財団
オスカル・ラインハルトは1940年10月10日、「オスカル・ラインハルト財団」を設立しました。
この財団は、「コレクションが常に、できるだけ永続的に、ラインハルトの故郷ヴィンタートゥールに留まり続けてほしいという[途中略]願いと意思」から生まれました。
(財団憲章の説明文言) 財団は当初、「主に19世紀のスイス、ドイツ、オーストリアとその他の、フランスの巨匠を除く巨匠の絵画」のみを所持していました(財団憲章第3章)。
ラインハルトが亡くなるまでに、さらに多くの絵画や彫刻が到着し、その後は遺言書の指示に従い、スケッチ、水彩画、版画が追加されました。
財団の目的
財団の目的は、1940年10月10日の財団憲章第4章の中で定義されています。
それによると、1940年に財団に集まった芸術作品と、ラインハルトの亡くなった1965年に追加となった絵画、スケッチ、彫刻、版画作品はすべて、「永続的に、変わらない形で一緒に保管し、広い範囲の一般大衆が自由に鑑賞することができるようにし、これにより、良い芸術の精神を唱道する」ということです。
様々な例外規則を除き、財団の目的を実現するために、オスカル・ラインハルト財団のコレクションは、「永続的に、[途中略]ヴィンタートゥールの古いギムナジウムに置かれ」なければいけません。
(財団憲章第4章)
オスカル・ラインハルトコレクション「アム・レマーホルツ」
オスカル・ラインハルトコレクション「アム・レマーホルツ」
オスカル・ラインハルトの「アム・レマーホルツ」にあるヨーロッパの名作は、古代のものから20世紀初頭のものまでです。
重点が置かれているのは、フランスの絵画の中でも19世紀のもので、さらに古い芸術の重要な例により補完されています。
コレクションはオスカル・ラインハルトの私邸で保管されており、これは20世紀前半のプライベートコレクションの典型的な例で、ドイツとアメリカでは同じような方向性のものが確認されていました。
オスカル・ラインハルトは1958年に邸宅とコレクションを、遺言書でスイス連邦に譲り渡しました。 1965年の死後、この資産は、少量の改築を経て受け継がれました。
www.roemerholz.ch
コレクター
オスカル・ラインハルト(1885年-1965年)は、スイスの芸術品コレクターで、ヴィンタートゥールの貿易族の末裔でした。
彼の母リリー・ラインハルト・ヴォルカルト(1855年-1916年)は、祖父の会社で1851年創立のGebrüder
Volkart社を所有したまま結婚しました。
彼の父テオドール・ラインハルト(1849年-1919年)は同社を拡大し、インド・ヨーロッパ間の貿易の先鞭をつけ、成功を収めました。
オスカル・ラインハルトは職業訓練校時代の1907年に、古来のものから新しいものまでの印刷された絵を集め始め、父が亡くなった後、父の絵画コレクションを入手しました。
1924年までは勢い盛んでしたが、その後1939年までは、商社Gebrüder Volkartの静かな共同経営者でした。
こうして、兄のゲオルク(1877年-1955年)が1952年まで会社を切り盛りしている間、芸術品コレクションと、ゴットフリート・ケラー財団のような様々な委員会の活動に身を捧げました。
1924年、オスカル・ラインハルトは邸宅「アム・レマーホルツ」を獲得し、ここを終の棲家にするため改築し、選りすぐりの芸術作品を揃えました。
1936年、ラインハルトはミュンヘンの美術品商フリッツ・ナサンのスイスへの脱出を手伝いました。
1941年、フリッツ・ナサン、ヴァルター・ファイルヒェンフェルトと共に、マックス・リーバーマンの未亡人のスイス脱出が成功するよう尽力しました。
また、ナチスが完全に支配していた時代、提供元の怪しい芸術作品は購入しないように注意していました。
最終的にラインハルトは、警察関係の圧力下にありながら、1940年10月10日、ヴィンタートゥールで「オスカル・ラインハルト財団」を設立し、18世紀から20世紀初期までのドイツ、オーストリア、スイスの芸術家の作品を集めました。
戦争による混乱のせいで、財団のために美術館に移築された、Stadtgartenのギムナジウムが1951年にようやく開院した。
古ドイツ、オランダ、イギリス、イタリア、スペイン、フランスの絵画全品は、ラインハルトの私邸「アム・レマーホルツ」に残ったままでしたが、ラインハルトが亡くなった1965年にスイス連邦に渡り、版画コレクションは遺言により、「オスカル・ラインハルト財団」のものとなりました。
コレクション
オスカル・ラインハルト美術館は、18世末から20世紀中葉までの、ドイツ、オーストリア、スイスの約500の絵画と彫刻と、15世紀から20世紀までの版画作品と手書き作品7000点を所蔵しています。
19世紀のドイツ芸術の分野では、量でも質でも、世界の先を行く組織は、ドイツの外にあります。
コレクションに関して信頼できたのは、ユリウス・マイヤー=グレーフェ、フーゴ・フォン・チューディ、アルフレッド・リヒトヴァルクが1906年にベルリンの「世紀のドイツ芸術展示会」で適用した基準でした。
この展示会には、スイス及びオーストリアの芸術家の作品もありました。
この展示には重要な意義がありました。ドイツ絵画に新しい評価を下したのです。アカデミックなものや歴史的で気高いものはすべて排除され、代わりにロマン主義の詩的な絵画作品、写実主義の生き生きした自然感、ずば抜けた「真に迫ったもの」が登場しました。
同時に、この展示のおかげで、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、ゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング、カール・ブレッヒェンが忘却の彼方に追いやられ、その一方でハンス・フォン・マレー、ヴィルヘルム・ライブル、ハンス・トーマが初めて国を超えて紹介されましたのは意味のあることでした。
オスカル・ラインハルトはこの伝説的な「世紀の展示」を見ました。そして、生きている過程の中で、展示していた20を超える作品を、自分のコレクションにまとめました。その中には、アルノルト・ベックリン、ヴィルヘルム・ライブル、アンゼルム・フォイエルバッハの著名な絵画があります。
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