2013-06-03

『マルセル・プルーストの誕生 新編プルースト論考』

(Valentin-Louis-Georges-Eugène-Marcel Proust, 1871年7月10日 - 1922年11月18日)


鈴木道彦(フランス文学者) 作者の全体像を求めて
2013.6.2 08:41産経新聞「翻訳机」欄
鈴木道彦氏

鈴木道彦氏

 いろいろな翻訳を手がけてきたが、最も時間をかけたのはやはりプルーストの作品である。

 彼の『失われた時を求めて』は、邦訳で1万枚にも及ぶ大作で、その全訳に挑戦するのはかなり勇気が要る。とくに優れた英訳を出したスコット=モンクリフがこれを完成できずに他界して以来、戦前には日本でも早世した訳者がいて、プルーストの翻訳は命取りになるという伝説さえ生まれた。

 だから私も最初に全訳を打診された40歳代には、容易に引き受ける決心がつかなかった。決断したのは50歳代半ば、実際に取り組んだのは60歳を過ぎてからである。読者のためにはあまり間隔をおかずに出すのが望ましいから、まず作品全体の構成を把握できる形に編集した2巻の抄訳を刊行し、ある程度準備を整えた後に、年3冊のペースで13巻の全訳をスタートさせた。完結したのは2001年。私は70歳を超えていた。

 しかもそれからさらに3巻の文庫版抄訳、13巻の文庫版全訳と続いたので、すべて完了した2007年には、最初の抄訳から15年が経過していた。かくて19歳で発見したこの小説は、私の一生を左右するものになったのである。

 これはプルーストが目指した唯一の作品とも言えるもので、19世紀末から第一次世界大戦後までを生きた自分の生涯を、形を変えて全面的に描き出そうと試みたものだ。喘息(ぜんそく)病みで、同性愛者で、足繁(しげ)く社交界に通うスノブで、母を通じて半分ユダヤ人だった彼は、またこの大作を書くために生涯を捧(ささ)げた人物でもあった。そうした彼の姿は、単に主人公だけではなく、多くの登場人物に投影されて、虚構の作品全体から浮かび上がってくる。

 そこから、このように壮大な自画像を描いた実在のプルーストはどんな人物か、という興味が湧くのは自然なことである。これまでに彼について数種類の分厚い伝記が書かれたのは、その関心の表れだった。私がかつて一連の論文で試みたのも、現実の作者がどのように想像の作品になり、想像の作品が現実の作者のどんな真実を照らしているかを探るもので、その主要な文章は、最近上梓(じょうし)した『マルセル・プルーストの誕生』(藤原書店)に収められている。いわば私はそのような形で、プルーストの全体像を模索していたのだ。

 しかし考えてみれば、『失われた時を求めて』は作者自身による生涯の全体化である。だから私が手探りで試みるよりも、まずは作者の目指した全体像を読めるようにするのが先決だろう。そう気づいた私は、当時まだ難解晦渋(かいじゅう)な作家と敬遠されていたプルーストを、できるだけ読みやすい日本語にしようと決断したのだった。

 スコット=モンクリフと違って、私は何とか完成できたが、これで私の翻訳人生が終わったわけではない。今は4人の共訳者と、サルトルの大作『家の馬鹿息子』に取り組んでいるところだ。

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【プロフィル】鈴木道彦

 すずき・みちひこ 昭和4年、東京生まれ。東京大文学部仏文科卒業。一橋大、獨協大教授を経て、獨協大名誉教授。著書に『プルーストを読む』(集英社新書)、『マルセル・プルーストの誕生』(藤原書店)、訳書にサルトル『嘔吐(おうと)』(人文書院)など。プルースト『失われた時を求めて』全13巻の翻訳で2001年度の読売文学賞と日本翻訳文化賞受賞。同書の2巻本抄訳、3巻本抄訳、文庫版全訳もある(集英社)。

●鈴木道彦(すずき・みちひこ)
1929年東京で生まれる。東京大学文学部仏文科卒。一橋大学、獨協大学教授を経て、獨協大学名誉教授。
著書に『サルトルの文学』(紀伊國屋書店)、『アンガージュマンの思想』(晶文社)、『異郷の季節』(みすず書房)、『越境の時』(集英社)、『プルーストを読む』(集英社)、『プルースト「失われた時を求めて」を読む』(NHK出版)など。
翻訳にニザン『陰謀』(晶文社)、サルトル『嘔吐』(人文書院)、『家の馬鹿息子』第1、2、3巻(共訳)(人文書院)など。
プルースト『失われた時を求めて』全13巻の個人全訳で、2001年度の読売文学賞と日本翻訳文化賞を受賞。この全訳はヘリテージ文庫に収められているほか、2巻本の抄訳、3巻本の文庫版抄訳もある(いずれも集英社)。

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2013/6/2日経新聞「読書」欄 【野崎歓氏】

■作家の全体像を探る論考

 高度な専門研究でありながら、文学に興味がある読者であればだれもが面白く読むことができ、そして得るところの大きい本だ。それは何よりも、人生および社会の「全体」に関わるものとして作品を読み、そこに人間にとって切実な意味の創造を見出そうとする著者の姿勢によるものである。

人間プルーストの全体像を探る探究に身を投じた。喘息もちのひ弱な少年が、いかにして巨大な作品の書き手となっていったか。その過程に働いた様々なメカニズムを解き明かす分析は説得力があり、人間論、社会文化論としての堂々たる骨格を備えている。他方、作品の翻訳可能性をめぐる、経験に即した議論も、実に興味深い。
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マルセル・プルーストの誕生
新編プルースト論考
鈴木道彦
四六上製 544ページ
ISBN-13: 9784894349094
刊行日: 2013/04
定価: 4,830円

『失われた時を求めて』個人全訳者によるプルースト論の決定版

◎『失われた時を求めて』発刊百周年記念
プルーストにおける「私」とは何か。個人全訳を成し遂げた著者が、20世紀最大の「アンガージュマン」作家としてのプルースト像を見事に描き出し、文学・芸術界におけるこの稀有な作家の「誕生」の意味を明かす。長大な作品の本質に迫り、読者が自らを発見する過程としての「読書」というスリリングな体験に誘う名著。

■序章より
振り返ると、若いときにプルーストに出会ったということは、私の一生の方向を決める大きな事件だった。だから私の人生は彼によって作られたのだという気さえするくらいである。しかもプルーストは『見出された時』のなかで、自分の本を読む読者は、実は読者自身を読んでいるのだということを、繰り返し述べている。最初に『失われた時を求めて』を通読した学生時代から、私はその言葉を信じて、彼のなかに自分を読みこんできた。したがって、私はプルーストによって作られながら、同時に自分のプルーストを作ってきたとも言えるだろう。


■目次

【口絵8頁】
序章 プルースト遍歴

I 『囚われの女』をめぐって
 無名の一人称
 コミックの誕生

II 実人生と作品
 イサクと父親
 ソドムを忌避するソドムの末裔
 不在の弟――「ロベールと仔山羊」をめぐって
 喘息の方舟
 あるユダヤ意識の形成

III 幼少期のプルースト
 マルセル・プルーストの誕生

IV 翻訳の可能性
 スノビスムの罠
 コンブレーの読書する少年
 翻訳の可能性――『失われた時を求めて』の全訳を終えて

 注/プルースト略年譜/人名索引