2010-03-29

『イメージの修辞学――ことばと形象の交叉』


評者◆高山 宏
新世紀のレトリケーの誕生――この半世紀の批評ブームの本質に関心ある人々は必読!
イメージの修辞学――ことばと形象の交叉
西村清和
No.2959 ・ 2010年03月27日




 ロラン・バルトの事故死は少し遠いこととしても、フーコー病没、ドゥルーズ自殺にデリダ、ボードリヤール今は亡く、そして批評の季節の幕あけ役だったレヴィ=ストロースの死をもって熱気の終りがいよいよ実感となりつつある。次は何? というさもしい輸入業者・消費者根性にいやでも一息入り、結局この半世紀の息せききったような批評ブームって何だったのか冷静に総括し、次につなげてくれるような仕事が出てきてよいタイミングだと思っていたところに田中純『都市の詩学』、『政治の美学』と競い合うように西村清和氏の大冊が登場してきた。処女作『遊びの現象学』(一九八九)以来、笑い、視線、虚構、現代芸術、ゲームといった一連のテーマに壮大な哲学的背景を見ようとしてきた著者ではあり、十七・十八世紀を中心に古今東西の文学・美術・映像の歴史全般を、この半世紀の批評ブームの重要作品を通して検証しようとすると聞くだに質量ともに大著ならざるはない。大判五百ページに、天才的美学者の十年の研鑽が充満。いかに徹底し周到を極めた記念碑的著作であるかは目次を一瞥すれば分かる。「ことば」と「イメージ」の関係を通して近現代を語り抜いた美学書ということでは、アンドレアス・キルヒャー『マテーシスとポイエーシス』(二〇〇三)に匹敵する新千年紀劈頭の巨篇である(ということが分かるのに、この国ではやっぱりあと十年はかかるだろう)。
 タイトルに謳う修辞学は比喩ではない。本邦に限らず昨今は西欧でもそこの素養が欠け落ちたために人文科学が電子情報に翻弄されて右往左往している文字通りの修辞学のことだ。皮肉なことに電子メディア論の王たるマクルーハンは実は古今の修辞学の巨匠たることをぼくらは彼の『グーテンベルグの銀河系』や『メディアの法則』で改めて肝に銘ずべきだ。
 西村氏が修辞学の伝統を今日に活かそうとして繰りだすのはレセプション理論(受容美学)とナラトロジー(物語論)である。現代思想といえばフランスという形で覆われてきた二十世紀後半、ドイツ解釈学が更にアメリカに渡って受容美学をうみ、米独で読者理論をうんだ動きは、哲学プラス修辞学ということで日本人ファンの一番苦手なところと見えて紹介以上の定着をみない。ましてや学界で一般的なイメージ軽視ということも手伝って美術・映像文化史の方で受容理論はなかなか本格化してこなかった。

画の受容美学ということで西村氏が一番依拠する同時代美学者ヴォルフガング・ケンプは、一九七〇年代以降の文学理論が受容美学、読者論によって経験しえたパラダイム変換が美術史学の関与なしに生じた事態を猛省すべきだと言っているのだそうだ。ことばの意味はそれを使い、受けとる人間の存在を俟ってはじめて成立する制度だというところに立ってフーコー文化史もポストモダン批評も出発した。ほぼ一九六〇年代のこと。しかるに映画論の一部が、見る人間、受容者を俟って成立する意味論をとりあげたくらいで、広義の美術史・イメージ研究はこれを信じられないくらい怠ってきた、と西村氏は一喝する。そこに気付いてスヴェトラーナ・アルパースが『描写の芸術』を発表して、いわゆる「新美術史」学が出発したのが一九八三年。アルパース、バクサンドール、ノーマン・ブライソンら「新美術史」の気鋭たちの仕事がこれほど所を得てバランスよく紹介されたのはこれが初めてで、今なおマイケル・フリードの名著『没入と劇場』(一九八〇)もブライソンの『ことばとイメージ』(八一)も未紹介未翻訳の本邦学界の怠慢には呆れはてる。
 そもそも「イメージ」とは何なのかから徹底的に(認知心理学まで含めて)語り起こし、その「ことば」との重なりと違いを述べ、パラゴーネ(画文優劣論)、エクフラシス(画文共鳴論)など、「ことばとイメージ」を考える伝統的テーマを残らず拾う原理論と、ことばのアートたる小説について受容理論的に得られた視点、叙法、人称、描写の問題を映画について見る。これが半分。残る半分がいわゆる美術史について同じアプローチができるか検証する実験の紙幅である。中世のミニアチュールや聖像画からルネサンスを経て現代にいたる西村流受容美術史はそれだけでも壮観で、昔ジョン・バージャーの『イメージ』邦訳に伊藤俊治氏が付録(?)付けた厖大な伊藤流美術史の一大パノラマを思いだした。そして我々日本人が西欧流「ことばとイメージ」感覚と出会った場としての明治年間の小説と挿絵の関係論が資料的にも非常に貴重である。
 受容理論に限らずこの半世紀の批評ブームの本質に関心ある人々は必読しなければならない。知っている批評家がほとんど全部出てくる賑やかさも楽しいが、彼らにも「混同」や「あやまり」がいかに多いかという丁寧な指摘が次々に繰り返されるのを目のあたりに、注ぎこまれた十年の威力と、待望の新世紀のレトリケーの誕生を心からことほぐものである。
(国際日本学)