2012-05-31

『象徴としての女性像 ─ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』

# 定価:5,145円(税込)
# Cコード:0071
# 整理番号:
# 刊行日: 2000/05/09
# 判型:A5判
# ページ数:528
# ISBN:4-480-87321-X
# JANコード:9784480873217

■目次

第1章 女神の没落
第2章 禍いをもたらす女
第3章 ルクレティア—ファロス(男根)の帝国
第4章 紡ぐ女—アテナとアラクネ
第5章 女英雄ユーディットの変容

■内容
家庭内では出産・育児を引きうけ、また劣等であるがゆえ社会から遠ざけられ、さらに、男をたぶらかす悪者とされてきた、物言わぬ「女」たち。彼女らがどのようにとらえられ、表象されてきたか—その波瀾万丈な変遷を丹念にたどる新しい美術史。

国家の象徴、男を滅ぼす悪者……男は女をどう描いてきたのか。美術史上の女性像の成立と受容をたどり、その波瀾万丈な変遷を跡づける画期的ジェンダー美術論。

■書評
増え続けるイメージの中で

深瀬有希子
(慶應義塾大学・院)

 駅の売店はさながら女たちの小さな美術館だ。雑誌の表紙を飾る女たちが所狭しと並んでいる。ブランドの鎧で身をかため、いざ出陣のキャリア風の女たち。冬の最中にビキニを着ている、たわわな乳房の女たち。あったかモヘヤのセーターに守られて、誰の帰りを待つの癒し系の女たち。しかし彼女たちは何を表わしているのだろう。

 かつて街にある彫像を調査し、なぜ公共空間に女性ヌードが置かれているのかと問うた、フェミニスト美術史家・若桑みどりの『象徴としての女性像』は、私たちに再び『絵画を読む』ことを教えてくれる。本書は20年前に著者自身が「陥った過ち」を見直すべく執筆された。著者は『寓意と象徴の女性像』において、西洋には、例えば「真理」という、「高貴な尊厳にみちた上位
の観念を象徴する女性像がある」ことに「始終高揚」していた。けれどもその女性像は、現実社会において女性が高い位
置を占めていることを示してはいなかった。だとしたらなぜ、それらのイメージが女性にあてがわれたのか。著者は伝統的な図像解釈学に、フェミニズム、ニュー・ヒストリシズム、ポスト・コロニアリズムといった現代批評理論を導入しつつ、その問いの答えを、イシス、デメテル、パンドラ、エバ、マリア、リリト、ルクレティア、アテナ、アラクネ、ユーディットといった女性たちに求めていく。

 紀元前7000年から現代に及ぶ西洋美術や文学の中に描かれた女性像の変遷を辿る本書は、全5章にわたる大作だ。途中私たちは、扱われる時代や土地に隔たりを感じ、ともすると「ここに分析された女性イメージは決して過去のものではない」という序論における著者の言葉を忘れかけてしまう。しかし、他の章と構成をわずかに異にする第3章「ルクレティア--ファロス(男根)の帝国」において現実に引き戻される。なぜならその第1節において、覚えも新しい「沖縄における少女レイプ事件をめぐる規範的言説」が論じられるからだ。著者は、被害者が「少女」ゆえに表面
化したこのレイプ事件は、沖縄における米軍基地縮小要求という政治的議論を展開するための単なる「きっかけ」になり下がり、性暴力があるのは基地があるからだという代表的見解は、「基地をなくし、戦争をなくしても、力による他者(女性)の抑圧と支配の集団心理とその構造が温存される限り断じてレイプはなくならない」ということを隠蔽していると主張する。そのあとで、およそ2500年以上昔の「歴史上もっとも有名な強姦事件」の被害者である一女性を著者は描く。

 彼女の名はルクレティア。夜遅く帰宅した夫コラティヌスは、王子タルクィヌス・セクストゥスを連れてきた。ルクレティアは嫌な顔一つせずタルクィヌスを歓迎する。皆が寝静まったその時、タルクィヌスはこのできた女ルクレティアの床に忍び寄り剣をもって結婚を迫る。ルクレティアは拒んだにもかかわらず・・・。翌朝ルクレティアは父と夫に昨夜の事件をすべて語り、その復讐を願いつつ自らの胸を刺して息絶える。ルクレティアの父、夫、そして彼らの友人たちはこの事件を「きっかけ」に集結し王一族を追放する。ルクレティアの物語は、王子タルクィヌスとの間の真相をめぐって多くの芸術家や批評家の想像力を喚起した。

 そしてここに一枚の絵がもたらされる。それはすでに死して横たわるルクレティアの傍らで、男たちが手をとりあって王家打倒の誓いをしている場面
を描く。あるいはまたもう一枚の絵においては、前作では服を着ていたルクレティアは、ビーナスにも似た裸の姿で、長い布をもってその顔を隠している。ルクレティアは何も語らない。これらのルクレティアに対して著者がなすことは、彼女自身が何を語ろうとしていたかを安易に読みとったり、彼女に代わって「ノー」と叫ぶことではない。そうではなく、描かれた彼女を通
じて男たちが何を語ろうとしていたかを探ることである。

 先の絵において、自ら死を選び、服を着たままの姿のルクレティアは貞淑とモラルの遵守を表わす。そしてこの貞淑なるルクレティアが画面
の隅に追いやられ、男たちの復讐と共和国建国の誓いの姿が中心に置かれることによって、男女間の性的な事件は政治的事件にすり変えられた。また二つ目の絵においてルクレティアは、なぜ顔を隠しているのかと不審がられ、隠しているのは思いがけず感じてしまった快楽の笑みだろう、と解釈されたのだった。しかし一体なぜ、恐怖と屈辱のせいではないのだろうか。かくして家父長的解釈史の文脈において、貞淑な妻ルクレティア像は欲望と堕落の表象に変化し「永遠にレイプされる」。

 このように、ひたすら一方的に意味を与えられ描かれるだけの女たちを見て苦しくなり、私は半ば救いを求めるようにして読み進めていく。著者はその期待を決して裏切らない。彼女は17世紀初頭の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ
(1597-1652頃)によって描かれ、フェミニスト美術史家メアリ・ガラードをして「史上初の反男性中心主義的ルクレティア図像」と言わせしめた、一作品をとりあげる。ジェンティレスキのルクレティアが、500頁におよぶ本書の中で一頁まるまる使って最も大きく取り上げられたこと自体に、読者は著者が語ろうとしている何かを読み取らなくてはいけないだろう。そのルクレティアは、剣を持っているが決して自らの肉体を突き刺すことはしない。彼女は「受動的な美徳の実践者でもなく、悲劇的なあきらめのヒロインでもなく、自分の運命を自分で選択するために苦悶」する女性であり、「彼女が抵抗するものは、強姦者のみではなく、彼女のまわりのすべての男性に対してである」。

 全章を通じて著者の主張は一貫している。エバがアダムの骨から創られたように、アテナがユピテルの頭から生まれたように、女性=シンボルは男性によって作られた。そしてそれがいかに家父長制度を男女両性に内面
化するために生産され続けたかを、著者は豊富な図版と膨大な先行研究をふまえながら巧妙に暴き出す。それは、家父長制という壮大なタペストリーを、タペストリーの中に編み込まれてきたまさにその対象であるところの女たち、ひいてはそれを作り上げてきた男たちの目に明らかにし、男女双方がともに抱える「内面
の呪縛」を解放するための一つの芸術的作業である。

 しかし私たちは、家父長制のタペストリーに描かれた女たちが「決して過去のものではない」というこの芸術家=著者の言葉を忘れてはいけない。キャリア風の女にせよ、ビキニ姿の女にせよ、癒し系の女にせよ、探し求めている本当の自分もまた一つのイメージだとしたら、一体私たちはイメージを越えることができるのだろうか。あるいは私たちは、増殖し反復されるイメージの只中をこれからも彷徨い続けなければならないのだろうか。渋谷ではかつていた「ヤマンバ」は消え去り、今は「アマゾネス」が出現しているという。長いしなやかな肢体を持ちかつグラマラスな彼女たちは、パンツ・スタイルで街を闊歩し時には大型バイクを乗りこなす。しかし、自らの生き方を意思的に選ぶ彼女たちが「アマゾネス」と呼ばれた瞬間、そこに私は、ギリシャの神殿に彫られた「ヘラクレス」によって退治される「アマゾネス」を思い起こさずにはいられない。
■ 若桑 みどり

ワカクワ ミドリ

1935-2007年。東京芸術大学美術学部芸術学専攻科卒業。1961-63年、イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。専門は西洋美術史、表象文化論、ジェンダー文化論。千葉大学名誉教授。『全集
美術のなかの裸婦寓意と象徴の女性像』を中心とした業績でサントリー学芸賞、『薔薇のイコノロジー』で芸術選奨文部大臣賞、イタリア共和国カヴァリエレ賞、天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ』で大佛次郎賞。著書に『戦争がつくる女性像』『イメージを読む』『絵画を読む』『象徴としての女性像』『お姫様とジェンダー』『聖母像の到来』など多数。

■「猫に鰹節」……追悼若桑みどり
上野千鶴子
(うえの・ちづこ 東京大学教授 社会学)

 若桑みどりさんがいなくなった。今でも信じられない。亡くなった、というより、いなくなった、というのが実感に近い。
 なにしろ格調高い美術史学界のひとだから、わたしとは無縁だと思っていた。そのひとが『戦争がつくる女性像——第二
次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、一九九五年、ちくま学芸文庫収録)で、急速にジェンダー史に接近してきたのは九〇年代半ば以降。あとがきには、「戦争中に生まれ、子供時代に疎開と空襲を体験した」とある。若桑さんご自身の、「これだけは言っておきたい」という焦迫の思いがあふれている。
 八五年にはすでに『女性画家列伝』(岩波新書)を刊行しておられたが、九〇年代以降には、「慰安婦」や「教科書」問題にも積極的に発言し、千野香織さんたち若手とイメージ&ジェンダー研究会をつくるなど、積極的に「ジェンダー研究」の推進役を買って出られた。美術史の現状に対するふんまんやるかたない思いばかりでなく、九〇年代以降の右よりの思潮によほど危機感をつのらせておられたのであろう。その千野さんも四十九歳で早逝した。
 学問界隈では「ジェンダー研究者」を名のってよいことは何もない。業界内の周辺部に追いやられるだけである。とりわけ、美学や芸術学の分野に「ジェンダー」などの、俗世間の変数を持ちこむことはタブー。美の価値は、時代も世代も性別も超える、と考えられているからだ。若桑さんは、その頃すでにエスタブリッシュメントだったが、腹をくくってジェンダー研究を引き受けられたのだと推察する。
 若桑さんには『岩波近代日本の美術2
隠された視線——浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店、一九九七年)という日本近代美術史をジェンダー視点から読み解いた名著があるが、その一節が忘れがたい。なぜ近代美術はあくことなく、女のハダカばかり描いてきたか、という問いを立てて、彼女はこうきっぱり答えたのだ。
「鰹節の像を膨大に生産・消費する文明の、生産・消費の主体は猫である。」(同書、一六頁)
「猫に鰹節」のたとえどおり、「女のハダカ」を欲望する者はだれか?
男に決まっている。男支配の家父長制社会だからこそ、女のハダカが「美」として尊重されるのだ、と。この一節を講演で紹介するときには、いつも笑いをこらえられない。こんな卓抜なたとえは、彼女以外のだれも思いつかないだろう。
 わたしが若桑さんと急接近することになったのは、バックラッシュのおかげである。二〇〇六年一月に、国分寺事件として知られる、東京都が上野を講師とする人権講座に介入して、東京都と国分寺市共催予定だった講座がとりやめに至った事件(翌年、国分寺市主催で実施)が発覚。それというのも、女性学研究者である上野が、講演で「『ジェンダーフリー』という言葉を使うかも」という、言論統制、思想信条の自由をおびやかすような理由からだった。ただちに抗議行動を起こしたわたしを支援して、ネット上で三日間で一八〇八筆の抗議署名が集まった。若桑さんたちが代表して、東京都へ署名を届けたその記者会見の場で、彼女は「どうしてこんなアクションを起こしたのか」と新聞記者に訊かれて、「上野さんを孤立させてはならないと思ったから」と答えたのだ。その抗議行動の成果は、彼女も編者のひとりとなった『「ジェンダー」の危機を超える!
徹底討論! バックラッシュ』(青弓社、二〇〇六年)となって刊行されている。
 時と所はタカ派政治家、石原慎太郎政権下の東京都。そののちネオコン政治家の安倍晋三が内閣首班になって、ジェンダー関係者の危機感はつよまった。二〇〇七年の四月には、石原暗黒都政がこれ以上続くのだけはまっぴらごめん、と若桑さんとわたしは、選挙カーに乗ってマイクをにぎった。彼女は自分で寸劇のシナリオを書き、扮装して「都庁の虎退治」を路上で演じた。選挙で走り回る仲間のためにさりげなくペットボトルの冷たいのみものを、袋一杯用意する心遣いのあるひとだった。
 熱血で純情で、義侠心に富んだひとだった。味方につければ百万倍の力になるひとだったのに……そのひとをとつぜん失った。その穴を埋めるものは、ない。

S.クラカウアー『サラリーマン ワイマル共和国の黄昏』

りぶらりあ選書
サラリーマン ワイマル共和国の黄昏
S.クラカウアー:著, 神崎 巌:訳
発行:法政大学出版局
四六判 184ページ 上製
定価:1,700円+税
ISBN 978-4-588-02075-9 (4-588-02075-7) C1336
奥付の初版発行年月:1979年03月
原題
Siegfried Kracauer, Die Angestellten.
Aus dem Neuesten Deutschland. Frankfurt a. M.: Frankfurter
Societätsdruckerei 1930. 148 S.

1929年——ワイマル共和国末期のベルリンで,社会の底辺にあえぐ350万サラリーマン集団の動態を,徹底した現地取材により解明し,その位相を浮彫りにする。

2012-05-29

「ピアニスト、作家、あるいはカフカ」 高橋悠治と保坂和志の対談記事

『文学界』
2012年2月号 / 1月7日発売 / 定価950円(本体905円)


対談
ピアニスト、作家、あるいはカフカ   高橋悠治  保坂和志
カフカに魅せられたふたりが、自らの書きかた、作りかた、そしてカフカを語りあう——

『カール・ポランニー 市場社会・民主主義・人間の自由』

若森みどり 著
発売日:2011.11.11
定価:4,200円
サイズ:A5判
ISBNコード:978-4-7571-2285-7

市場社会の破壊的な性格を論じた古典『大転換』の著者・カール・ポランニーの思想の全体像に迫る。最新の国際的な研究動向、ポランニー政治経済研究所の未公表資料を駆使した、俊英による本格論考。

カール・ポランニー(英: Karl Polanyi、ハンガリー語:
Polányi,Károly(ポラーニ・カーロイ)、1886年10月21日 - 1964年4月23日)は、ウィーン出身の経済学者。

■目次
序 章 ポランニーへのアプローチ
第1章 ポランニーの思想と人生
第2章 ポランニーの社会哲学の源流
第3章 市場社会の危機とファシズム分析
第4章 『大転換』の世界
第5章 「経済社会学」の誕生
第6章 産業文明と人間存在
終 章 ポランニーの知的遺産

■若森みどり(わかもり・みどり)
首都大学東京都市教養学部准教授。 専門は社会思想史。
共著書に『福祉の経済思想家たち』(ナカニシヤ出版)がある。

『ロシア・シオニズムの想像力 ユダヤ人・帝国・パレスチナ』

鶴見 太郎
ISBN978-4-13-016032-2,
発売日:2012年01月下旬,
判型:A5, 524頁

■内容紹介

シオニズム運動の枢要を担ってきたロシア帝国出身のユダヤ人たち.しかし彼らのなかには,シオニストでありながらあえてロシアにとどまる「ロシア・シオニズム」思想の系譜が存在した.歴史的な文脈を丁寧にたどりながら,シオニズムの新たな側面に光をあてる.【第1回東京大学南原繁記念出版賞】

■主要目次

序 章 パレスチナに行かなかったシオニスト


第1章 ロシア帝国におけるシオニズムの生成
第1節 ロシア帝国という場
第2節 ロシア帝国とユダヤ人
第3節 初期のシオニズム
小 括 目標としての「ネーション」


第2章 「ネーション」概念にはいかなる利点があったのか
第1節 帝政末期のロシア・シオニズムと『ラスヴェト』
第2節 ナショナリズムを分析する理論的視角
第3節 ドゥブノフとユダヤ・ナショナリズム
第4節 集団間アイデンティティとしての「ネーション」
第5節 『ラスヴェト』における本質規定の忌避
小 括 集団内/集団間アイデンティティの相互自律性


第3章 本質規定を忌避するナショナリズム
第1節 ナショナリズムと本質主義
第2節 シオニズムにおける「東」と「西」
第3節 「一人のユダヤ知識人の歴史」
第4節 民族の社会経済的基盤への注目
第5節 非ユダヤ人の影への反発
第6節 「ユダヤ社会」の「ルネサンス」
小 括 社会という位相

第4章 シオニズムの「想像の文脈」
第1節 ネーションの想像と文脈の想像
第2節 二〇世紀初頭のロシア・東欧における民族理論
第3節 ロシア・シオニズムにおける国家、民族、公共圏
第4節 シオニズムとパレスチナ・アラブ
小 括 シオニズムの「国際規範」の光と影

終 章 一九一七年——消えた帝国、散っていった夢
第1節 一九一七年革命とシオニズム
第2節 結 論

『デジタルデータは消えない』

≪4刷出来≫ e法務ディスカバリがゼロから分かる!
# ジャンル 幻冬舎ルネッサンス新書, ビジネス・経済・キャリア
# シリーズ 増刷
# 著者 AOSテクノロジーズ株式会社
佐々木 隆仁・著
# ISBN9784779060380
# 判型 新書・174ページ
# 出版年月日2011-03-10
# 価格838円+税

■目次
* 第1章 事件の陰に、デジタルデータあり

消去したはずのメールが、動かぬ証拠となる
取り扱いが難しいデジタルデータ

* 第2章 高まる情報漏えいリスク

誰もが重要機密を流出できる
企業と情報漏えい ほか

* 第3章 「訴訟大国」アメリカで今、何が起きているか

デジタル訴訟社会のはじまり
訴訟コストとデジタルデータ

* 第4章 これから日本で、何が起こるのか

アメリカで起きたことは、日本でも起こる
訴訟慣れしていない日本企業

* 特別付録 LEGALTECH NEW YORK 2011に出展した主な企業

■消去したはずのパソコンや携帯電話の履歴が証拠となる時代が到来した。「データは消えない」「情報は必ず流出する」を前提にリスクマネジメントをする必要がある。データの復元や抹消、改ざん、漏洩した情報の追跡、コンピュータフォレンジック……、デジタル訴訟社会にどう備えるべきかを論じる。デジタル先進国アメリカに学び、これから日本で何が起きるのかを丁寧に解説した入門書。

■著者紹介
1964年、東京都生まれ。89年早稲田大学理工学部卒業。大手コンピューターメーカーに入社し、OSの開発に従事した後、95年に独立。AOS
テクノロジーズ社を立ち上げ、リーガルテクノロジーを中心とした事業を推進。2000年よりデータ復元ソフト「ファイナルデータ」を発売し、01年日経サービス優秀賞受賞。10年、11年にBCN
AWORDシステムメンテナンス部門最優秀賞受賞。著作に『2000年対応あなたのパソコンが誤動作しないための本』(かんき出版)がある。

『執事とメイドの裏表  イギリス文化における使用人のイメージ』

新井 潤美 著
税込価格 : 2100円 (本体価格2000円)
ISBN : 978-4-560-08179-2
ジャンル : 文化史
体裁 : 四六判 上製 250頁
刊行年月 : 2011-11
内容 : 文学や映画でおなじみ、イギリスの執事やメイドなどの使用人。これらの職種に対する社会的イメージと実情を、19世紀〜現代を中心に、文学や諷刺、各種記録から考察する。日本人の想像する執事はイギリスとどう違う?

■目次
  はじめに
 第1章 執事──旧約聖書からハリウッド映画まで
 第2章 ハウスキーパー──愛しすぎた女性たち
 第3章 料理人──「きまぐれ」が歓迎されるポスト
 第4章 メイド──玉の輿はありかなしか
 第5章 従僕と下男──孔雀の出世
 第6章 乳母──影の実力者
  あとがき
  引用文献

■使用人文化から見たイギリス
 英文学を読んでいると随所に登場するのが使用人(家庭内労働者)である。かつてイギリスの中流以上の家庭では、使用人は身近かつ不可欠な存在だった。一方で、十九世紀のベストセラー『ビートン夫人の家政書』は「社交界では使用人を悪くいうのが習慣になっています」と語る。当時の人々にとって、使用人とはどういう存在だったのだろうか。
 世相を反映する例として小説を見ると、『オリヴァー・トゥイスト』に登場する、盗みの疑いをかけられた主人公をかばう慈母のようなハウスキーパーと、『レベッカ』で女主人に嫌がらせを繰り返す邪悪なハウスキーパーとは、一見正反対の人物に見える。だが著者によれば、両者の行動の裏には、ある共通した人物像があるという。では、そうしたキャラクターが生まれた背景には、ハウスキーパーとは「どういう人」だという世間のイメージがあり、そのイメージはどこからきたのだろうか。
 本書では、回顧録などの記録や文学作品、各種資料をもとに、十九世紀を中心に現代までのイギリスにおける、使用人の社会的イメージについて分析する。さらに、それらのイメージと、日本人やアメリカ人がポップカルチャー等で描いてきた使用人とのギャップについても考察している。

■新井 潤美(あらい めぐみ)
香港・日本・オランダおよびイギリスで教育を受ける。1990年東京大学大学院博士課程満期退学(比較文学比較文化専攻)。現在、中央大学法学部教授。主要著訳書:『階級にとりつかれた人びと
英国ミドル・クラスの生活と意見』(中公新書)、『不機嫌なメアリー・ポピンズ
イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)、『自負と偏見のイギリス文化 ─
J・オースティンの世界』(岩波新書)、ドナルド・キーン『日本文学の歴史
近代・現代篇』7・8巻(中央公論新社)、ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』(編訳、岩波文庫)

『アーティストのためのハンドブック 制作につきまとう不安との付き合い方』

デイヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド著
野崎武夫訳
フィルムアート社
1785円

米国の写真家2人が、創作の際の心がまえを説く手引書。米国では地方出版社から刊行され、毎年のように版を重ねながら約20年間読み継がれてきた「隠れた古典」の邦訳だ。

 アーティストは疎外感と無力感にさいなまれながら一人で創作に励む。そんな孤独な作業に付きまとう疑問や不安との付き合い方を平易な言葉で指南。才能の欠落や想像力の枯渇を嘆く人には〈時間の経過とともに、才能は忍耐や勤勉とほとんど区別がなくなります〉。さらに〈よくない作品をたくさん制作することによって、よい作品が生まれます〉と背中を押す。通読すれば気づくはずだ。「アーティスト」を別の職業に置き換えても意味が通ることに。

■目次

はじめに

第1部

1. 問題の本質はどこにあるのか?
 ・いくつかの前提について

2. アートと不安について考えてみる
 ・見通す力はいつも実行する力を上まわる。
 ・想像力は邪魔をする。
 ・材料は働きかけるとリアルに反応する。
 ・不確実性は本質的に不可避である。

3. 自分自身に関する不安について
 ・作品を制作するふりはできない。
 ・才能は必ずしも必要ない。
 ・完璧は麻痺状態を招く。
 ・消滅してしまうという恐怖が新たな地平を生む。
 ・魔法は捕らえどころがない。
 ・期待はすべてを空想へと導く。

4. 他者に関する不安について
 ・理解されたいという欲求にはリスクがある。
 ・承認が求めているのはあなたではない。
 ・同意を求めると恐ろしいことになる。

5. 自分の制作を見つけるために
 ・規範とは形式と感情が結び付いた家庭のような場所。


第2部

6. 外部の世界について
 ・日常の問題はアーティストを振り回す。
 ・共通の基盤に新しい貢献を加える。
 ・アートの世界にも問題点がある。
 ・競争は自分のなかにある。
 ・アートシステムを操縦するときには注意がいる。

7. 大学の世界について
 ・教員には問題があります。
 ・学生にも問題があります。
 ・役立つのは自叙伝である。

8. 概念の世界について
 ・アイディアは技術より優る。
 ・工芸は完璧を目指す。
 ・新しい制作物をどう受けとめるか。
 ・習慣は美徳でない。
 ・アートと科学は似て非なるものである。
 ・自己参照には自己表明が必要だ。
 ・比喩は概念的な跳躍を誘発する。

9. 人間の声について
 ・質問は原動力になる。
 ・絶え間なく重荷を牽く。
 ・人間の声に合わせて作品をつくろう。

訳者あとがき 野崎武夫

この本は、作品を制作するためにスタジオや教室で作業をし、キーボードやイーゼ
ルやカメラの前にいるあなたのために書かれたものです。自分の将来を自分の手に
ゆだねること。事前に決められた運命よりも自由な意志を尊重すること。そして
チャンスよりも選択を重要視すること。つまりこの本は、あなたが自分の制作を見
つけるために書かれたテキストなのです。
──本書より
著者について
■著者■
デイヴィッド・ベイルズ(David Bayles)
写真家。同時代のアンセル・アダムスやブレッド・ウェストンとともに写真を追求
し、30年間にわたって美術教師を続ける。現在は引退。15年以上の時間をかけて
アメリカ西部のランドスケープを撮影し、作品集『Notes on a Shared Landscape:
Making Sense of the American West』(2005)として刊行。オレゴン州ユー
ジンやペンシルバニア州モントレーで暮らす。

テッド・オーランド(Ted Orland)
写真家。若き頃チャールズ・イームズのもとでグラフィックデザイナーとして社会
人のキャリアをスタート。その後はアンセル・アダムスのアシスタントを経て、現
在は教えることと書くこと、そして引き続き写真を生業とする。著書に『The View
From The Studio Door: How Artists Find Their Way in an Uncertain World』
(2006)など。カルフォルニア州サンタ・クルス在住。

■訳者■
野崎武夫(のざき・たけお)
上智大学文学部哲学科卒業。美術出版社に勤務の後フリーランス。おもに『美術手
帖』『インターコミュニケーション』『エスクァイア日本版』の編集、および
『store』(光琳社出版)、『Luca』(エスクァイアマガジンジャパン)の創刊業
務を担当。訳書に『アート+トラベル』(メディアファクトリー)を刊行予定。
明治学院大学非常講師。

『震災と原発 国家の過ち 文学で読み解く「3・11」』

震災と原発 国家の過ち

文学で読み解く「3・11」

外岡 秀俊

ISBN:9784022734365
定価:819円(税込)
発売日:2012年2月10日
新書判並製 256ページ 新書336

大震災と原発事故で苦しむ東北に、再び光は差すのか? 著者が被災地で実感した、国家の様相と内外の文学作品との共通項とは?
カミュ、カフカ、スタインベック、井伏鱒二らを介して、「国家の過ち」を考察する。名文家で知られる朝日新聞・元編集委員の渾身作。

第1章  復興には、ほど遠い  カミユ『ペスト』

第2章  「放射能に、色がついていたらなあ」  カフカ『城』

第3章  「帝国」はいま  島尾敏雄『出発は遂に訪れず』

第4章  東北とは何か  ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家——安藤昌益のこと』

第5章  原発という無意識  エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』

第6章  ヒロシマからの問い  井伏鱒二『黒い雨』

第7章  故郷喪失から生活の再建へ  ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』

終章   「救済」を待つのではなく  宮沢賢治『雨ニモマケズ』

『思想』2012年第4号 No.1056「「中欧」とは何か?——新しいヨーロッパ像を探る」

「中欧」とは何か?――新しいヨーロッパ像を探る

思想の言葉※ 石川達夫 (3)


Ⅰ 問題としての「中欧」
「中欧」アイデンティティの夢と現実
  ――拡大EU・NATOのリアリティ―― 羽場久美子 (9)
地政学的運命としての「中間位置」?
  ――1980/90年代のドイツにおける「中央ヨーロッパ」論争―― 大竹弘二 (30)
ドイツの「中欧」構想
  ――経済思想史の視点から―― 小林 純 (53)
「境界」と「媒体」
  ――言語から見た中欧―― 三谷惠子 (73)
チェコとスロヴァキアのロマ
  ――中欧における共生の可能性―― 佐藤雪野 (92)


Ⅱ 歴史の中の「中欧」
「中欧」理念のドイツ的系譜 板橋拓己 (107)
中欧の困難さ
  ――アネクドートと歴史―― ヨゼフ・クロウトヴォル (124)
フリードリヒ・ナウマンの『中欧』
  ――この書物をめぐっての諸事情とその結末―― ユルゲン・フレーリヒ (172)
なぜ神学者ナウマンが『中欧』を書いたのか
  ――神学的でも社会主義的でもないが,「ドイツ・ルター派的」な政策―― 深井智朗 (195)
北西と南東 マケドニクス〔フランツ・ローゼンツヴァイク〕 (225)


Ⅲ 「中欧」の芸術
〈グレー・ゾーン〉に生きる芸術
  ──「正常化」時代におけるジャズ・セクションの活動について── 赤塚若樹 (237)
中欧の作曲家としてのリゲティ
  ――「規範」とのこじれた関係―― 伊東信宏 (262)
中欧とイディッシュ語 上田和夫 (278)
さまよえる境界,捏造された幻影
  ──中(東)欧文学の〈地詩学〉を求めて── 沼野充義 (292)
バルカン文学の可能性
  ――ユーゴスラヴィアの作家,キシュとアルバハリ―― 栃井裕美 (298)

※書き換えられる地図としての「中欧」

石川達夫


 ヨーロッパの地図は幾度となく書き換えられ、塗り替えられてきたが、ここ一〇〇年で最も激しくそうなったのは、ヨーロッパ中部、中欧であろう。

 一九一八年の第一次大戦終結時にオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)が崩壊して、オーストリアとハンガリーが分離し(その際ハンガリーの国土は約三分の一に縮小した)、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア(初めの国名はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国)、ポーランドが独立する。それも束の間、一九三八年のミュンヘン協定によってチェコスロヴァキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに割譲され、翌三九年にはチェコスロヴァキアが解体される。同年、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発、ポーランドはドイツとソ連によって分割され、ユーゴスラヴィアは枢軸諸国によって解体される。ようやく一九四五年に第二次大戦が終結し、これら諸国は独立を復興するが、ポーランド東部地域がソ連領とされる代わりにドイツ東部地域がポーランドに割譲される形で、ポーランド国境は大幅に「西進」する。中欧諸国は独立の復興も束の間、ソ連の強力な影響下で社会主義圏としての「東欧」へと「誘拐」(ミラン・クンデラ)される。そして一九八九年の一連の東欧革命によって、これら諸国の社会主義的政権が崩壊し、その後間もなくチェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアはそれぞれ分裂する。さらに中欧諸国はEUに加盟し、共通通貨ユーロの導入を目指す……。

 このように、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後の一〇〇年で、この地域は国境変更による地図の書き換え、勢力圏の変化による塗り替えを頻繁に経験してきたが、その「余震」は、いまだ完全には収まっていないように思える。この地域に「地震」を引き起こしてきたのは、かつては主としてイデオロギー(ナショナリズムと共産主義)であったのに対して、現在は主として金(通貨と金融)だと言えるかもしれないが(チェコ、ハンガリー、ポーランドという中欧諸国はいまだにユーロを導入していない)、経済の悪化、格差の拡大は、排外主義的なナショナリズムを増大させうる。


 ところで、第一次大戦終結時までヨーロッパ中部に存在した巨大なハプスブルク帝国は、一六世紀前半に、迫り来るオスマン・トルコとの戦いの中で、オーストリアのハプスブルク家の君主がチェコ王とハンガリー王を兼ねることになり、一種の同君連合が成立したことから生まれた。つまり、それぞれの領邦がその法律・特権・伝統などを保ったまま結びつく、緩やかな国家連合として誕生したのである。その巨大な帝国は、様々な言語・民族・文化が混在するモザイク的な国であり、その中では比較的自由に人や物や文化が移動し、交流し、混交した。とりわけ中心地のウィーンには様々なものが集まって来た。一九世紀末―二〇世紀初頭の世紀転換期のウィーン文化の輝きは、広大な「後背地」からの養分摂取なしにはありえなかったであろう。

 だが他方、ハプスブルク帝国内でも一九世紀にナショナリズムが高まってきて、それぞれの近代的なネーション(チェコ民族、ドイツ民族、ハンガリー民族その他)が形成され、互いに明確に分離し、軋轢を起こすようになっていった。この帝国がそのような民族問題をうまく解決できなかったことが大きな原因となって、第一次大戦終結時にハプスブルク帝国は崩壊することになったのである。

 中欧はどのように国境線を引いても少数民族が含まれてしまうと言われてきたように、ハプスブルク帝国崩壊後に独立した諸国家の大きな問題は少数民族問題であった。だがその後、第二次大戦中における大量の(ユダヤ系、ロマ系)住民の殺害や、戦後における大量の(ドイツ系)住民の強制移動、さらに東欧革命後における多民族国家の分裂によって少数民族問題が大幅に縮小され、この地域はモザイク状のものから、より純色に近い独立した部分から成る、いわばパッチワーク状のものに変えられていった。


 「中欧」という概念は、ヨーロッパ中部という地理的な意味でも用いられうるものの、多分に地政学的な概念である。すでにチェコの歴史家・政治家フランチシェク・パラツキー(一七九八―一八七六年)は、一八四八年革命の際に台頭した、オーストリアとドイツ帝国の結合を求める汎ゲルマン主義的思想に対して異を唱えた「フランクフルトへの手紙」(一八四八年)や「オーストリアにおける中央集権化と民族的平等について」(一八四九年)などの中で、地政学的な意味で中欧を捉えていた。すなわち彼は、ハプスブルク帝国の枠組みを維持しながら、それを諸民族の同権が認められる連邦制国家に変え、中欧に、拡張主義的な東の大ロシアと西の大ドイツに対する第三の効果的な均衡勢力を形成し維持することが重要だと力説したのである。

 このように、「中欧」という概念は多分に地政学的な概念であるがゆえに、視点が異なれば中欧の外延は変わってくる(例えば先に挙げたパラツキーの視点からはドイツは当然中欧から排除されるが、汎ゲルマン主義的なドイツ人の視点からはむしろドイツとオーストリアを一つにしたドイツ人世界こそが中欧の中核となるはずであった)。また、この地域の政治的状況が変化すれば、中欧自体も変化する。そのため、中欧とはどこなのか、何なのかを厳密に定義することは難しい。


 地政学(geopolitics)的な概念と同時に重要なのが、いわば「地詩学(geopoetics)」的な概念であろう。つまり、中欧が置かれた位置とその独特の風土から固有の文化様式、芸術様式が生まれたとする見方である。そのような詩学は、先に述べたような、中欧のモザイク的な多民族・多言語・多文化性からだけではなく、この地域の地図が書き換えられ、塗り替えられてきたこと自体、つまりこの地域の人々が歴史の疎外者であり運命の被支配者であったことからも生まれたと考えられる。特に二〇世紀チェコ文学には、「運命の被支配者の詩学」とでも呼ぶべきものが広く見られる。先に挙げたパラツキーにもあったように、ロシアとドイツに挟まれ、その二つの大国の間で中欧の諸小民族は押し潰されかねない重圧にさらされているという自己表象が広く見られるのである。

 例えば二〇世紀チェコ文学を代表する作家の一人ボフミル・フラバル(一九一四―九七年)の代表作の一つ『あまりにも騒がしい孤独』には、主人公がプラハの町もろとも巨大な圧縮機によって押し潰され、プラハの町そのものが一辺五〇〇メートルほどの立方体にプレスされてしまうという凄まじい幻覚が描かれているが、これはそのような詩学の表れであると同時に、(プラハの)地図の書き換えの文学的表現であるとも言えるかもしれない(実はプラハの地図も、一九世紀後半以降、通りや広場などの名前がドイツ語からチェコ語に次第に変えられていくというように、たびたび書き換えられてきたのである)。

 そして、そのような「運命の被支配者の詩学」は文学だけでなく、演劇(例えばヴァーツラフ・ハヴェル(一九三六―二〇一一年))、映画(例えばヤン・シュヴァンクマイエル(一九三九年―)、アニメ、人形劇などにも当てはまると言えよう。


 ところで、中欧を規定するなら、より東(ロシア・東欧)と、より西(西欧)との関係で規定するほかなかろう。その際しばしば、「東」との差異が強調され、中欧は本来は「西」に属していると主張される。それでは、「西」と「東」はどのように違うというのであろうか?

 現代チェコの歴史家ヤン・クシェンが『中欧の二世紀』(二〇〇五年)という大著の中で行った整理によれば、「西」と「東」の相違は通例以下のように捉えられてきたという。

 一、東方の影響の有無――「東」におけるビザンチン、モンゴル、トルコの強い影響(もっともこれは、通例「西」の一部と見なされる南イタリアやスペインにも当てはまる)。

 二、宗教的相違――「西」のカトリシズムおよびプロテスタンティズムと、「東」の正教(およびイスラム教)。それと結びついた構造的相違、すなわち「西」における教会と国家の二元論と、「東」における教会と国家の癒着。

 三、精神的相違――「西」におけるルネサンス、人文主義、宗教改革と、「東」におけるその欠如ないし希薄。

 四、政治的相違――「西」における中世の身分制国家と多元性、そこから発展した近代の多元的民主主義、議会制、自治、下から有機的に形成された市民社会と、「東」における専政ないし独裁、上から革命と改革によって移植された不十分な議会制や自治組織。

 五、社会的相違――農村については、「西」における隷農制(poddanství)(隷農(poddaný)は多少とも権利を付与されている)と、「東」における農奴制(nevolnictví)。都市については、「西」における自分たちの都市法を有した自立的で自治的な組織、財産の市場的・金銭的原理の導入、独立した身分としての市民階級の形成と、「東」における国家による都市の統治と法的自律性の欠如。

 六、社会構造的相違――「西」における法典化を伴う契約原理と、「東」における国家や皇帝などから導き出される社会的地位。

 それでは、中欧はここに示されたような「西」に完全に属しているかというと、様々な理由から不完全に属していると、しばしば見なされてきた。あるいは「西」と「東」の中間に位置すると見なされてきた。

 だからこそ、中欧の人々は、自分たちが本来属するべき「西」に「回帰」しようとしたり、あるいはまた「東」とも「西」とも異なる自分たちの独自性を主張しようとしたりしてきたのであろう。

 またチェコの美学者・批評家ヨゼフ・クロウトヴォルは、本号に訳出した「中欧の困難さ」(一九八一年)において、中欧は、西欧の「歴史性」と東方の「無歴史性」の間にある「非歴史性」=「不条理な歴史」によって特徴づけられるとしている。

 「地詩学」的に言えば、このような中間的な状態から独特の詩学が生まれるのだと言えよう。すなわち、異質なものに取り巻かれ、異質なものの介入によって歴史になれない歴史、(個人のレベルでは)自分になれない自分という不条理が常態化し、日常的な「メランコリーとグロテスクの交差」に生まれる「滑稽な真実」(クロウトヴォル)の表現である。


 中欧は東欧ではないのか? 西欧でもないのか? 中欧には東欧でも西欧でもない、いかなる特徴があるのか、ないのか?
かつてモザイク的なものであり、いまだに様々な差異を含んでいる地域を、一口に「中欧」という言葉で括ることができるのか、できないのか?(中欧をドイツ的地域としての西中欧と、非ドイツ的地域としての東中欧に下位区分する見方や、正教徒とイスラム教徒の住むバルカン地域を排除する見方などもある)

 中欧について考え始めると、様々な問いが湧いてくる。それも、この地域の地図がたびたび書き換えられ、塗り替えられてきたことの一つの結果でもあろう。

 地図がたびたび書き換えられてきたこと、書き換えを招いた、また書き換えに由来する諸問題――それこそが中欧の際立った特徴だと言えるかもしれない。

『カフカ式練習帳』

カフカ式練習帳

カフカシキレンシュウチョウ

定価
:1785円(税込)
ページ数
:400ページ
判型
:四六判上製カバー装
初版発行日
:2012年04月20日
ISBNコ−ド
:9784163813301
Cコード
:C0093

■本書はカフカに倣って、保坂和志が「練習帳」に書き記した無数の断片から成る「長篇(ちょうへん)小説」である。「思いついたらいつでも書けるように家の中のあちこちにノートを置いておいてその場で書き出す」。もとは文芸雑誌に連載されたものだが、そうしてあちこちのノートに書かれた断片を、編集者がデータ入力して掲載していったのだという。途中からは携帯電話のメール機能によるテキストも混じり出すが、作者自身にも、もはやその区別がつかないらしい。何というユニークな書き方だろうか。しかしこれはあくまでも保坂氏が自ら選択した方法なのであって、それでもちゃんと「小説」になるのだという自信と確信がなければ、こんなやり方は採れはしない。

■担当編集者から一言

永遠に謎の作家・カフカは、一篇の小説としてまとまっていない、魅惑的な断片をたくさん遺しました。保坂和志さんの、『カンバセイション・ピース』以来となる長篇は、それにならい、様々な小説の断片、文学作品の引用、作家の思考の軌跡や何げない日常が渾然一体となった、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような新しい小説世界へ読者をいざないます。冒頭から読むもよし、ページを開いたところを気ままに読むもよし。読むたびに新らしい発見がある不思議な小説です。(NK)

2012-05-28

『負債と報い —— 豊かさの影 —— 』

マーガレット・アトウッド
佐藤 アヤ子 訳
■体裁=四六判・上製・256頁
■定価 2,940円(本体 2,800円 + 税5%)
■2012年3月28日
■ISBN978-4-00-024666-8 C0098

負債は古来,宗教や文学の重大テーマであり,人間社会のあり方そのものに深く関わる問題である.本書は,サブプライム・ローン問題を発端にリーマンショックという形で顕在化し今やきわめて現代的トピックとなった「負債」の問題をめぐり,作家,詩人,批評家,社会運動家として活躍するM.アトウッドが,皮肉とユーモアを交えつつ巨視的に論じた文明批評.

■目次
第一章 古代の貸借均衡
第二章 負債と罪
第三章 筋書としての負債
第四章 影なる部分
第五章 清算

謝辞
許諾
訳者あとがき
参考文献

■訳者からのメッセージ
アメリカが2003年3月にイラク侵攻を開始したとき,マーガレット・アトウッドはカナダの新聞『グローブ・アンド・メイル』に「アメリカへの手紙」と題する記事を書きました.そのなかで,アメリカ人は自分たちが抱えた〈負債〉を理解しているのでしょうか,と問うています.以来「負債」は彼女の考察テーマの一つとなっていくのです.
 負債は古来より,宗教や文学の重要テーマであり,人間社会のあり方そのものに深く関わる問題です.本書が出版された2008年は,サブプライム・ローン問題を発端にリーマン・ショックが世界経済を揺るがせた年です.負債を連動させる組織体系の破綻によって経済危機をもたらした〈負債と返済〉という時宜を得たテーマを扱っているために,出版と同時に本書はベストセラーとなり,高い評価は今なお続いています.
 本書は映画化され,2012年度のサンダンス・フィルムフェスティバルのドキュメンタリ—部門で好評を得て,現在カナダやアメリカで上映されています.
 2010年9月の「第76回国際ペン東京大会2010 環境と文学『いま,何を書くか』」で,アトウッドは環境をテーマに基調講演を行いました.
 環境への関心は彼女の近年の小説を見ても明白です.本書の終章でも負債の「清算」というテーマを広く環境問題と結びつけ,今や人間が自然環境に負う「借り」を返す時であること示唆しています.またアトウッドは,東日本大震災に対する日本人への希望のメッセージの中で,原発が抱える「負債」に言及しています.「今回の東日本大震災によって世界中の人たちは教訓を学びました.天災が人工テクノロジーの暴走と結びつくと,予想以上の破壊をもたらすという教訓です」(「月刊文藝春秋
3月臨時増刊号」2012・03・01)と.
 本書は顕在化してきた現代的トピックである「負債」の観念や問題をめぐり,作家,詩人,批評家,環境活動家としてカナダを代表する知識人であるアトウッドが,風刺とユーモアなどの文学的手法を駆使しながら巨視的に論じた文明批評といえます.


■訳者
佐藤 アヤ子(さとう あやこ)
明治学院大学教授.日本カナダ文学会会長.日本ペンクラブ会員.専攻=カナダ文学,現代アメリカ文学.著書に,『J.D.サリンジャー文学の研究』(共編)ほか,訳書に,アトウッド『またの名をグレイス』(上・下)(岩波書店刊),『寝盗る女』(上・下)(共訳),ハイウエイ『ドライリップスなんてカプスケイシングに追っ払っちまえ』,プシャール『孤児のミューズたち』,サリンジャー『ハプワースの16日目』(共訳),フライ『同一性の寓話』(共訳),など.

■著者
マーガレット・アトウッド(Margaret Atwood)
1939年生まれ.カナダを代表する作家,詩人,長編小説,短篇集,児童書,ノンフィクション,詩集,評論等,幅広い作家活動を展開.これまで,カナダ最大の文学賞であるカナダ総督文学賞(2回),ギラー賞(1回)をはじめ,ブッカー賞,アーサー・C・クラーク賞,コモンウェルス作家賞,ハメット賞などを受賞.
邦訳書に『またの名をグレイス』(上・下)(岩波書店刊)をはじめ,『侍女の物語』『スザナ・ムーディーの日記:マーガレット・アトウッド詩集』『浮かびあがる』『青ひげの卵』『食べられる女』『マーガレット・アトウッド短篇集』『寝盗る女』(上・下)『昏き日の暗殺者』『闇の殺人ゲーム』『ペネロピアド』『ほんとうの物語』など.

『会社員とは何者か 会社員小説をめぐって』

カイシャイントハナニモノカ
会社員とは何者か?
会社員小説をめぐって
著者: 伊井直行

発行年月日:2012/04/26
サイズ:四六変型
ページ数:330
ISBN:978-4-06-217601-9

定価(税込):2,520円

会社員が主人公の小説って、……おもしろいの?
誰も気づかなかった「会社員」の謎に迫る、まったく新しい文学論!
『群像』連載に加筆し書籍化。
「普通のサラリーマン」とは、現代日本における凡庸な人生の代名詞である。(……)だが、そこに解くべき謎があることについて、私は強い確信を抱いている。——<「本文」より>

本書で取り上げたおもな小説
●源氏鶏太「英語屋さん」
●山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」
●庄野潤三「プールサイド小景」
●黒井千次「メカニズムNo.1」
●絲山秋子「沖で待つ」
●長嶋有「泣かない女はいない」
●津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」
●カフカ「変身」
●メルヴィル「バートルビー」ほか。

目次

ヒヨドリの羽ばたき
私が会社員だったころ
「サラリーマン」という言葉の二重性
「サラリーマン」という言葉の知られざる履歴
小説と職業生活
「経済小説」と会社員小説
会社員小説の射程
会社員小説の定義—階調の内にとどまる
会社員という視点
源氏鶏太の「サラリーマン小説」
会社員小説としての「プールサイド小景」
二等車の乗客
砂漠を愛する人
ゲームの空間
会社と家庭をへだてる川
法人としての会社員
会社員の誕生—岩崎彌太郎と初期三菱
会社の仕事と人間の労働—黒井千次の試み
会社員小説としてのカフカ「変身」
メルヴィル「バートルビー」—未来の人間

2012-05-22

『 圏外に立つ法/理論 法の領分を考える』

江口厚仁 林田幸広 吉岡剛彦 編
四六判・342頁
税込定価 2520円
ISBN978-4-7795-0611-6
2012年4月

●主な内容

  プロローグ

 序 章 法化論——未完のプロジェクト
      ■江口厚仁
   1 法化論の源流と現在
   2 近代化論としての法化論
   3 ポスト福祉国家論としての法化論
   4 市民的公共性論としての法化論
   5 法化論のポテンシャル

 第1章 「死別の悲しみ」と金銭賠償
      ——法は死者を悼みうるか——
      ■小佐井良太
   1 はじめに
   2 金銭賠償のシステム化と「死別の悲しみ」
   3 損害賠償の「命日払い」請求/判決をめぐって
   4 おわりに

 第2章 法は紛争解決を約束できるか
      ■上田竹志
   1 はじめに
   2 コンテクストをめぐる争い
   3 コンテクストと時間
   4 自己言及問題
   5 コンテクスト紛争の「解決」
   6 「法の前」・イルカ・論理階型
   7 コンテクスト紛争のマネージメント
   8 変化へのプロセスの可能性を高める

 第3章 司法参加と「法の限界」
      ——われわれはどこまで法と折り合うことができるのか——
      ■宇都義和
   1 はじめに
   2 「法の浸透」に対する評価と懐疑
   3 法的判断枠組みとの「せめぎあい」
   4 法的判断の文脈
   5 法の領分を知ることの意義
   6 おわりに

 第4章 おっぱいへの権利!
      ——「見た目」に関する悩みや望みを、法は保護すべきだろうか——
      ■吉岡剛彦
   1 「温泉に行きたい」乳房を失った女性の願い
   2 乳房再建と保険適用
      ——失った乳房をふたたび取り戻すことと公的支援——
   3 保険適用を不要とする論理
      ——近代資本主義社会の障害観と、医療/美容の区別——
   4 女性の「おっぱい」は誰のものか
      ——乳房へ拘泥させるものに抗して——
   5 「おっぱいへの権利」を真剣に考える
      ——「見た目」問題は法の圏内か圏外か——

 第5章 近代ウィーンの「子どもの流通」
      ■江口布由子
   1 はじめに
   2 捨て子院の解体
   3 戦間期ウィーン
      ——子どもの流通の抑制から再活性化へ——

 第6章 公共空間におけるパフォーマンスと法
      ——都市の中心で「I」をどこまで叫べるか——
   1 はじめに
   2 表現の自由と公共空間
   3 公共空間の変容
   4 結びにかえて

 第7章 アーキテクチャ批判(の困難さ)への"いらだち"
      ——近代法主体の「退場」に抗すべき理由はあるか——
      ■林田幸広
   1 アーキテクチャとは何か
   2 アーキテクチャと法的規制の関係
      ——近代法主体の「退場」——
   3 「快適」な主体
      ——再帰的(リフレクシヴ)アーキテクチャ——
   4 批判の困難さ
      ——What's wrong with Architecture?——
   5 よるべない批判の拠点
      ——「リアルの罠」に落ち込みながら——

 第8章 教育コミュニティと法
      ——われわれが学校に参加する条件とは何か——
   1 はじめに
   2 現代版教育コミュニティ法制
   3 意義づけられる学校参加
   4 統治対象としての教育コミュニティ
   5 教育コミュニティを公共空間として構築する条件

   【コラム】
   バスジャック事件と少年法厳罰化の是非(山口由美子)
   法をめぐる虚実としてのハンセン病問題(三宅浩之)
   「事件の本質をとらえる」こと(吉岡俊介)
   在日コリアンにおける結婚・戸籍・国籍(吉本和子)
   「こうのとりのゆりかご」をめぐる問題(蓮田太二)
   俳人の社会的責任?——体験的市民活動試論(甲斐朋香)
   「身の丈ジャーナリズム」のススメ(鈴木美穂)
   「武器」として、時に「自由」を狭めるものとして(雨宮処凛)

  読書案内
  エピローグ

■法の境界を巡るアクチュアルな問題群を探究

法とは何か。法の境界は何処にあるのか。
死亡事故における金銭賠償から、市民の司法参加、
公共空間におけるパフォーマンスの是非など、
「法の領分」を巡る多様な問題群に分け入り、
アクチュアルな論点を導き出す。

●編者紹介

江口厚仁(えぐち・あつひと)
 1959年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。法社会学専攻。九州大学教授。『自由への問い(3)公共性——自由が/自由を可能にする秩序』〔共著〕(岩波書店,2010年),『リベラルアーツ講座
感性・こころ』〔共著〕(亜紀書房,2008年),『法と社会へのアプローチ』〔共著〕(日本評論社,2004年),他。

林田幸広(はやしだ・ゆきひろ)
  1971年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。法社会学専攻。北九州私立大学非常勤講師。『共同体と正義』〔共著〕(御茶の水書房,2004年),「安全,要注意——リスク社会における生‐権力の在処を探るために」(『情況』第3期第3巻第8号,2002年),「ポスト・フーコー的法権力の台頭——差延に感染する〈否〉権力」(『九大法学』第82号,2001年),他。

吉岡剛彦(よしおか・たけひこ)
  1972年生まれ。九州大学大学院法学研究科博士後期課程修了。法哲学専攻。佐賀大学准教授。『周縁学——〈九州/ヨーロッパ〉の近代を掘る』〔共編〕(昭和堂,2010年),『ヨーロッパ文化と〈日本〉——国際文化学のドラマツルギー』〈佐賀大学文化教育学部叢書2〉〔共編〕(昭和堂,2007
年),『ヨーロッパ文化と〈日本〉——モデルネの国際文化学』〈佐賀大学文化教育学部叢書1〉〔共著〕(昭和堂,2006年),他。