2012-05-29

『思想』2012年第4号 No.1056「「中欧」とは何か?——新しいヨーロッパ像を探る」

「中欧」とは何か?――新しいヨーロッパ像を探る

思想の言葉※ 石川達夫 (3)


Ⅰ 問題としての「中欧」
「中欧」アイデンティティの夢と現実
  ――拡大EU・NATOのリアリティ―― 羽場久美子 (9)
地政学的運命としての「中間位置」?
  ――1980/90年代のドイツにおける「中央ヨーロッパ」論争―― 大竹弘二 (30)
ドイツの「中欧」構想
  ――経済思想史の視点から―― 小林 純 (53)
「境界」と「媒体」
  ――言語から見た中欧―― 三谷惠子 (73)
チェコとスロヴァキアのロマ
  ――中欧における共生の可能性―― 佐藤雪野 (92)


Ⅱ 歴史の中の「中欧」
「中欧」理念のドイツ的系譜 板橋拓己 (107)
中欧の困難さ
  ――アネクドートと歴史―― ヨゼフ・クロウトヴォル (124)
フリードリヒ・ナウマンの『中欧』
  ――この書物をめぐっての諸事情とその結末―― ユルゲン・フレーリヒ (172)
なぜ神学者ナウマンが『中欧』を書いたのか
  ――神学的でも社会主義的でもないが,「ドイツ・ルター派的」な政策―― 深井智朗 (195)
北西と南東 マケドニクス〔フランツ・ローゼンツヴァイク〕 (225)


Ⅲ 「中欧」の芸術
〈グレー・ゾーン〉に生きる芸術
  ──「正常化」時代におけるジャズ・セクションの活動について── 赤塚若樹 (237)
中欧の作曲家としてのリゲティ
  ――「規範」とのこじれた関係―― 伊東信宏 (262)
中欧とイディッシュ語 上田和夫 (278)
さまよえる境界,捏造された幻影
  ──中(東)欧文学の〈地詩学〉を求めて── 沼野充義 (292)
バルカン文学の可能性
  ――ユーゴスラヴィアの作家,キシュとアルバハリ―― 栃井裕美 (298)

※書き換えられる地図としての「中欧」

石川達夫


 ヨーロッパの地図は幾度となく書き換えられ、塗り替えられてきたが、ここ一〇〇年で最も激しくそうなったのは、ヨーロッパ中部、中欧であろう。

 一九一八年の第一次大戦終結時にオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)が崩壊して、オーストリアとハンガリーが分離し(その際ハンガリーの国土は約三分の一に縮小した)、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア(初めの国名はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国)、ポーランドが独立する。それも束の間、一九三八年のミュンヘン協定によってチェコスロヴァキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに割譲され、翌三九年にはチェコスロヴァキアが解体される。同年、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発、ポーランドはドイツとソ連によって分割され、ユーゴスラヴィアは枢軸諸国によって解体される。ようやく一九四五年に第二次大戦が終結し、これら諸国は独立を復興するが、ポーランド東部地域がソ連領とされる代わりにドイツ東部地域がポーランドに割譲される形で、ポーランド国境は大幅に「西進」する。中欧諸国は独立の復興も束の間、ソ連の強力な影響下で社会主義圏としての「東欧」へと「誘拐」(ミラン・クンデラ)される。そして一九八九年の一連の東欧革命によって、これら諸国の社会主義的政権が崩壊し、その後間もなくチェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアはそれぞれ分裂する。さらに中欧諸国はEUに加盟し、共通通貨ユーロの導入を目指す……。

 このように、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後の一〇〇年で、この地域は国境変更による地図の書き換え、勢力圏の変化による塗り替えを頻繁に経験してきたが、その「余震」は、いまだ完全には収まっていないように思える。この地域に「地震」を引き起こしてきたのは、かつては主としてイデオロギー(ナショナリズムと共産主義)であったのに対して、現在は主として金(通貨と金融)だと言えるかもしれないが(チェコ、ハンガリー、ポーランドという中欧諸国はいまだにユーロを導入していない)、経済の悪化、格差の拡大は、排外主義的なナショナリズムを増大させうる。


 ところで、第一次大戦終結時までヨーロッパ中部に存在した巨大なハプスブルク帝国は、一六世紀前半に、迫り来るオスマン・トルコとの戦いの中で、オーストリアのハプスブルク家の君主がチェコ王とハンガリー王を兼ねることになり、一種の同君連合が成立したことから生まれた。つまり、それぞれの領邦がその法律・特権・伝統などを保ったまま結びつく、緩やかな国家連合として誕生したのである。その巨大な帝国は、様々な言語・民族・文化が混在するモザイク的な国であり、その中では比較的自由に人や物や文化が移動し、交流し、混交した。とりわけ中心地のウィーンには様々なものが集まって来た。一九世紀末―二〇世紀初頭の世紀転換期のウィーン文化の輝きは、広大な「後背地」からの養分摂取なしにはありえなかったであろう。

 だが他方、ハプスブルク帝国内でも一九世紀にナショナリズムが高まってきて、それぞれの近代的なネーション(チェコ民族、ドイツ民族、ハンガリー民族その他)が形成され、互いに明確に分離し、軋轢を起こすようになっていった。この帝国がそのような民族問題をうまく解決できなかったことが大きな原因となって、第一次大戦終結時にハプスブルク帝国は崩壊することになったのである。

 中欧はどのように国境線を引いても少数民族が含まれてしまうと言われてきたように、ハプスブルク帝国崩壊後に独立した諸国家の大きな問題は少数民族問題であった。だがその後、第二次大戦中における大量の(ユダヤ系、ロマ系)住民の殺害や、戦後における大量の(ドイツ系)住民の強制移動、さらに東欧革命後における多民族国家の分裂によって少数民族問題が大幅に縮小され、この地域はモザイク状のものから、より純色に近い独立した部分から成る、いわばパッチワーク状のものに変えられていった。


 「中欧」という概念は、ヨーロッパ中部という地理的な意味でも用いられうるものの、多分に地政学的な概念である。すでにチェコの歴史家・政治家フランチシェク・パラツキー(一七九八―一八七六年)は、一八四八年革命の際に台頭した、オーストリアとドイツ帝国の結合を求める汎ゲルマン主義的思想に対して異を唱えた「フランクフルトへの手紙」(一八四八年)や「オーストリアにおける中央集権化と民族的平等について」(一八四九年)などの中で、地政学的な意味で中欧を捉えていた。すなわち彼は、ハプスブルク帝国の枠組みを維持しながら、それを諸民族の同権が認められる連邦制国家に変え、中欧に、拡張主義的な東の大ロシアと西の大ドイツに対する第三の効果的な均衡勢力を形成し維持することが重要だと力説したのである。

 このように、「中欧」という概念は多分に地政学的な概念であるがゆえに、視点が異なれば中欧の外延は変わってくる(例えば先に挙げたパラツキーの視点からはドイツは当然中欧から排除されるが、汎ゲルマン主義的なドイツ人の視点からはむしろドイツとオーストリアを一つにしたドイツ人世界こそが中欧の中核となるはずであった)。また、この地域の政治的状況が変化すれば、中欧自体も変化する。そのため、中欧とはどこなのか、何なのかを厳密に定義することは難しい。


 地政学(geopolitics)的な概念と同時に重要なのが、いわば「地詩学(geopoetics)」的な概念であろう。つまり、中欧が置かれた位置とその独特の風土から固有の文化様式、芸術様式が生まれたとする見方である。そのような詩学は、先に述べたような、中欧のモザイク的な多民族・多言語・多文化性からだけではなく、この地域の地図が書き換えられ、塗り替えられてきたこと自体、つまりこの地域の人々が歴史の疎外者であり運命の被支配者であったことからも生まれたと考えられる。特に二〇世紀チェコ文学には、「運命の被支配者の詩学」とでも呼ぶべきものが広く見られる。先に挙げたパラツキーにもあったように、ロシアとドイツに挟まれ、その二つの大国の間で中欧の諸小民族は押し潰されかねない重圧にさらされているという自己表象が広く見られるのである。

 例えば二〇世紀チェコ文学を代表する作家の一人ボフミル・フラバル(一九一四―九七年)の代表作の一つ『あまりにも騒がしい孤独』には、主人公がプラハの町もろとも巨大な圧縮機によって押し潰され、プラハの町そのものが一辺五〇〇メートルほどの立方体にプレスされてしまうという凄まじい幻覚が描かれているが、これはそのような詩学の表れであると同時に、(プラハの)地図の書き換えの文学的表現であるとも言えるかもしれない(実はプラハの地図も、一九世紀後半以降、通りや広場などの名前がドイツ語からチェコ語に次第に変えられていくというように、たびたび書き換えられてきたのである)。

 そして、そのような「運命の被支配者の詩学」は文学だけでなく、演劇(例えばヴァーツラフ・ハヴェル(一九三六―二〇一一年))、映画(例えばヤン・シュヴァンクマイエル(一九三九年―)、アニメ、人形劇などにも当てはまると言えよう。


 ところで、中欧を規定するなら、より東(ロシア・東欧)と、より西(西欧)との関係で規定するほかなかろう。その際しばしば、「東」との差異が強調され、中欧は本来は「西」に属していると主張される。それでは、「西」と「東」はどのように違うというのであろうか?

 現代チェコの歴史家ヤン・クシェンが『中欧の二世紀』(二〇〇五年)という大著の中で行った整理によれば、「西」と「東」の相違は通例以下のように捉えられてきたという。

 一、東方の影響の有無――「東」におけるビザンチン、モンゴル、トルコの強い影響(もっともこれは、通例「西」の一部と見なされる南イタリアやスペインにも当てはまる)。

 二、宗教的相違――「西」のカトリシズムおよびプロテスタンティズムと、「東」の正教(およびイスラム教)。それと結びついた構造的相違、すなわち「西」における教会と国家の二元論と、「東」における教会と国家の癒着。

 三、精神的相違――「西」におけるルネサンス、人文主義、宗教改革と、「東」におけるその欠如ないし希薄。

 四、政治的相違――「西」における中世の身分制国家と多元性、そこから発展した近代の多元的民主主義、議会制、自治、下から有機的に形成された市民社会と、「東」における専政ないし独裁、上から革命と改革によって移植された不十分な議会制や自治組織。

 五、社会的相違――農村については、「西」における隷農制(poddanství)(隷農(poddaný)は多少とも権利を付与されている)と、「東」における農奴制(nevolnictví)。都市については、「西」における自分たちの都市法を有した自立的で自治的な組織、財産の市場的・金銭的原理の導入、独立した身分としての市民階級の形成と、「東」における国家による都市の統治と法的自律性の欠如。

 六、社会構造的相違――「西」における法典化を伴う契約原理と、「東」における国家や皇帝などから導き出される社会的地位。

 それでは、中欧はここに示されたような「西」に完全に属しているかというと、様々な理由から不完全に属していると、しばしば見なされてきた。あるいは「西」と「東」の中間に位置すると見なされてきた。

 だからこそ、中欧の人々は、自分たちが本来属するべき「西」に「回帰」しようとしたり、あるいはまた「東」とも「西」とも異なる自分たちの独自性を主張しようとしたりしてきたのであろう。

 またチェコの美学者・批評家ヨゼフ・クロウトヴォルは、本号に訳出した「中欧の困難さ」(一九八一年)において、中欧は、西欧の「歴史性」と東方の「無歴史性」の間にある「非歴史性」=「不条理な歴史」によって特徴づけられるとしている。

 「地詩学」的に言えば、このような中間的な状態から独特の詩学が生まれるのだと言えよう。すなわち、異質なものに取り巻かれ、異質なものの介入によって歴史になれない歴史、(個人のレベルでは)自分になれない自分という不条理が常態化し、日常的な「メランコリーとグロテスクの交差」に生まれる「滑稽な真実」(クロウトヴォル)の表現である。


 中欧は東欧ではないのか? 西欧でもないのか? 中欧には東欧でも西欧でもない、いかなる特徴があるのか、ないのか?
かつてモザイク的なものであり、いまだに様々な差異を含んでいる地域を、一口に「中欧」という言葉で括ることができるのか、できないのか?(中欧をドイツ的地域としての西中欧と、非ドイツ的地域としての東中欧に下位区分する見方や、正教徒とイスラム教徒の住むバルカン地域を排除する見方などもある)

 中欧について考え始めると、様々な問いが湧いてくる。それも、この地域の地図がたびたび書き換えられ、塗り替えられてきたことの一つの結果でもあろう。

 地図がたびたび書き換えられてきたこと、書き換えを招いた、また書き換えに由来する諸問題――それこそが中欧の際立った特徴だと言えるかもしれない。