスやベルギーの締結要求を峻拒していたときであった。第四章はオイレンブルグと幕府の交渉過程の前半を扱う。両者は、在日外交団とくに先任公使ハリス(アメリカ)の仲介によって交渉に入り、幕府が国内の攘夷論緩和に必要と考え始めていた五ヶ国条約の内容縮減、すなわち二市二港の開放延期を既締約国全体が受け入れるという交換条件の下に、幕府は条約調印を決意した。ところが、その直後、オイレンブルグがプロイセンに加えてドイツ関税同盟を初めとする30余の諸国との条約締結も要求したため、幕府は窮地に追い込まれた。朝廷に対しいずれ五ヶ国条約を破棄するという密約を結び、それを条件に将軍への皇女降嫁を進めていた最中だったからである。五章はこの紛糾を扱ったものであり、プロイセンとの条約のみが結ばれた経緯、およびその途中に生じた外国奉行の自刃事件が語られる。

第六章は開港地における非条約国民の地位を取り上げ、それを通じて東アジア大の国際秩序の変化について論ずる。アヘン戦争後、清朝はイギリスと結んだ条約で、他の外国人にも開港地への来住と貿易を認めていたが、日本の結んだ条約は非条約国民に一切権利を与えないものであった。この原則はその後、アロー戦争後の清朝の条約にも採用され、これによって東アジアでは条約を結ばない限り開港地で無権利状態になるという体制が成立していった。ドイツ諸国が東アジアに大使節団を派遣したのもこのような事情を背景としていたのである。ただし、実際には、非条約国民は条約国の領事に国籍登録をしてもらったので実害は蒙むらなかったという。

以上を内容とする本論は研究史の大きな空白を埋め、19世紀半ば過ぎの東アジア条約秩序像を大幅に書き換えた。1)日本の外交政策史としては、研究の乏しかった安政五ヶ国条約以後、条約勅許以前について、その性格を既定条約の可及的維持を図った時代として明確に描き出した。2)従来の日本外交史は日本側の外交政策を内政との絡みで描き出すことにもっぱら集中していて、相手側や第三者の政策を軽視してきた。本論は外国側の事情を入念に分析した画期的なものである。3)国際関係を扱った先行研究はほとんどが2国間関係史であり、しかも日英関係のみに焦点を当てたものだった。本研究はドイツだけでなく、オランダ、アメリカ、イギリスの動きも視野に入れ、多角的な競合・対立・協調関係を具体的に描き出すことに成功している。4)日本だけでなく、中国での条約秩序の変遷を参照し、それによって日本の「開国」過程のみでなく、東アジア全体の構造変動に新たな巨視的展望を提示した。5)日本におけるドイツ諸国の認識-統一国家か主権国家の連合体か-や人々の特定国籍への囲い込みの分析は、同時代のヨーロッパや近代世界一般における国家アイデンティティの揺れという興味深い問題について、その一断面を鮮やかに照らし出している。