2011-10-27

高橋悠治『カフカノート』『カフカ/夜の時間——メモ・ランダム』(2011年10月21日発行)

『カフカノート』
A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/224頁
定価 3,360円(本体3,200円)
ISBN 978-4-622-07640-7 C0073
2011年10月21日発行

■内容紹介
「この本はカフカのノートブックから集めた36の断片の束であり、カフカについてのノートでもある。1990年の批判版全集のテクストにより、ドイツ語原文と日本語のどちらでも上演可能。日本語訳は、パラグラフ、句読点、歌の場合は音節数もできるだけ原文に近づけた」

構成・作曲を手がけた舞台「カフカノート」にむけて書かれたスコア、対訳台本、制作ノートを収録。
カフカはピアニスト高橋悠治をささえる影の思索者。すすみ、停まり、曲がり、途絶えてはまたつづく、その書きかたをなぞるように翻訳されたカフカ。ことばの向こうにカフカの姿が見えてくる。

■目次
I カフカノート(スコア)

II 掠れ書き(制作ノート)
「カフカノート」の準備
カフカのことばを歌う
「カフカノート」の作曲
テクストと音楽……遅延装置
「カフカノート」の後に

III カフカ断片(対訳台本)


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『カフカ/夜の時間——メモ・ランダム』
A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/208頁
定価 3,360円(本体3,200円)
ISBN 978-4-622-07641-4 C0073
2011年10月21日発行


■内容紹介

夜のこわさ。夜でないこわさ。
ひとことでいい。もとめるだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きている、待っているというしるしだけ。いや、もとめなくていい。一息だけ。一息もいらない。かまえだけ。かまえもいらない。おもうだけで。おもうこともない。しずかな眠りだけでいい。
……………カフカ

はじまりは病室の闇で読んだカフカ。読みなおされ、書きなおされ、翻訳しなおされてゆくカフカとの濃密な時間が、まじりけのないことばで書き留められている。高橋悠治の書きかた、音楽のつくりかたの秘密にみちた一冊。

晶文社より出版された初版(1989年)に「「カフカ」ノート 2」を加え、「新版へのあとがき」を付して新たに刊行。

■目次
夜の時間(カール・クラウス)


病気・カフカ・音楽
「カフカ」ノート 1
可不可
「カフカ」ノート 2

 ii
明恵上人 夢記切(声明のために)
レナード・バーンステインの「平和のためのミサ」によせて
水牛 1
水牛 2
パイクラッパー——ナムジュン・パイクの「風呂敷天下」

 iii
「馬の頭は永遠に向った」作曲ノート
音に向かって
メモ・ランダム
グレン・グールドの死の「意味」?
ランダム・アクセス・メモリーとなった音楽
「カルメンという名の女」(ゴダール)
写真集「ベイルート」(ゾフィー・リステルヒューバー)
「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」(ストローブ=ユイレ)
「緑のアリが夢見るところ」(ヘルツォーク)

あとがき
新版へのあとがき

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■著者 高橋悠治 たかはし・ゆうじ ※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
1938年東京に生まれる。作曲家・ピアニスト。桐朋学園短期大学作曲科中退。柴田南雄、小倉朗、ヤニス・クセナキスに作曲を師事。ドイツを経てニューヨークに渡り、コンピュータによる作曲を研究、そのかたわら欧米各地で演奏活動を行う。1973年に一柳慧、柴田南雄、武満徹、林光、松平頼暁、湯浅譲二とともにグループ「トランソニック」を組織、季刊誌「トランソニック」を編集。1978年タイの抵抗歌を日本に紹介するために水牛楽団を結成し、月刊「水牛通信」を発行。現在はウェブサイト「水牛」http://www.suigyu.com/内で執筆。CDに『バッハ:ゴルトベルグ変奏曲』『クセナキス&メシアン:ピアノ作品集』『solo』『モンポウ:沈黙の音楽』『ブゾーニ:ソナティナ集』『高橋悠治』1-4『猫の歌』(歌:波多野睦美、2011)など。著書に『音の静寂
静寂の音』(平凡社、2004)『きっかけの音楽』(みすず書房、2008)『高橋悠治
対談選』(ちくま学芸文庫、2010)『カフカノート』(みすず書房、2011)など。

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■2冊の刊行を記念したトークイベント「カフカ×高橋悠治×保坂和志 わたしたちの書きかた/つくりかた」

2011年10月22日(土)、神楽坂から神保町に移ってきたスタジオ・イワトにて

それぞれの作品から、創作する意志の根底に通い合うものがあるのがわかる。
ふたりのなかにはいつもカフカがいる、というわけで、「カフカ×高橋悠治×保坂和志 わたしたちの書きかた/つくりかた」のトークが実現したのでした。
高橋さんのピアノ伴奏と声楽家・波多野睦美さんによる「夜の時間」(作曲:高橋悠治、ことば:カール・クラウス)の演奏で始まったこの日。
ことばが表すイメージをなぞるように言葉を選びながら問いかけあう2時間は、あっという間に流れていきました。そのごく一部をご紹介します。

* 保坂: (「文學界」の連載「カフカ式練習帳」のことを考え始めていた)2008年は、僕がはじめて高橋さんに直にお目にかかった時で。
そのシューベルトのコンサートの時に、譜めくりの人がめくりそびれたんですよね。
実際に「カフカ式練習帳」が始まったのは、譜めくりをめくりそびれた人を書きとめたことが始まり。
で、なにかと縁が深い(笑)。


* 高橋: やっぱり、人の失敗の方が面白いわけですよね。
ピアニストっていうものは、暗譜して弾くというのがいつからか常識になってるんですよね。
だけどその前(19世紀中頃以前)はどうしたかというと、自分でめくってた。
それで、めくるときに手が離れるから止まると、お客さんはそれを待っていた。
だからあわててパッとか、めくりそこなうとか、そういうことはあり得なかったんですよ。
落ち着いてめくって、また次をやればいいわけです。

* 保坂: カフカの書いたものを読んでると、自分で文章書く時に接続詞を使うことがすごい嫌な感じがするんですよ。
なぜかっていうと、何か書いて、「しかし」とか「だから」ってすると、次に書く内容は「しかし」に該当する内容になっちゃう訳ですよね。
接続詞っていうのは、読者のためにというよりも、書いている自分を救うというか、ちょっと安心させるためについ使っちゃうんじゃないか。
書いている自分に「すこし文章を俯瞰できる位置に自分はいるんだぞ」って安心させるための訓練を子供の時から受けてるから。
だから、最近、できるだけ接続詞っていうのを使いたくないんですよね。
だけど、使わないと不安なんですよね。
それは読者に対する不安っていうんじゃなくて、自分に対する不安なんだと思うんですよね。
でも、あんまり使わないで書いてたら、頭がおかしくなっちゃうかなって気もするんですよ。(…)

* 高橋: 音楽でいうとね、20世紀の初めに、並列式のつくり方っていうのができたと思うんですがね。
ストラビンスキーとかそうなんだけど。
その前のマーラ—とかブルックナーとかワーグナーとかそういうものは、連続してうねりながらどっかへ行く。
そういういことではなくて、ひとつのものがあって、途切れて、違うものが出てきて、そういうようなつくり方ですよね。
それは入れ替えてもいいわけだけど。
入れ替え自由ってことになると、20世紀の中ごろ、たとえばケージとか、これやって、これやって、その逆でもいいし、あるいはやらなくてもいいし、そういうチョイスがあるみたいな。
だけどそれは演奏する側、あるいは作曲する側のチョイスで、音楽聞く側にはチョイスがない訳ですよ。

* 高橋: カフカは事柄の中心からいきなり始まるって言われるでしょ。
中心から始めちゃった場合、そこから出ていくしかないでしょ、そういうやり方っていうのは新しいんですか?


* 保坂: 知らないです。(笑)


* 高橋: 伝統的なやり方っていうのはあるんですよね、書院づくりというのがある。
部屋があって、部屋を出ると別の部屋があって、その度に違う空間に入っていくわけです。
全体というものがない、部分しかない。
それから回遊式庭園。それは池のまわりをめぐっていって、茂みがあって、別の風景になる。
だからそれはけっこう伝統的なつくり方でもあるっていう。

* 保坂: 小説は、ヌーヴォーロマンとかごく一部をのぞいてすごく保守的で。
音楽とか美術にくらべてすごく狭い。


* 高橋: そうですかね? それは保坂さんがっていうことでしょ?
自分がみんなであるっていう幻想がどこかにあるわけでしょ?
だから書いていられるわけでしょ?

* 保坂: カフカがほとんど点も打たずにバーッと書きつづけた。
万年筆のすべりをすごく気にしたっていうぐらいで。
『判決』を一晩で書くというのはものすごい早いんですよね。
カフカの場合には、カフカが書いた早さで読者は読めるのかなって。
よく、「もっと読者のことを考えよ、書き手の思うように書くだけじゃないんだ」みたいな言いかたを小説に対してするんです。
だけど、どんなに書き手が読者のことを考えていないかのようであっても、読者はとにかく小説として完成されたものを読めるわけだから、それはもう十分読者の側に立ってるんですよね。
それはカフカが一気に書くっていうことを考えるまでは考えなかったことなんだけど。
もし、これからパソコンで小説を書く場合に、パソコンの容量がすごく増えたら、著者が書いていく通りの時間で読者は小説が見れるんですよね、読めるっていうか。(…)

* 高橋: 即興演奏するでしょ。
弾いてる速度で作ってるとも言える訳ですよ。
字を書くよりも音を出してる方が、手は簡単だけど。
カフカの書くものを、原稿の写真版とかで見ててね、こうペンが動いていく、その速度で書いているっていうことは、もうすでに読者の側にそれが立ってるっていうふうに思うんですけどね。
たとえば入眠時幻覚がありますよね。
彼が役所勤めから帰ってきて、散歩かなんかして、疲れて。
疲れきってなきゃいけないんだよね、それは。
それはね、疲れきってないといけないと思うんです。
疲れきってないと、身体が抵抗している。
自由になれない。
ちょっと話がずれますがね、クセナキスの曲を弾く時にね、ちょっと普通じゃ弾けないような感じで難しい訳でしょ、それをある速度でやっている。
そうするとコントロールよりちょっと上の何かが起こるわけ。
そうするとね、もう疲れきっちゃうわけですよ。
で、疲れきったときに手がすごくよく動くようになるわけ、軽くなってね。
そうした時にはじめて弾けるようになるんですよ。
だからね、コントロールしてやろうと思っている、その時はできないわけ。
だからね、たぶんイメージが浮かぶのだって、疲れきって、横になって、眠りかかった時に浮かぶものというのは、机に向かって、書こうとして、何かを思い浮かべて、ってそういうレベルじゃないわけですよ。
そこで書き出すわけでしょ、書き出すと今度手が動き出して、それでなんだか知らないけど話ができていく。
それでそれに付いて行く。「作家がペンについていく」って言い方しますよね。
「随筆」ってことばがあるでしょう。
だからそういうものなんですよね。
なんか、こう、思ってちゃいけないわけ。
それで、そういうことは、割と音楽的なアイデアだと思うんですよ。
演奏するときにこうやろう、なんて思ってちゃいけないわけ。
そのままなにも考えずにやらないと、なにもできなくなるのね、自分の考えに縛られて。
だから普通と逆というようなことになるんだけど、ものを論じる人っていうのは、そうやってあれこれ考えてから対象を論じようとするから、分からないんじゃないかと思うんですよ。
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