2012-06-28
『変身』後の姿が、「虫」である理由を探る一助となるかも・・の本
日本の心身観をさぐる
長谷川雅雄/辻本裕成/ペトロ・クネヒト/美濃部重克 著
定価/本体価格 6,930円/6,600円
判型 A5判・上製
ページ数 526頁
刊行年月日 2012年
ISBNコード 978-4-8158-0698-9
Cコード C3047
■書籍の内容
「虫が知らせる」 「虫の居所が悪い」といった表現の根底には、日本特有の 「虫」 観がある。心と身体、想像と現実のはざまに棲み着いた 「虫」
の多面的な姿を、かつての医学思想、文芸作品、民俗風習などを横断的に読み解くことで明らかにし、日本の心身観を浮彫りにしたユニークな研究。
■目次
はじめに
第�部
第1章 言葉を発する 「虫」 —— 「応声虫」 という奇病
1 「応声虫」 の事例
2 創作文芸に見る 「応声虫」
3 医書の 「応声虫」 論
4 「応声虫」 とは何か —— 精神医学的検討
第2章 「虫」 の病と 「異虫」
1 「虫証」
2 姿を現す 「異虫」 たち
3 顕微鏡の登場とその波紋
4 顕微鏡による 「異虫」 の観察
第3章 「諸虫」 と 「五臓思想」
1 「諸虫」
2 「五臓思想」
3 「離魂病」
4 「五臓」 と 「虫」
第4章 「虫の居所」 —— 「腹の虫」 と 「胸の虫」
1 「腹の虫」 と 「胸の虫」
2 「癪」 —— 「腹」 と 「胸」 の病
3 「癪の虫」
4 「虫の居所」 としての 「腹」 と 「胸」
第5章 「疳の虫」
1 文芸作品の 「疳の虫」 とその周辺
2 医家による見解
3 「疳」 の病症変遷 —— 「疳」 と 「労」
4 「疳」 と 「労」 の 「虫」 像
第6章 「疳の虫」 の民間治療
1 江戸時代の 「疳の虫」 の治療法
2 「虫封じ」 の民俗誌
3 現代の 「虫封じ」
4 「虫封じ」 の社会における意味
第�部
第7章 「虫」 病前史 —— 「鬼」 から 「虫」 へ
1 「霊因」 と医の領域
2 「鬼」 と 「尸」
3 「伝尸」 と 「伝尸虫」
第8章 「虫」 病の誕生
1 室町・戦国期の日記と 「虫」 所労
2 わが国特有の 「虫」 病
3 「胸虫」 から 「積虫」 へ
第9章 「虫」 観・「虫」 像の解体と近代化
1 「脳・神経」 学説とその影響
2 「虫」 の発生思想とその変容
3 近代医学と 「虫」 病の解体
第10章 教科書と近代文学に見る 「五臓」 用語と 「脳・神経」 表現
1 初等教育用教科書に見る心身観
2 近代文学に見る 「脳・神経」 と 「虫」
3 消え去ることのない 「腹の虫」
おわりに
欧州図書館(The European Library)が開発した新ポータルサイト
このサイトは、主に研究者コミュニティに向けられたもの、
欧州46か国の国立図書館、大学図書館が提供する2億点以上のオンラインリソースにアクセスできる。
The European Library
http://www.theeuropeanlibrary.org/
New Online Discovery Service For Researchers (European Library
2012/6/25付けのプレスリリース)
http://www.theeuropeanlibrary.org/confluence/download/attachments/6979655/TEL_Launch_press+release_final.pdf?version=1&modificationDate=1340619966872
2012-06-19
『ダニエル・デフォーの世界』 塩谷 清人 著
『ダニエル・デフォーの世界』 塩谷 清人 著
税込価格 : \4830 (本体 : \4600)
# 単行本: 480ページ
# 出版社: 世界思想社 (2011/12/14)
# ISBN-10: 4790715477
# ISBN-13: 978-4790715474
# 発売日: 2011/12/14
# 商品の寸法: 22 x 16.1 x 4 cm
■目次
はじめに
序 章 デフォーの時代
第一章 幼少期から青年になるまで、王政復古期の状況(一六六〇年から)
第二章 結婚、反乱軍への参加、商売の失敗、著作活動へ(一六七八年から)
第三章 アン女王の治世:政争と宗派対立の波(一七〇二年から)
第四章 政治の世界、変節者か?(一七〇八年から)
第五章 新しい時代、しかし最悪の時期(一七一四年から)
第六章 小説家デフォーの誕生(一七一九年から)
第七章 最後の奮闘、そして死(一七二四年から)
あとがき
◎使用したデフォー関係書/デフォーの作品(原題と訳題)/デフォー関連年表/索引
■富山太佳夫・評 毎日新聞 2012年04月08日 東京朝刊
◇作家の生きた錯綜するイギリス社会
ダニエル・デフォーについてのこれまでにない素晴らしい本である、と書くと、なんだか怪訝(けげん)な顔をされそうな気がする。あの、『ロビンソン・クルーソー』って小説を書いた人でしょう、というわけで。確かにそれはそうなのだが……これは、あまりにも有名になり過ぎた作品を書き残した作家の悲喜劇ということだろうか。
ともかくこの本を手にすると、まず最初に彼の肖像画が載っている。これはよく知られたものであるが、それほど立派な身分というわけでもないのに、いかにも一八世紀のイギリスらしい立派なかつらを頭にのせて、それなりにハンサムと言えなくもない。一〇七頁(ページ)までめくると、今度は頭と左右の手首を木の枠にはさまれて晒(さら)し台に立つ男を描いた別の絵に出くわす。勿論(もちろん)そこに描かれているのはデフォー本人の姿である。「この刑では群衆に石や腐ったリンゴ、汚物、卵など危険なものを投げつけられ、ときに不具者に、あるいは最悪の場合殺される恐れがあった」。一七〇三年のロンドンではこんなことも日常的にあったのだ。もっとも、こうした晒し台騒動のことは、日本の読者にも比較的知られているはずである。
この本の斬新さは、実はその先にある。デフォーの拘束された「晒し台の周りを支持者が囲み、花束を投げられ、逆に英雄視された……周りでは彼の著作が売られ、問題の『非国教徒撲滅最短法』まで売られた」。この本にはただこう書いてあるだけではない。著者はこの事件に関係する冊子や詩や手紙を徹底的に調べ上げて、この文章を書いているのだ。少し古い言い方をするならば、実証的な研究と言うことになるのだが、その徹底ぶりとは裏腹に文章は簡潔で、論理はすっきりとしている。デフォーの生きた一七世紀末から一八世紀初めにかけてのイギリスの政治、宗教、経済の錯綜(さくそう)をこれだけ見事にまとめた本はこれまでの日本には存在しなかった。その中に著者はデフォーの膨大な量の著作を埋め込んでいくのである。
「『レヴュー』は一七〇四年二月から一七一三年六月まで九年間、号数では一五〇〇号をデフォーが一人で書き続けた。当初週一回土曜に出されたからウィークリーで八ページ、値段は二ペンスだった。第七号目……から火曜と土曜の二回出された」。政治、経済は勿論のこと、娯楽のこと、魔女論や霊感の話も。移民問題も。私自身もかつてこの雑誌を手にし、第一号がいきなりフランスの話題から始まっているのに仰天したのを覚えている。
我々はなんとも気安く小説家デフォーと呼んでしまうけれども、『ロビンソン・クルーソー』の出版は一七一九年のことであって、この『レヴュー』の時代の彼はまだ小説家ではないのだ。彼は還暦寸前になってやっと小説家に変身して、今度は小説を書きまくるのだ。いや、小説だけではない。『グレイトブリテン全島周遊記』(一七二四−二六年)というとんでもない旅行記の大作を仕上げてしまうのだ。
そうか、一七〇四年には『嵐』までまとめていた。この本は、前年にイングランドとウェールズを襲い、八千人超の死者を出したイギリス史上最悪の嵐のルポルタージュであって、その情報収集法の新しさにはただただ驚くしかない。
そんな一八世紀のデフォーと、一九世紀のディケンズの作り上げたイギリス小説史を前にしながら、塩谷清人氏はこの本を書き上げた。単なる偶然だろうか、今年はディケンズの生誕二〇〇年にあたる。そんな年に、この本を読む幸運。
2012-06-07
『シュンペーター伝—革新による経済発展の預言者の生涯』
一灯舎 トーマス・K.マクロウ著、ThomasK.McCraw原著、八木紀一郎翻訳、田村勝省翻訳 価格:¥3,990
トーマス K. マクロウ 著 著
八木紀一郎 監訳
田村勝省 訳
2010年12月 発行
定価 3,800円
ISBN 978-4-903532-44-8
■目次
序
第I部 恐るべき子供(一八八三 - 一九二六):革新と経済学
プロローグ シュンペーターとその業績
第一章 故郷を離れる
第二章 性格の形成
第三章 経済学を学ぶ
第四章 徘徊
第五章 出世への歩み
第六章 戦争と政治
第七章 グラン・リフィウート
第八章 アニー
第九章 悲嘆
第II部 成人期(一九二六 - 一九三九):資本主義と社会
プロローグ シュンペーターは何を学んだか?
第十章 知性の新たな目標
第十一章 政策と企業家精神
第十二章 ボン大学とハーバード大学の往来
第十三章 ハーバード大学
第十四章 苦悩と慰め
第III部 賢人(一九三九 - 一九五〇):革新、資本主義、歴史
プロローグ どのように、なぜ歴史と取り組んだのか
第十五章 景気循環、企業史
第十六章 ヨーロッパからの手紙
第十七章 ハーバード大学を去る?
第十八章 不本意ながら
第十九章 エリザベスの勇気ある信念
第二十章 疎外
第二十一章 資本主義・社会主義・民主主義
第二十二章 戦争と困惑
第二十三章 内省
第二十四章 名誉と危機
第二十五章 混合経済に向けて
第二十六章 経済分析の歴史
第二十七章 不確定性の原則
第二十八章 結びの句
エピローグ 遺産
監訳者あとがき
写真出所
注
索引
■概要
本書はシュンペーターの数少ないが特異な伝記である.狭い意味でのシュンペーターの経済思想を扱うものではなく,波乱に満ちた人生と,様々な分野を統合して資本主義を徹底的に追求し理解しようとするシュンペーターの正にすさまじい生き方を描いている.本書の特徴は,シュンペーターが資本主義の本質を革新(イノベーション)としてとらえ,終生その研究に没頭し多くの大著を著したその過程と,その間に彼を支え続けた女性や同僚達について詳しく書かれていることである.
また,著者はシュンペーター自身だけでなく親しかった人達の日記や手紙,写真等を豊富に引用して,シュンペーターが生きた時代をリアリティをもって詳細に描き出している.著者は,たいへんな知日家だった最後の妻のエリザベスが,アメリカによる対日経済制裁は日本の戦線を拡大すること(真珠湾攻撃)を予告し,そのためFBI
からスパイとしてつけねらわれたことも取り上げている.
シュンペーターの資本主義の捉え方は,戦後の日本の経済発展,今日のアメリカ資本主義の停滞と没落,中国など新興国の発展,そして今後の日本の方向を考える上で役立つだろう.著者のトーマス
K. マクロウは1985年に歴史部門でピューリツアー賞を受賞している.また原著書はヘイグリー経営史最優秀出版賞,ジョセフ・J・シュペングラー経済学史賞,国際シュンペーター学会賞を受賞した好著である.
■トーマス K. マクロウ(THOMAS K. McCRAW)
トーマス K. マクロウはハーバード大学経営学大学院のストラウス記念・企業史名誉教授である.ハーバードビジネススクールで,マクロウ教授は1984-86
年にかけて研究部長を務めた.マクロウ教授は1985 年に Prophets of Regulation: Charles Francis
Adams, Louis D. Brandeis, James M.Landis, Alfred E. Kahn
でピューリッツァー賞(歴史部門)を受賞した.本書ではヘイグリー経営史最優秀出版賞,ジョセフ・J・シュペングラー経済学史賞,国際シュンペーター学会賞を次々に獲得した.また,ライブラリー・ジャーナル
と ストラテジー・+ ビジネスでベストビジネスブックに選ばれた他,ビジネス・ウィークやスペクテイター(ロンドン)で最優秀の本に選ばれている.最近の著書として,
American Business Since 1920: How It Worked (2009) がある.
■監訳者紹介
八木 紀一郎(やぎ きいちろう)
1947 年福岡県生まれ.
東京大学で社会学,名古屋大学大学院で経済学を学ぶ.
岡山大学助教授,京都大学経済学部教授をへて,現職,摂南大学経済学部長.
京都大学名誉教授,VCASI フェロウ.
経済理論学会,経済学史学会,進化経済学会に所属.
著書
『ウィーンの経済思想』(ミネルヴァ書房),『近代日本の社会経済学』(筑摩書房),『社会経済学』(名古屋大学出版会),Austrian and
German Economic Thought: From Subjectivism to Social Evolution
(Routledge).
■訳者紹介
田村 勝省( たむら かつよし)
1949 年生まれ.東京外国語大学および東京都立大学卒業.旧東京銀行で調査部,ロンドン支店, ニューヨーク支店などを経て,現在は関東学園大学教授,翻訳家.
訳書
『アメリカ大恐慌(上下)』(NTT 出版,2008 年)
『大転換 ——帝国から地球共同体へ』(一灯舎,2009 年)
『企業の名声 ——トップ主導の名声管理・回復十二か条』(同,2009 年)
『ウォール街の崩壊の裏で何が起こっていたのか? 』(同,2009 年)
『ニューエコノミーでアメリカが変わる!——幻の富から真の富へ、オバマ大統領への期待』(同,2009 年)
『世界給与・賃金レポート——最低賃金の国際比較 組合等の団体交渉などの効果、経済に与える影響など』(同,2010 年)
■評者 橋本 努 北海道大学大学院准教授
20世紀を代表する三大経済学者の一人、ジョセフ・A・シュンペーターの決定的な伝記が現れた。
資本主義の原動力として「創造的破壊」を称揚したシュンペーターは、毎日、自分を厳しく評価していた。日記では0点から1点満点までで、自己の達成度を記録したという。他方で彼は、一流の演技力でもって会話や講演を楽しんだ。財務大臣としての横顔もある。だが財産は市況の暴落で失ってしまった。それでも派手な生活を好み、数々の女性たちに囲まれた。栄光と挫折、愛と孤独という、波乱万丈の人生を送った巨人の実像が、いま鮮やかによみがえる。
おそらくエコノミストやビジネスパーソンに必要な人生訓は、この一冊に詰まっているのではないか。それほどまでに感銘を受ける。シュンペーター本人、あるいは親しかった人たちが残した日記や手紙から、本書はさまざまな名言を抜粋する。人生を深く洞察するための、言葉の宝庫である。
シュンペーターは悲劇の英雄であった。43歳にして母と妻とその新生児を同時に失い、絶望の淵に立たされた。「私はこれからの歳月のことを思うと身震いし、私はお前(妻)のいない人生に戦慄する」と彼は記している。「すべてが私の働く能力次第である。そうであれば、仮に私の私生活は終わったとしても、動力源は稼動し続けるだろう」。
新資料に基づいて書かれた本書は、ヘイグリー経営史最優秀出版賞、シュペングラー経済学史賞、国際シュンペーター学会賞、等々の賞を受賞。前作でピュリッツァー賞を授与されたハーバード大学教授の手による、渾身の作である。
シュンペーターは逆説家であり、皮肉屋ともいわれた。たとえば彼は、創造的破壊の精神を鼓舞する一方で、実際には「保守主義」の立場をとっていた。創造的破壊は、大切な人間的価値を低下させることをよく知っていた。彼は、古きよき旧世界の芸術的達成を維持するために、民衆の革新勢力を抑えるべきだとも考えた。
そんな保守主義者のシュンペーターが、名著『資本主義・社会主義・民主主義』では、社会主義への移行を必然的であると主張したのは、人を驚かせようとする彼の習癖ゆえだったのであろうか。
弟子のポール・サミュエルソンは、師の性格に「大切にされてきた一人っ子に典型的」な不安定さを見抜いている。シュンペーターは、疎外された異邦人としての役割を演じていたのだと。だがたんなる道化師と呼ぶにはあまりに巨人すぎる。巨人は完璧な仕事の理念に突き動かされる。その執念に学びたい。
Thomas K. McCraw
米ハーバード大学経営学大学院のストラウス記念・企業史名誉教授。長年、ハーバード・ビジネススクール教授を務めた。本書でヘイグリー経営史最優秀出版賞、国際シュンペーター学会賞ほかを受賞。ピュリッツァー賞(歴史部門)の受賞歴もある。
一灯舎 3990円 609ページ
『自己愛過剰社会』
河出書房新社 ジーン・M・トウェンギ、W・キース・キャンベル著、桃井緑美子翻訳 価格:¥2,940
The Narcissism Epidemic:
Living in the Age of Entitlement
by Jean M. Twenge and W. Keith Campbell
Published in April 2009 by Free Press,
a division of Simon & Schuster, Inc.
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■評 岡田温司(西洋美術史家、京都大学教授)
米個人主義の病に迫る
OLが出勤中に電車でお化粧、そんなのは序の口。
最近よく目にするようになったのは、目の前の座席に陣取った高校生らしき男子たちが、カバンから大きな鏡を取り出して長々とヘアスタイルを整えているという光景。人は誰でも自分がかわいい。大なり小なりナルシシストであり、その意味で、名高いギリシア神話の主人公ナルキッソスの末裔(まつえい)である。
だが、そうした自己愛が近年ますます過熱して、一種の社会的な「流行病」にすらなっているのではないか、本書の著者である2人の心理学者は、アメリカの現状を具体的に分析しながら鋭くその病理をえぐり出してみせる。もちろん他人事ではない。それはわれわれ自身の問題でもある。この傾向をあおっているのは、マスメディアやインターネットなどに氾濫している、スターやセレブ、有名人やいわゆる「勝ち組」たちの華やかなイメージである。それらのイメージはいわば鏡像として機能していて、人はいやがうえにもそこに自分を重ねて見ようとする。いかにしてその鏡像に近づき一体化することができるか、それが、せちがらい社会を生き抜くための有効な戦略として持ち上げられる。いまやコンピューターやテレビの液晶画面が、かつてギリシアの美青年を魅了した水面に取って代わったのだ。
それにしてもなぜこれほどまで自己愛過剰な社会が出現したのか。著者は、あらゆる局面で打ち消しがたい価値とみなされてきた個人主義に、その最大の原因を見ている。個性の尊重、個人の自由、自尊心、自己表現、自己啓発、自己主張、自己実現、自己宣伝、われわれの耳にもなじみ深いこれらの言い回しは、いずれも個人主義の発想に培われたものだ。が、それは容易に自己中心的な自己愛へと転倒する。とするなら、いまや発想の転換が求められている。子育て、教育、メディア、経済政策等に向けられた彼らの批判的な提言は、「俺さま」時代を生きるわれわれへの警告でもある。桃井緑美子訳。
◇Jean M.Twenge=サンディエゴ州立大教授。◇W.Keith Campbell=ジョージア大教授。
河出書房新社 2800円
(2012年1月10日 読売新聞)
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書評 岡井崇之
「現代の自己愛とは何か」
本書は、アメリカの心理学者トウェンギとキャンベルによって2009年に出版されたThe Narcissism
Epidemicの邦訳である。直訳すると「ナルシシズムの蔓延」とでもなるのだろうが、訳者は本文で「ナルシシズム流行病」としている。つまり、それらを病理としてとらえているのである。
日本でも時期を同じくして『現代のエスプリ』522号(ぎょうせい、2010年12月)でナルシシズムが特集されているし、また、2008年の秋葉原通り魔事件以降「他者からの承認」をテーマにした書籍の出版が続いているのは興味深い。
著者たちにとって、ナルシシズムとは「文化の影響を受けた心のあり方」であり、ナルシシズム流行病は「(アメリカ)文化全体に広がり、ナルシシストも、またあまり自己中心的でない人もその影響を受けている」という(8頁)。
日本でも、エッセー的なものから藤田省三の『全体主義の時代経験』(みすず書房、1995年)に収められている「ナルシズムからの脱却」(初出は
1983年)のような硬派な論考まで、自己愛的な時代状況を評した文献は多数あるが、著者はアメリカにおけるそういった類書と本書を次のような点で明確に線引きする。それは科学的データに基づくということと、ナルシシズムをめぐる俗説の検証も取り上げていることにおいてである。
自己愛性パーソナリティの事例として度々紹介されるのは、多重債務、経歴詐称、銃乱射事件、SNSでの自己呈示、パーティー文化、セレブリティなどである。確かにこれほどまでに事例を並べられると説得力がある。だが、それらの一つひとつが、本当にナルシシズムに起因するものなのか、ナルシシズムの症例として非難されるべきものなのかは、評者には疑問が残る。著者は「暴力、物質主義、他者への思いやりの不足、浅薄な価値観など、アメリカ人が自尊心を高めて食い止めようとしていることは、実のところすべてがナルシシズムに起因している」(16頁)とまで断言している。
評者などは心理学の門外漢ゆえ的を外しているかもしれないが、そもそも人間の本性は自己愛的であり、それが資本主義やメディア文化の進展のなかで担保され、さらには称揚されるようなったということではないかという解釈図式を取ってしまう。たとえば、フェイスブックで自己の経歴をアピールすることで、ビジネスのネットワークを構築することなどを取ってみても、置かれた環境のなかで個々人が行動を最適化するのはある意味、当然ではないかと思うからだ。
さて、新たな方法論を用いて文化としてのナルシシズムを検証しているだけでも本書は有意義なものだが、それ以外の点では1970年代以降に流行したナルシシズム論と本書との構造的違いが何だろうかというのが、評者が本書を手に取ったときに抱いた興味関心だ。
藤田がナルシシズムの特徴をいくつか挙げているなかで、「世界はそれ自体として存在する物ではなくて、消費されるためにだけ、そしてそれまでの間一時的に存在している仮の物に過ぎなくなる」(25頁)という論述は、現代でも検討されるべきだと評者は考えている。それは、ナルシシズムがもたらす一つひとつの弊害や、ある犯罪事件との関連というような次元の議論ではなく、ナルシシズムがもたらす世界像の変容を問うものであった。
本書は1部「自己愛病の診断」、2部「自己愛病の原因」、3部「自己愛病の症状」、4部「自己愛病の予後と治療」で構成され、全17章からなる。それぞれの部で、原因や症状として「物質主義」「見た目への依存」「虚栄心」「低年齢化」などさまざまな例が列挙されているが、そこでの通底奏音として全体を貫いているのは、メディア文化への不信ではないかと評者は読んだ。
度々「メディア漬け」という言葉が(悪意を込めて)使われることが示唆しているように、著者が1980年代以降の特徴とするのは、1980年代以降の雑誌やテレビでのセレブリティ言説、90年代以降のリアリティTV、2000年のインターネットでのSNSといったメディア文化が自己賛美の価値観を創りだしているとする点だ。
著者は、ナルシシズムを病理ととらえているため、その治療は可能だと言う。しかし、実のところ著者たちはその治癒について悲観的なのではないかと評者は読んだ。そこでは疾病モデルが有効であるとされるが、その最も効果的な治療法である隔離がこの文化的・メディア的な病理においては意味をなさないからだ。
ナルシシズムのグローバル化の議論も含め、著者たちの視座は多分に悲観的であり、アメリカ文化の影響力を過大にとらえているという印象もあるが、それは、そのようなことを例証するさまざまな事態をつぶさに見てきた著者たちの危機意識に由来するのだろう。本書からは「ナルシシズム流行病」の最先端を行くアメリカの症例を詳しく知ることができる。
■岡井崇之
(おかいたかゆき)
1974年、京都府生まれ。
上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士後期課程単位取得退学。東洋英和女学院大学国際社会学部専任講師。専門はメディア研究、文化社会学、社会情報学。メディア言説と社会や身体の変容をテーマに研究している。主著に、『レッスル・カルチャー』(風塵社、2010年、編著)、『プロセスが見えるメディア分析入門』(世界思想社、2009年、共編著)、『「男らしさ」の快楽』(勁草書房、2009年、共編著)など。
「今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付
◇『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』
(みすず書房・3360円)
◇『カフカノート』
(みすず書房・3360円)
◇「辺境」に向かう新たな芸術の試み
中欧から東欧にかけて、旧オーストリア=ハンガリー二重帝国の版図だったあたりは、文明論的関心の対象としておもしろい。作曲家=ピアニスト高橋悠治の本を読むと、彼が音楽的にも言語的にもこの地域に惹(ひ)かれていることがわかる。たとえば彼は書く。「シェーンベルク以来のヨーロッパ風現代音楽の音から手を切りたい、と思っている」と。ウィーンから離れようとしながらプラークのカフカにこだわるのかな?
というのは、彼は一九六〇年代、カフカの創作ノートをテクストにして作曲しようと努め、このノート『カフカ
夜の時間』を書きつづけた。八七年に上演。八九年に初版出版(晶文社)。みすず書房版の『カフカ
夜の時間』は再演の反省を含めての増補新版。その執着ぶりを見ると、文学者の個性に対する愛着よりも、あの地域の、ヨーロッパの辺境としての条件に興味をいだいているらしい。たとえば彼はカフカの文学の、商業ジャーナリズムを媒介としない前近代的な発表形態、孤独と自由にあこがれる。そしてまた、辺境であるせいでの言語的運命にも。なぜなら、日本こそヨーロッパの辺境の最たるものだから。
二十世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえ管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。(中略)思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。(中略)
「もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって」(カフカ「インディアンになる望み」)
ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。
シェーンベルク以来の現代音楽に別れようとすると、言葉が必要となり、そこでまたカフカの断章三十六片と出会う。六〇年代の失敗ののち半世紀後にまた試みられて(その台本が「カフカノート」)、今度はもっと即興性が強くなり、全体の統一は軽んじられ、神が細部に宿り過ぎ、ストーリーの方向は茫漠(ぼうばく)としている。それでも「カフカノート」という「演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみ」に参加しなければならない聴衆の負担は増す。わたしは昨年四月、シアターイワトで公演に立会い、感覚の斬新と趣向の妙と豊かなエネルギーに熱中したり、疲れ果てたりした。文学の場合と違い、パーフォーミング・アーツは、テクストを読み返したり、飛ばし読みしたりするわけにゆかない。そういうジョイスやプルーストやカフカの読者の特権はわれわれに与えられていないから、芸術の新しい形態や方向を探求することの当事者となる者、すなわち享受者の責任の取り方はむずかしい。
−−「今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付。
『トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』「何者でもない」世代の誕生
ISBN : 978-4-560-08173-0
ジャンル : 思想・歴史
体裁 : 四六判 上製 334頁
刊行年月 : 2011-12
■内容 : 初めて世代が誕生するとともに、青年論が生まれた革命後のフランス。トクヴィルらロマン主義世代に寄り添うことで新しい時代を生きた若者の昂揚と煩悶を浮き彫りにする。
「大革命後のフランスでは、ナポレオンが失脚した後、社会の枠組みは定型化する。そんな閉塞する時代に生まれたのが「青年論」だった。……そして今、若者論が溢れるこの時代、トクヴィルらロマン主義世代の声は、いっそう切実なものとして響いてくるはずである。」(序章より)
■「何者でもない」世代の誕生
「かれが剣で始めたことを我はペンで成し遂げん」。そう暗い屋根裏部屋でナポレオン像に誓ったバルザック。「シャトーブリアンになりたい。そのほかは無だ」と断言したユゴー。そして、自らのステータスを誇示しようと、競って馬車を疾駆させた無数の若者たち。
旧体制の桎梏から解き放たれた大革命後のフランスは、誰もが偉大な英雄になろうと思い詰め、その途方もない野心を持て余して悩んだ時代だった。
一方、ナポレオン失脚とともに閉塞する社会のなかで「立身出世」の途を断たれ、「何者でもない」自分に直面させられた若者たちは、歴史上初めて〈世代〉意識を共有するとともに(青年の誕生!)、巨大なロマン主義運動を展開してゆく。
『アメリカのデモクラシー』『旧体制と大革命』で知られるアレクシ・ド・トクヴィルもこの時代を生きた一人だ。本書は、これまで「大衆社会の預言者」として聖化されてきたかれをロマン主義運動の坩堝に内在させて理解する試みである。
憂鬱、結核、そして自殺が社会問題として浮上し、精神医学が産声を上げたこの時代におけるトクヴィルらロマン主義世代の声は、若者論が氾濫する今日、いっそう切実なものとして響いてくるはずである。
■[目次]
序章「世紀病」をめぐって
� 欲望の解剖──ロマン主義と世代問題
第一章 立身出世の夢と青年の苦悩
第二章 アメリカへの旅、自己への旅
第三章 幻滅──無関心と羨望
� 絶対の探求──神に代わる人間の宗教
第四章 「新しい信仰」の噴出
第五章 預言者の詩想──「汎神論」への地平へ
第六章 トクヴィル・パラドックス──多数 or 宗教
� 利益と政治──失われた公衆を求めて
第七章 中央集権と不確かな名誉
第八章 ジャーナリズムと「野党」の使命
第九章 革命と〈自尊〉
終章 憂鬱の世紀
あとがき
参考文献
人名索引
■�山 裕二(たかやま ゆうじ)*データは刊行時のものです
1979 年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在、早稲田大学政治経済学術院助教。専門は政治学・政治思想史。『社会統合と宗教的なもの
— 十九世紀フランスの経験』(編著、白水社)、ジョン・ロールズ『政治哲学史講義�・�』(共訳、岩波書店)
『ヴィデオ 再帰的メディアの美学』
[監訳者]海老根剛
[訳者]柳橋大輔+遠藤浩介
定価=本体 6,000円+税
2011年11月25日/A5判並製/592頁/ISBN978-4-88303-299-0
三元社
■ヴィデオは過渡的なメディアではない。電子信号の変換と即時再生の再帰的構造に立脚する真に視聴覚的なメディアとして、ヴィデオは映画ともコンピューターグラフィックスとも異なる独自の映像美学を実現する。映画映像やコンピューター映像とは異なる構造とダイナミズムを持つヴィデオ映像の宇宙の解明。
■この書物は、ヴィデオというメディアのテクノロジー的基盤と美的表現の多様な展開を透徹した視点から論じた研究として、いまのところ類書のないヴィデオ研究の成果となっています。映像文化論やメディア研究では過去のメディアとしてお払い箱にされている感のあるヴィデオですが、映画映像やコンピューター映像とは明確に異なる独自の特性を持つ映像表現として、ヴィデオは独自の美学を発展させてきました。そうしたヴィデオのポテンシャルの考察は、デジタル/アナログの二元論や映画とコンピューターの二元論に対して批判的な視座を提供してくれます。その意味では、ヴィデオ研究者のみならず、デジタルメディアや映画の研究者にとっても興味深い研究だと言えるでしょう。
■本書で論じられている映像作品へのリンクを集めたウェブサイトも同時に開設しました。このサイトで作品を実際に見ながら本書を読むと、一層、理解が深まると思いますので、こちらもご参照ください。
■目次
[目次]
まえがきにかえて 私とヴィデオ(アート) 伊奈新祐 7
序論:視聴覚メディア 13
第一部:テクノロジーそしてメディアとしてのヴィデオ 41
メディア発展の系譜学的モデル 44 メディアシステムの変動とヴィデオの独自性の美学的分析 49
メディア論的考察 50
デジタルとアナログ:既存の理論的アプローチの不十分さ 50 ハイブリッド化の概念 55
表象/電子映像/合成映像 60 電子的変換とデジタル的シミュレーション 63
表象/電子映像/コンピューター映像 65 ヴィデオとハイブリッド化 68
視覚化をめぐる議論 72
画像的転回 72 エイゼンシュテインの試み 75 フルッサーの技術映像論 76
図像的転回/シミュレーションとディシミュレーション 80 メディア映像の諸類型 82
ヴィデオ映像の批判的ポテンシャル 84 視覚文化/電子文化 85
技術と機器に関わる諸前提 88
ヴィデオの技術的構造 88 ヴィデオ映像の諸特性 92 ヴィデオとテレビ 94 電子映像とデジタル映像 97
映画/ヴィデオ/コンピューター 100 ヴィデオとテレビの成立過程 101 ヴィデオの再帰的諸形式 104
マトリクス映像 107
不可視的秩序の可視的構造化 107 マトリクスの概念 108
ヴィデオにおけるマトリクス現象:ウッディ・ヴァスルカの習作 110 ベクトル循環のメカニズム 114
デジタルなシミュレーション映像 116 デジタル性と映像の隠喩 120
ヴィデオとコンピューターの結びつき:コード化とプログラミング 123
ハイブリッド化と反復的二重化:ビョークのミュージッククリップ 124
第二部:再帰的メディア 131
〈映像技術者〉の仕事 136 実験的ヴィデオ実践の三つの方向性 138
実験段階 140
ポータパックの登場 140 ヴィデオ誕生期のいくつかの場面 143 複数の同時並行的発展 147
ゲリラ・テレヴィジョン 152
アーティスト・ヴィデオ 155
ホワイトキューブへの抵抗 155 メディアの境界とその越境 156 マルチメディア的展示 157
コンセプチュアルなヴィデオ—パフォーマンス 159 女性表象の脱構築 160 公共映像との取り組み 161
観察・チェックのメディアとしてのヴィデオ 163 空間インスタレーションへの拡張 164
中継メディアとしてのヴィデオ 166 ヴィデオ使用のその他の諸方法 166 劇映画へのヴィデオの進出 167
ヴィデオ、映画、アートシーンの緊張関係 168
補論:映画、ヴィデオ、コンピューターの関係について 170
ヴィデオと実験映画の非対称的な相互関係 170 実験ヴィデオと実験映画の並行的発展 171
映画からヴィデオへの越境者たち 172 シャーリー・クラーク 173 エド・エムシュウィラー 175
ジャド・ヤルカット 177 拡張映画の別の方向性 179 映画とヴィデオへのデジタルテクノロジーの導入 180
パット・オニール 180 スタン・ヴァンダービーク 182 映画とヴィデオ:同時並行的発展 187
シンセサイザーとプロセッサー:定義と概説 188
実験ヴィデオ 195
ヴィデオ実践の映像技術的な方向性 195 実験ヴィデオで用いられた機器と装置 196
実験ヴィデオのアプローチとテクノロジーの発展の密接な結びつき 201 写真的思考からの離反 202
抽象映画と実験ヴィデオの相違点 205 ウッディ・ヴァスルカの Art of Memory 206 ゲイリー・ヒル 209
ナム・ジュン・パイク 212
実験ヴィデオの二重のアプローチ 214
ヴィデオ文化 217
ヴィデオ実践の三つの方向性 217 キッチン:メディア横断的な実験の場 221
メディアの誕生の諸段階 222 ヴィデオ文化的実践の端緒:アコンチとオッペンハイム 223
女性の身体表象の再帰的主題化:ローゼンバッハ、ジョナス、エクスポート、ペッツォルト 224
テレビ映像への介入:バーンバウム、パイク 224
写真的—映画的映像への介入:フォム・ブルッフとオーデンバッハ 226
映像レベルと対象レベルの緊張関係:キャンパス 227
二次元的摸像と三次元的シミュレーションの対置:中島 227
ヴィデオによる映像の再メディア化 228 映像性のダイナミズムの強化と圧縮:ギトンとランゴート 231
ダイナミズムの除去:レヴィーネ 231
メディア的リアリティの自己反省と閉回路の活用:セラとキースリンク 232
物語的リニア性とプロセス的視覚性の緊張関係:カエン 233
異所的なコラージュとしてのヴィデオ映像:カラス 233
ヴィデオ—スクラッチ:オルティスとアーノルト 234 コンピューターメディアにおけるスクラッチ: Jodi 235
可視性の限界の探究:ラーチャー 236 ヴィデオ映像の諸性質の意識化:フーヴァー 239
マトリクス映像における表面と構造の諸関係:ヒル 239
メディア言語の翻訳と電子的語彙の探究:ヴァスルカ夫妻 240
メディア的リアリティの多面的考察:ハーシュマン 241 ハイパーメディアへの移行:シーマン 243
電子的語彙の探究にほとんど寄与しないヴィデオ使用:ビル・ヴィオラの事例 245
マルチメディアへの拡張:アハティラ、アケルマン、ウェアリング 246
第三部:ヴィデオ美学 251
スケール、ペース、パターン 253 キャパシティ、速度、操作性 255 技術と美学の対話的関係 256
プロセス性と変換性 257 視聴覚性、再帰性、複数的な装置的秩序 259
ヴィデオの間メディア的な確立 259 ノイズからのヴィデオの誕生 261
視聴覚性(変換性)、再帰性(プロセス性)、抽象化(ノイズ) 263
機器、自己反省、パフォーマンス:ヴィト・アコンチとデニス・オッペンハイム 264
映像、摸像、メディア映像:ウルリケ・ローゼンバッハ、ジョーン・ジョナス、ヴァリー・エクスポート 281
ヴィデオ/ TV :ナム・ジュン・パイクとダラ・バーンバウム 297
ヴィデオ、写真、映画:クラウス・フォム・ブルッフとピーター・キャンパス 310
構造ヴィデオ:ミヒャエル・ランゴート、レス・レヴィーネ、ジャン=フランソワ・ギトン、リチャード・セラ、
ディーター・キースリンク 325
ヴィデオの音楽化:ロベール・カエン 341
マルチレイヤー化と圧縮:ピーター・カラス 349
ヴィデオ・スクラッチ:マーティン・アーノルトとラファエル・モンターニェス・オルティス 357
ヴィデオ・ヴォイド:デイヴィッド・ラーチャー 365
ミクロ次元/マクロ次元:ナン・フーヴァー 373
映像、テクスト、声、書字:ゲイリー・ヒル 380
ヴィデオとコンピューター:スタイナ・ヴァスルカとウッディ・ヴァスルカ 391
ヴィデオとヴァーチュアル環境:リン・ハーシュマン 428
ヴィデオ、詩学、ハイパーメディア:ビル・シーマン 438
ヴィデオ・インスタレーション:エイヤ=リーサ・アハティラ、シャンタル・アケルマン、ジリアン・ウェアリング 447
展望:複雑性とインタラクティヴ性 457
訳者あとがき 465
文献一覧 471
図版一覧 480
人名索引 486
『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』
ISBN978-4-13-080216-1, 発売日:2012年05月下旬, 判型:A5, 304頁
■内容紹介
文化・資本が国境を越え流動化していった1930年代,映画はいかにグローバル資本主義と結びつき,国民国家を強化したか.『その夜の妻』『非常線の女』から『愛染かつら』まで,松竹メロドラマ作品を詳細に分析し,その物語に潜む政治イデオロギーを抉り出す.
「女性という主体」から映画学・映画批評界に一石を投じている。旧来の「男たち」による小津安二郎神話が解体され、軽視されてきたメロドラマの政治性に目を向けている。
■主要目次
序 章 メロドラマの近代
第1節 国境横断的な文化形式としてのメロドラマ
第2節 女性映画としてのメロドラマ映画——消費文化における女性の主体化/客体化
第3節 「国民国家」の臨界点としてのメロドラマ映画
第1章 サスペンスと越境——小津安二郎の「犯罪メロドラマ映画」
第1節 近代都市の境界——『その夜の妻』
第2節 アメリカン・ギャングスター——『非常線の女』
第2章 港の女たち——清水宏の「堕落した女のメロドラマ」
第1節 国境を漂う女たち——国民国家と帝国建設の狭間で
第2節 「混血」という戦略——『港の日本娘』
第3節 「母性愛メロドラマ」と「無国籍者たち」——『恋も忘れて』
第3章 二つの都市の物語——島津保次郎『家族会議』と「メロドラマ的創造力」
第1節 1936年2月26日——交錯するマス・メディアの網の目
第2節 複数のメディアを越境する
第3節 「レトリックの論理」——三木清のメディア論
第4章 「大衆」を「国民化」するイメージ——野村浩将『愛染かつら』と「母性愛メロドラマ」
第1節 熱狂したのは誰だったのか?
第2節 「大衆」と「国民」の狭間で
第3節 「大衆」のためのメロドラマ——『愛染かつら』の物語構造
第4節 「大衆」の時間、「国民」の時間——「すれ違い」というレトリック
第5節 呼びかける「母」の歌声——「大衆」のイメージから「国民」のイメージへ
終 章 メロドラマ的二元論の彼方へ
■御園生 涼子
MISONOU Ryoko
1997年東京大学文学部英語英米文学科卒業、2002年パリ第八大学造型文化学科DEA課程修了、2006年東京大学大学院総合文化学科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了、博士(学術)(東京大学)
十九世紀後半に誕生した映画という文化形式が、二〇世紀における感覚知覚の変容とメディア文化の拡大を通じて、どのようにグローバルな文化的・政治的地政学の構築に参与していったのかを考えてきました。主に両大戦間期における文化の流動性、無国籍者や異種混淆性といった概念を手掛かりとして、日本、アメリカ、ヨーロッパの映画を中心に研究しています。
■御園生涼子博士論文公開審査
論文題目:「越境する情動:一九三〇年代松竹メロドラマ映画における文化の流動性」
審査員(順不同):松浦寿輝・浦雅春・内野儀・吉本光宏・蓮實重彦
2012-06-06
『狩猟文学マスターピース』
みすず書房 服部文祥著、服部文祥編集 価格:¥2,730
四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/288頁
定価 2,730円(本体2,600円)
ISBN 978-4-622-08095-4 C1395
2011年12月8日発行
「獲物を狩る、もしくは獲物として狩られる、という行為は人類史を通してずっと行われてきた。だが、それを言語表現にうまく置き換えている作品はそれほど多くない。……本書と並ぶような狩猟文学の作品群を集めるのは、現時と近未来では不可能だとおもう」(服部文祥「解説」)
サバイバル登山家、そして大の読書家。最近では「狩猟サバイバル」を実践する服部文祥がこよなく愛し、自らの血と骨としてきた国内外の狩猟文学から「マスターピース」の名にふさわしい11作品を厳選。稲見一良、津本陽からデルスー、ナンセン、宮沢賢治まで、分野は小説、エッセイ、ノンフィクションなど多岐にわたる。人とケモノ、人と狩猟をめぐるみずみずしい思想の発露がここに。
「狩猟文学マスターピース」の著訳者:
服部文祥
はっとり・ぶんしょう
登山家。1969年横浜生まれ。94年東京都立大学フランス文学科とワンダーフォーゲル部卒。大学時代からオールラウンドに登山をはじめ、96年カラコルム・K2、冬期の黒部横断から黒部別山や剱岳東面の初登攀など、国内外に複数の登山記録がある。99年から長期山行に装備と食料を極力もち込まず、食料を現地調達するサバイバル登山をはじめ、そのスタイルで南アルプス・大井川〜三峰川、八幡平・葛根田川〜大深沢、白神山地、会津只見、下田川内、日高全山、北アルプス縦断、南アルプス縦断など日本のおもな山域を踏破。それらの記録と半生をまとめた異色の山岳ノンフィクション『サバイバル登山家』が話題を呼ぶ。
フリークライミング、沢登り、山スキー、アルパインクライミングなど登山全般を高いレベルで実践する一方、近年は毛バリ釣り、魚突き、山菜・キノコなど獲物系の野遊びの割合が増え、05年からは狩猟もはじめる。
96 年から山岳雑誌「岳人」編集部に参加。旧姓、村田文祥。著書に『サバイバル登山家』『狩猟サバイバル』(ともにみすず書房)、『百年前の山を旅する』(東京新聞出版局)、『サバイバル!』(ちくま新書)。共著に『森と水の恵み』(みすず書房)、共編著に『日本の登山家が愛したルート50』(東京新聞出版局)がある。妻と三人の子供と横浜在住。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
目次
猟の前夜 マーリオ・リゴーニ・ステルン
鹿の贈りもの リチャード・ネルソン
「密猟志願」より 稲見一良
新しい旅 星野道夫
クマと陸地 フリッチョフ・ナンセン
『深重の海』より 津本陽
灰色熊(グリズリー)に槍で立ち向かった男たち シドニー・ハンチントン
デルスー運命の射撃 ウラジミール・アルセーニエフ
又吉物語 坂本直行
イヌキのムグ 辻まこと
なめとこ山の熊 宮沢賢治
解説——一〇頭目の鹿、もしくは狩猟文学の傑作たち 服部文祥
出典
■狩猟文学アンソロジータイトル案
「狩猟文学アンソロジー」
「狩猟文学選」
「狩猟文学名選」
「狩猟文学傑作選」
「狩猟文学傑作集」
「ザ・狩猟文学」
「狩猟文学の傑作(マスターピース・るび?)」
「傑作・狩猟文学」
「狩猟文学マスターピース」(「狩猟文学マスターピースズ」)hunting story masterpieces
masterpieces of hunting literature
「狩猟文学のマスターピース」
「狩猟文学ベスト10」
「ネズミ自身に刺激ボタンを押させると、寝食を忘れてボタンを押し続ける。だから装置電源をオフにしなくては餓死してしまう。最高の快楽は命よりも優先されるようだ。」
河出書房新社 デイヴィッド・J・リンデン著、岩坂彰翻訳 価格:¥1,995
評 池谷裕二(脳研究者、東京大学准教授)
刺激的な「快楽」の探求
遺伝子を検査してみた。その結果はじめて知った自分の秘密の一つは、ヘロイン依存症になりやすいことだった。まさかそんなことがわかるのかと驚きつつ他の項目に目をやると、アルコールにも依存癖があるが、タバコやコーヒーにはないと出ている。正解だ。
そんな経緯で本書を手にした。ふざけた書名にも思えるが「快感回路」は脳に実在する神経系だ。ドラッグや嗜好(しこう)品のみならず、美食、セックス、ギャンブル、恋愛、慈善などあらゆる快感にこの神経系が関与すると著者は言う。
実は私も研究室で快感回路の刺激実験をしている。たとえばネズミ自身に刺激ボタンを押させると、寝食を忘れてボタンを押し続ける。だから装置電源をオフにしなくては餓死してしまう。最高の快楽は命よりも優先されるようだ。「一度このネズミになってみたい」、そう漏らす学生の気持ちも理解できる。
本書はこの強烈な回路を徹底的に描く。快楽を感じる脳の機序、快楽が備わっている理由、系統発生的な快楽の獲得——動物たちもアルコールを嗜(たしな)み、自慰行為をする。だから、生命の本質たる「快」の探求はヒトを知ることにも通じる。トピックは幅広い。やせ薬、マニア心理、痛みの快楽、オルガスム増強薬、神秘体験。思わず人に話したくなる話題が盛りだくさんで、読むほどに快感回路が刺激される。とくに性愛を扱う第4章は多くが興味を持つだろう。
くだんの遺伝子は第6章で説明されていた。この辺りから最終章にかけては未来像が語られ、相当に読み応えがある。快楽を制御できれば、薬物中毒ばかりでなく、パチンコ依存症や浮気症、ストーカーの治療さえ可能かもしれない。いや、そればかりではない。小型の刺激装置を脳に埋め込めれば、誰でも至高のひとときが手軽に味わえるだろう。著者は問い掛ける。「快感がありふれたものになったとき、私たちは何を欲するのだろうか」。岩坂彰訳。
◇DavidJ.Linden=神経科学者、米ジョンズ・ホプキンス大教授。著書に『つぎはぎだらけの脳と心』。
河出書房新社 1900円
(2012年2月20日 読売新聞)
最新科学でここまでわかった、快楽と依存の正体
カイカンカイロ
快感回路
なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか
デイヴィッド・J・リンデン 著
岩坂 彰 訳
単行本 46変形 ● 256ページ
ISBN:978-4-309-25261-2 ● Cコード:0040
発売日:2012.01.23
The Compass Of Pleasure
David Linden's New Book That Explores How Our Brains Make Fatty Foods,
Orgasm, Exercise, Marijuana, Generosity, Vodka, Learning, and Gambling
Feel So Good
http://www.compassofpleasure.org/
■目次
Prologue
One-- Mashing the Pleasure Button
Two-- Stoned Again
Three-- Feed Me
Four-- Your Sexy Brain
Five-- Gambling and Other Modern Compulsions
Six-- Virtuous Pleasures (and a Little Pain)
Seven-- The Future of Pleasure
Notes
Acknowledgments
Index
■デイヴィッド・J・リンデン (リンデン,デイヴィッド・J・)
神経科学者。ジョンズ・ホプキンス大学医学部教授。主に細胞レベルでの記憶のメカニズムの研究に取り組むともに、脳神経科学の一般向けの解説にも力を入れている。著書に『つぎはぎだらけの脳と心』。
■岩坂 彰 (イワサカ アキラ)
1958年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。編集者を経て翻訳者に。訳書に、『ロボトミスト』、『心は実験できるか』、『「うつ」と「躁」の教科書』、『うつと不安の認知療法練習帳』、『西洋思想』など多数。
女性像研究2冊『〈悪女〉と〈良女〉の身体表象』『煩悶青年と女学生の文学誌—「西洋」を読み替えて』
〈悪女〉と〈良女〉の身体表象
神奈川大学人文学研究所 編者, 笠間 千浪 責任編集
A5判 272ページ 上製
定価:4600+税
ISBN978-4-7872-3336-3 C3036
奥付の初版発行年月:2012年02月/書店発売日:2012年02月18日
「悪女」や「良女」という概念を、『風と共に去りぬ』や『サロメ』などの文学作品や演劇、バウハウスの女性芸術家、モダンガール、戦後日本の街娼表象、現代美術のなかの赤ずきん表象などから検証し、女性身体とその表象をめぐる力学と社会構造を解き明かす。
目次
序文 笠間千浪
第1章 奴隷制擁護の小説とマミーの身体——「反アンクル・トム小説」から『風と共に去りぬ』へ 山口ヨシ子
1 黒く巨大でアセクシュアルな身体
2 黒人奴隷の身体描写が示すもの
3 「反アンクル・トム小説」における乳母の多様な身体
4 児童向け図書と奴隷体験記における黒人乳母
5 黒く巨大でアセクシュアルな乳母へ
第2章 踊る女の両義性——ロイ・フラー『サロメ』を中心に 熊谷謙介
1 倒錯の女か、「新しい女」か?
2 サロメ/ヨハネの二元論
3 オスカー・ワイルド、あるいはゲイが「演じる」サロメ
4 ロイ・フラー、あるいは〈良女〉としてのサロメ?
5 トランス‐フォーマンスする身体
第3章 マリアンネ・ブラントのフォトモンタージュ——バウハウスにおける〈もう一つの身体〉 小松原由理
1 『me』、あるいはバウハウスへの挑発?
2 バウハウスとの出合い
3 バウハウスのフォトモンタージュ
4 ブラントによるフォトモンタージュと〈女たちの身体〉
5 『me』、あるいはバウハウスにおける〈わたしの身体〉
第4章 消費、主婦、モガ——近代的消費文化の誕生と「良い消費者/悪い消費者」の境界について 前島志保
1 消費者二例——「消費者」としての主婦、モガ
2 婦人雑誌と消費者の誕生/創造
3 消費者としてのモダンガール
4 消費者の分節化——主婦とモガから見えてくる日常的近代性がはらむ問題
第5章 占領期日本の娼婦表象——「ベビサン」と「パンパン」:男性主体を構築する媒体(ルビ:メディア) 笠間千浪
1 日本占領期研究におけるジェンダー的視点
2 「占領軍慰安婦」制度と戦後日本のジェンダー秩序
3 占領改革と「女性解放」——GHQの〈ダブル・スタンダード〉
4 GI・イン・敗者の国——「現地の女」の形象〈ベビサン〉
5 〈女の身体(ルビ:パンパン)〉をめぐるポリティクス——「占領期性的ナラティヴ」と「肉体小説」
6 「敗者」と「勝者」の〈メディア〉としての女性身体/表象
第6章 狼少女の系譜——現代美術における赤ずきんの身体表象 村井まや子
1 赤ずきんの身体の両義性
2 赤ずきんの狼化——アンジェラ・カーター
3 狼少女の系譜——ヤズミナ・ツィニナス
4 少女・狼・森——鴻池朋子
5 狼少女の逆襲
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『煩悶青年と女学生の文学誌——「西洋」を読み替えて』
平石典子
発行:新曜社
A5判 360ページ
定価:4,200円+税
ISBN 978-4-7885-1273-3 C1090
在庫あり
奥付の初版発行年月:2012年02月 書店発売日:2012年02月15日
装幀 — 難波園子
◆「新しい男」「新しい女」はいかに誕生したか◆
日露戦争が始まる前年の明治三六年、一東大生が「人生は不可解なり」との遺書を残して華厳の滝から投身自殺をしました。以来、「煩悶」と自殺がブームになり、若者の望みは立身出世から煩悶青年にシフトしたのです。女子の高等教育の必要も叫ばれ、「女学生」も誕生しましたが、そこには「良妻賢母」から「堕落女学生」「宿命の女」など、様々の「女学生神話」が形成されました。森田草平と平塚らいてうの心中未遂事件もありました。本書は、これら「新しい男」「新しい女」のイメージの形成を文学作品のなかに探ったものですが、特に、西洋文学の翻訳を通して、そのイメージがどのように読み替えられていったかをたどります。そこには現在の若者像の萌芽がいたるところに見られます。ユニークな視点からの若者論です。著者は筑波大学准教授。
■目次
はじめに
第一章 明治の「煩悶青年」たち
一 「煩悶青年」とは何か
煩悶の萌芽
「巌頭之感」の衝撃
煩悶の流行と変質
二 文学のなかの煩悶青年たち
ロシア経由の無為 — 文三から欽哉へ
煩悶できる身分
「恋」という煩悶
三 明治末の『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
「煩悶青年」の物語としての『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』
自由劇場試演とその反響
鴎外のテクスト
第二章 「女学生」の憂鬱
一 「女学生」というメタファー
開かれた少女たち — 明治の新教育
『薮の鶯』の少女たち
「恋愛」する女学生
二 「恋愛」の波及
『女学雑誌』の役割
「恋愛」の翻訳
翻訳の功罪
三 「女学生神話」の確立
ファンタスムの誕生 —「新聞小説」と女学生
「神話」の確立
「知性」と「堕落」—『魔風恋風』と囲い込まれる女学生
第三章 「堕落女学生」から「宿命の女」へ
一 「堕落女学生」の行方
引き裂かれる頭と身体
「悪女」の可能性
新しい二極化 —『青春』の女たち
二 明治東京の「宿命の女」
翻訳のなかの「宿命の女」 —『みをつくし』とダンヌンツィオ
エキゾティックな強者
クレオパトラと「新式の男 」—『虞美人草』をめぐって
第四章 「新しい男」の探求 — ダンヌンツィオを目指して
一 『煤煙』という出発点
「塩原事件」と『死の勝利』— 明治日本のダンヌンツィオ
「宿命の女」の造形 —『煤煙』の女性像
「新しい男」の出現
二 漱石と・Oの青年像 —「新しい男」とは何か
塩原事件と『三四郎』
漱石の「新しい男」 — 長井代助
『青年』における「新しい男」と女性たち、そしてその後継者
三 「醜い日本人」をめぐって — ダンヌンツィオと高村光太郎を結ぶ糸
ダンヌンツィオのジャポニスム — サクミの登場
ロティの影 —『快楽』のサクミとその翻訳
日本人の手になる「醜い日本人」 — 高村光太郎の「根付の国」
第五章 女たちの物語
一 「令夫人」から「妖婦」へ — 大塚楠緒子の作品をめぐって
「令夫人」からの発信 —『晴小袖』と『露』
ロマンティック・ラブ・イデオロギーの解体と再構築
明治の「パオロとフランチェスカ」ブーム
二 遅れてきた女学生小説 —『あきらめ』の意義
女をめぐる言説
遊歩者としての女学生 — モデルニテの獲得
同性愛的世界
三 女たちの新たなる地平 —『青鞜』に集う物語
『青鞜』創刊号のフィクション —「生血」と「陽神の戯れ」
フラッパーとブッチ
「真の恋」の希求
おわりに
注
あとがき
事項索引
人名・著作・雑誌索引
■煩悶青年と女学生の文学誌 はじめに
本書は、明治中期から後期において、日本の文学のなかで新しい若者像がどのように形成されたのか、ということを明らかにしようとするものである。明治の日本は、突然世界史のなかに組み込まれ、十九世紀の進歩史観に基づいて、「近代文明」への階段を登り始めた。そのなかで、「近代文明」の在り処である「西洋」の文学が若者たちにどのような影響を与え、彼らの自己像および他者像の形成に関わったのか、ということに焦点を当て、比較文学的なアプローチでの究明を試みる。
明治文学における西洋文学の影響と受容、という問題は、日本の比較文学研究が長年取り組んできたテーマであり、既に多くの成果が存在している。本書では、そうした先行研究を参考にしながらも、西洋文学を、日本の知識人たちがどのように読み替えたのか、という差異の部分に着目する。文学作品の「翻訳」—
translationの語源は trans = 横切る +la│tus =もたらされる、でまさに「移動」を意味するもの(1)だが —
におけるテクストの差異や異同を考察することによって、明治の日本文学における若者表象の特色が、より鮮明になるのではないかと考えるからである。「基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれない」と多和田葉子は語っている(2)が、翻訳者がテクストに必ず自分と、翻訳が読まれる世界での価値観や効果を反映させるものであることは、ボルヘスが『千夜一夜物語』の翻訳史を追った「『千夜一夜』の翻訳者たち(3)」にも明らかだろう。とすれば、差異や異同に着目することによって、当時の西洋文学の読者(そして翻訳者、紹介者)であった明治の知識人たちが「何を見たかったのか」ということが明らかになるのではないだろうか。また、翻訳だけではなく、その伝播の様相からも、若者表象の特徴が見えてくるのではないか。西洋の文学にあらわれた特徴的な人物類型が、時には読み替えられ、ねじれながら、日本のテクストのなかで広がっていく過程を追うことによって、明治後期の若者表象の特色を考察したい。その手法からも、本書は一つの作品や特定の作家を深く分析するものではなく、広く同時代の文脈のなかで西洋文学と日本文学との関わりを考察することになる。
一方、明治の若者を論じたものとしては、E・H・キンモンス『立身出世の社会史』(広田照幸ほか訳、玉川大学出版部、一九九五年)、木村直恵『「青年」の誕生
— 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、一九九八年)などがある。また、明治の女学生に関する研究は、本田和子『女学生の系譜 —
彩色される明治』(青土社、一九九〇年)以降、文学や社会学など、さまざまなアプローチから進んできたといえる。本書は、木村が論証した、慷慨から内省、未熟へと移ってゆく青年の自画像のその後として「煩悶青年」と文学との関わりを考察するとともに、そうした青年たちの「新しい男」としての自己像と、それに伴う文学的想像力が、他者としての「女学生」像を形成してゆくさまを検証する。そして、当時の女学生たち自身も、このようなイメージから自由でなかったこと、むしろ彼女たちに貼り付けられたイメージを逆手にとる形で明治末期の「新しい女」たちの文学運動を盛り上げていったことを明らかにする。このような視点からの研究が、現代の若者・女性論にも寄与するところがあればと願う。
考察手法は基本的には文学テクストの分析であるが、翻訳をも含めたフィクションを分析するにあたっては、同時代のテクストのなかに作品を置きなおし、その意味を考察することを心がけた。明治の知識人たちが触れたであろう外国語のテクストに関しては、できる限り原典を参照したが、イプセンの作品やロシア文学など、著者の能力を超えるものに関しては、現代の日本語訳に拠っていることを記しておかなくてはならない。また、本書で扱う「若者像」は、「煩悶青年」と「女学生」という言葉に象徴されるように、あくまでも当時の文学に最も積極的に関わった階層である、高等教育を受けた知識階級の若者たち(4)を指すものであることも、断わっておく必要があるだろう。
以下、各章の概要を述べる。
第一章は、「立身出世」を追い求めるべきものとされていた知識階級の青年たちが、そうした価値観に背を向けて、自己の内面へと向かう様子を「煩悶青年」という呼称を軸に追ってみた。天下国家を論じることをやめ、恋愛などの身の回りの問題を重視するようになる若者たちの姿からは、彼らが「西洋」の文学にあらわれた青年像をモデルにすることで、自己像の正当化を図ろうとする姿が見える。また、イプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』をめぐっては、作品の本来の姿からは離れる形で、親の世代の価値観に背を向けて生を謳歌する若者の物語としてこの作品が日本で受容される様相が明らかになる。
一方、第二章で扱うのは、「新しい」青年たちがパートナーとして選び取ろうとした、「新しい」女性たち、当時の「女学生」である。ここでは、女学生たちがどのように自己を表現したか、という点よりは、女学生たちが客体としてどのように表象されたのか、ということが中心になる。新時代の女性として、西洋的な教養を身につけることを期待された女学生たちは、日本社会のなかでは、最初から物議を醸す存在だった。三宅(田辺)花圃が描き出す、社会に貢献したいという女学生の願いは、顧みられることがない。一方で、西洋風の男女交際や恋愛を説くことによって女学生を「啓蒙」しようとする『女学雑誌』の戦略は、精神性を称揚し、肉体性を排除するという、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの日本的な受容の広まりとともに、青年男女に刷り込まれていく。しかしながら、生身の人間の関係である「恋愛」を、理念だけで語ることはできない。女学生たちは性的スキャンダルに巻き込まれることにもなる。その結果、メディアと文学を中心とした言説は、「女学生神話」を作り出し、女学生たちを囲い込んでいくのである。
続く第三章では、女学生をめぐる否定的な言説が、ヨーロッパ世紀末文学の影響を受けながら、新しい女性表象を形成していくことを論じる。「女学生神話」の波及とともに、女学生たちの知性と身体は相反するものとして描かれ、結局彼女たちは身体的(性的)な存在として、その知性をE奪されてきた。しかし、そのなかで、性的な側面ばかりが強調される彼女たちの表象は、自らの性的魅力を利用して男性を誘惑する、悪女としての自覚を持つ女性像をも生み出していく。一方、煩悶青年のパートナーとして、都会的で西洋的な女性をヒロインに据えようとする文学的想像力は、ヨーロッパ世紀末文学のなかの「宿命の女」像にも魅力を感じるようになっていく。
第四章では、男性の価値観の変容の様子を、イタリアの詩人・作家であるガブリエーレ・ダンヌンツィオの作品との接触を軸にして考察する。森田草平と平塚明子が一九〇八年に起こした心中未遂事件と、その事件をもとに森田が創作した小説『煤煙』は、世紀末文学としての特色を備えたダンヌンツィオの小説に多くを負ったものとして、当時の知識人たちの興味をひいたものだった。ダンヌンツィオの作品と『煤煙』を対照することによって、『煤煙』に描かれる男女が、当時の日本文学のなかでどのような新しさを備えていたのかを明らかにする。そして、この新しい男性表象が、夏目漱石と森・Oをも刺激し、彼らが彼らなりの「新しい男」像を創造したことを考察する。また、ダンヌンツィオの『快楽』に登場する日本人の描写をてがかりに、この日本人描写がどのような過程を経て生まれたのか、そしてこのような日本人の描写が日本でも採用された例として、高村光太郎の詩を見てみたい。
最後の第五章では、これまで論じてきたような女性表象に囲まれながら、実際の女性作家たちが、どのような発信をしたのか、という点について考察する。その際、注目するのは、大塚楠緒子、田村俊子と、初期の『青鞜』に寄せられたフィクションである。大塚楠緒子は、女学生の「その後」の物語を数多く描いた作家だが、西洋の文学や文化に関する知識も作品のなかに取り入れながら、女性の側から見たロマンティック・ラブのあり方などを模索している。田村俊子は、『あきらめ』という作品において、遊歩者(fl穎euse)としての女学生と、同性愛的な世界を描くことによって、女学生が単に視線を注がれるだけの存在ではないことを示す。この作品において描かれるのは、主体的な存在であろうとする女学生なのである。大塚も、田村も、男性たちの紡いだ女性表象をも取り入れ、それを自分なりに解釈して新しい女性表象を試みている。最後に分析するのは、一九一一年に創刊となった『青鞜』に寄せられたフィクションであるが、初期の『青鞜』のフィクションからは、大塚や田村の作品をうけて、さまざまな方向で女性の主体性を主張しようとする女性たちの意気込みを感じることができるだろう。
なお、本書において使用される「西洋」という言葉は、当時「近代文明」のありかとされていた、西ヨーロッパおよび北アメリカの、白人社会のことを指すものである。その場合、明治期と同様、ヨーロッパ中心主義的コノテーションが含まれているものとする。
『評伝ゲルツェン』
成文社 長縄光男著 価格:¥7,140
評 佐藤優(作家、元外務省主任分析官)
■「露魂洋才」の知識人
19世紀ロシアの知識人ゲルツェンに関する見事な評伝だ。後進国であるロシアの知識人は、「西欧のそれとは異なり、基本的には『国策』にそって人為的に作り出された階層であった」。しかし、知識人の多くは、国策に合致しない革命家となり、亡命を余儀なくされた。ゲルツェンもその一人だ。
ロシア思想史でゲルツェンは西欧派の代表者と見なされるが、決して外国かぶれではない。ロシアの近代化は、西欧の矛盾を克服し、社会主義革命によって実現されると考えた。社会主義によって人間の自由と幸福が実質的に保障されると信じたのである。同時にゲルツェンは、マルクス主義的な社会主義の危険性を察知していた。そのことが、初期マルクスの思想形成に大きな影響をあたえたヘスとゲルツェンの論争で浮き彫りになる。この点について著者の以下の評価が興味深い。
「早い話、ソ連邦が『社会主義(共産主義)』社会の建設に失敗した今日、『今やプロレタリアートの時代だ』『プロレタリアートの革命に拠(よ)ってヨーロッパは再生するのだ』というヘスの議論は空(むな)しいものに見えるのに反して、『民主主義』や『自由』という近代思想の普遍的成果と思われる理念自体、それが『大義名分』と化したときは、『個人の尊厳性』にとって抑圧者、敵対者でしかありえず、そこに政治史的視点からする『進歩』は何の意味も持たないというゲルツェンの批判は、むしろ今日ただ今の議論として聞いても、それほど違和感はないだろう」
評者も長縄氏の評価に同意する。西欧近代文明も社会主義もゲルツェンにとっては外皮にすぎない。反体制的言語を用いながらゲルツェンはロシアとロシア人を心底愛し、後進国ロシアの生き残りを真剣に考えて行動した。「露魂洋才」の知識人なのだ。
「内面の変革を抜きにした外面的変革」では、真の改革はできないというゲルツェンの指摘は、21世紀の日本においても有効だ。日本の復興には、内側から日本人を変革する思想に命を懸ける知識人が必要だ。(成文社・7140円)
評・佐藤優(作家、元外務省主任分析官)
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ISBN978-4-915730-88-7 C0023
A5判上製 本文縦2段組560頁
定価7140円(本体6800円+税)
2012.01
トム・ストッパードの長編戯曲「コースト・オブ・ユートピア──ユートピアの岸へ」の主人公、アレクサンドル・ゲルツェンの本邦初の本格的評伝。十九世紀半ばという世界史の転換期に、「人間の自由と尊厳」の旗印を高々と掲げ、ロシアとヨーロッパを駆け抜けたロシア最大の知識人の壮絶な生涯を鮮烈に描く。生誕二〇〇年記念出版。
# 目次
はしがき
プロローグ
第一部 一八一二年─一八四〇年
第一章 父のこと、母のこと
第二章 目覚め
第三章 学生時代
第四章 逮捕
第五章 流刑 ペルミ
第六章 流刑 ヴャトカ
第七章 流刑 ウラジーミル
第二部 一八四〇年─一八四七年
第一章 転々(モスクワ─ペテルブルグ─ノヴゴロド、一八四〇─一八四二)
第二章 モスクワ帰還
第三章 ゲルツェンのいないモスクワで(一)──一般的風潮──
第四章 ゲルツェンのいないモスクワで(二)──チャアダーエフとカトリック的西欧主義──
第五章 ゲルツェンのいないモスクワで(三)──イヴァン・キレーエフスキーとスラヴ主義の成立──
第六章 ゲルツェンのいないモスクワで(四)──スタンケーヴィチ、ベリンスキー、バクーニン──
第七章 新しい地平 『学問におけるディレッタンチズム』(一)
第八章 新しい地平 『学問におけるディレッタンチズム』(二)
第九章『自然研究書簡』──「近代的知」の系譜を訪ねて──
第十章 小説 『誰の罪か?』、『どろぼうかささぎ』、『クルーポフ博士』
第十一章 西欧派の分岐、そして出国
第三部 一八四七年─一八五二年
第一章 一八四七年 パリ
第二章 嵐の前 イタリア(一八四七年十月─一八四八年四月)
第三章 嵐の中 二月革命
第四章 嵐の後 向こう岸からの思想
第五章「ロシア社会主義」論
第六章「お金」のはなし
第七章「家庭の悲劇の物語」
第四部 一八五二年─一八七〇年
第一章 自由ロシア出版所
第二章『北極星』
第三章『ロシアからの声』──「ロシアのリベラル」の登場──
第四章『コロコル(鐘)』──「大改革」への発言──
第五章 vs チチェーリン
第六章 父と子──vs チェルヌイシェフスキー&ドブロリューボフ──
第七章 上げ潮──「解放」のあとさき──
第八章 引き潮──「ポーランド問題」──
第九章 最後の闘い
エピローグ
あとがき
関連文献抄録
ゲルツェン略年譜
事項索引
人名索引
# 著者紹介
長縄光男(ながなわ・みつお)
一九四一年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。 現在、横浜国立大学名誉教授。
著書に『ニコライ堂の人びと──近代日本史のなかのロシア正教会』(現代企画室)、『ニコライ堂遺聞』(成文社)、編著に『異郷に生きる』、『異郷に生きるII』、『遥かなり、わが故郷──異郷に生きるIII』、『異郷に生きるIV』、『異郷に生きるV』(いずれも成文社)。訳書にリハチョーフ『文化のエコロジー──ロシア文化論ノート』(群像社)。共訳書にゲルツェン『過去と思索』全3巻(筑摩書房、日本翻訳出版文化賞受賞、木村彰一賞受賞)、『ロシア革命批判論文集』(1・2)(現代企画室)など。
『The Beauty Bias The Injustice of Appearance in Life and Law』
キレイならいいのか ビューティ・バイアス THE BEAUTY BIAS
Kirei nara ii no ka
デボラ・L・ロード:著, 栗原 泉:訳
シリーズ・叢書「亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ」の本一覧
発行:亜紀書房
四六判 288ページ 上製
定価:2,300円+税
ISBN 978-4-7505-1203-7 C0036
奥付の初版発行年月:2012年02月
書店発売日:2012年02月24日
The Beauty Bias
The Injustice of Appearance in Life and Law
Deborah L. Rhode
■「容姿による差別」はいかに起こるのか。
「容姿による差別」を問題にすると「ほかにもっと大きな問題
があるのになぜそんなことを」と言われてしまう。しかし、そ
の小さなことに年400 億ドル(ダイエット)、180 億ドル(化
粧品)が費やされ、就職差別があり、生涯賃金まで変わってく
る。
スタンフォード大学法科大学院アーネストW.マクファーラン
ドの冠教授で、法曹論理でもっとも多く引用される研究者デボ
ラ・L・ロード(Deborah L. Rhode) が、この問題を歴史的文化
的背景から掘り起し、医療業界やメディアの功罪を暴き、法的
保護の作用までを徹底的に分析・検証する。
Features
* Covers a perennially hot topic--the social power of beauty and
appearance in American culture--in a unique way and empirically
demonstrates its pernicious effects
* First book to explain how our legal system fails to address this
destructive bias
* Will appeal to anyone interested in how appearance norms
reinforce gender inequality
* Author is a major scholar of social injustice in American life
■目次
第一章●些末なことが大事なこと——女たちが支払っている代償
第二章●容姿の重要性と、ひとをマネる代償
第三章●美の追求は割に合う?
第四章●際限のない批判合戦
第五章●外見で人を判断するな——不当な差別
第六章●新しく作るか、あるものを使うか——法の枠組み
第七章●改革に向けての戦略
Table of Contents
Preface
1. Introduction
The Personal Becomes Political: The Trouble With Shoes
The Costs and Consequences of Appearance
Surveying the Foundations: Social, Biological, Economic,
Technological, and Media Forces
Feminist Challenges and Responses
Appearance Discrimination: Social Wrongs and Legal Rights
Legal Frameworks
A Roadmap for Reform
2. The Importance of Appearance and the Costs of Conformity
Definitions of Attractiveness and Forms of Discrimination
Interpersonal Relationships and Economic Opportunities
Self- Esteem, Stigma, and Quality of Life
Gender Differences
The Price of Upkeep: Time and Money
Health Risks
Bias
3. The Pursuit of Beauty
Sociobiological Foundations
Cultural Values, Status, and Identity
Market Forces
Technology
The Media
Advertising
The Culture of Beauty
4. Critics and Their Critics
Nineteenth and Early Twentieth Century Critics
The Contemporary Women's Movement
Critics
Responses
Personal Interests and Political Commitments
Beyond the Impasse
5. The Injustice of Discrimination
Ensuring Equal Opportunity: Challenging Stigma and Stereotypes
Challenging Subordination Based on Class, Race, Ethnicity, Gender,
Disability, and Sexual Orientation
Protecting Self-Expression: Personal Liberty and Cultural Identity
The Rationale for Discrimination and Resistance to Prohibitions
The Parallel of Sex Harassment
The Contributions of Law
6. Legal Frameworks
The Limitations of Prevailing Legal Frameworks
Prohibitions on Appearance Discrimination
A Comparative Approach: European Responses to Appearance Discrimination
The Contributions and Limitations of Legal Prohibitions on Appearance
Discrimination
Consumer Protection: Prohibitions on False and Fraudulent Marketing Practices
Directions for Reform
7. Strategies for Change
Defining the Goal
Individuals
Business and the Media
Law and Policy
2012-06-01
『「窓」の思想史: 日本とヨーロッパの建築表象論』
著者:浜本 隆志.
出版:筑摩書房
価格:1,680円(税込み)
# 単行本: 270ページ
# 出版社: 筑摩書房 (2011/10/12)
# 言語 日本語
# ISBN-10: 4480015299
# ISBN-13: 978-4480015297
# 発売日: 2011/10/12
# 商品の寸法: 18.8 x 13.4 x 2 cm
■目次
第1章 ヨーロッパ—発信型文化と垂直志向
第2章 日本—受信型文化と水平志向
第3章 永遠性と一回性—窓ガラスと障子
第4章 ヨーロッパの閉鎖性と日本の開放性
第5章 窓辺の風景
第6章 窓の風俗史
第7章 政治支配のシンボルとしての建築
第8章 窓と欲望の資本主義
第9章 垂直志向から水平志向へ
第10章 窓のメタモルフォーゼ
■書評
(早稲田大学教授 原克)
[日本経済新聞朝刊2011年12月4日付]
窓から世界を見る。とはいっても、窓外の風景を愛(め)でよう、というのではない。窓そのものをモノとして眺め、モノとしての窓に織りこまれた世界観を、あぶりだそうというのである。本書の目指すところはこれだ。
これは建築史の本ではない。窓を理系の目ではなく、文系の目で分析するのだ。建築学の知見はふまえる。だが、あたかも古文書を鑑定するかのように、窓を鑑定するのである。著者にとり、「窓」は古文書なのだ。
窓の鑑定士の目には、さまざまな思想的風景が映る。
大聖堂の高窓からは「中世キリスト教的世界観」、貴族の王宮の窓からは「近代の絶対主義」、ヒトラーの「聖なる巨大なモニュメント」からは「ファシズムの権力構造」。さらには、9月11日、崩壊した「世界貿易センタービル」の高層ガラス建築の「巨大な窓」からは、「普遍的な南北問題」などなど。窓から見える「風景」はさまざまだ。
キリスト教にせよ、全体主義にせよ、南北問題にせよ、いずれも、かつて歴史学が歴史を語るときに援用した「大いなる物語(グラン・レシ)」たちだ。本書は、窓という小さな建築的できごとから、こうした大きな思想的できごとを遠望している。
しかし、それだけではない。
鑑定士の目には、さまざまな小さな物語も映る。窓をめぐり繰りひろげられてきた、文化的できごとたち。たとえば、窓辺で交わされる男女の秘め事。これも鑑定士は見逃さない。
窓の中には「女性」がおり、「女性を狙う男性」は窓外から窺(うかが)う。基本構造はこれだ。「ギリシア神話」にはじまり、「中世騎士道精神」や「『ロミオとジュリエット』」を経て、アムステルダムの「飾り窓の女」にいたるまで。「窓の風俗史」が、硬軟おりまぜて追求されてゆく。そして、そこから、時代の思潮や社会の欲望が遠望される。
鑑定士のまなざしは二重性でできている。一方で大いなる物語、他方で散漫な物語の断片。双方ともに、確実に視野に入れ鑑定してみせる。そこにこそ、本書の醍醐味がある。
■週刊東洋経済の書評
窓にとどまらぬ建築文化史という広がりの中で、日本と欧米の比較文化が論じられる。水平と垂直が全編のキーワードとなり、押す文化としての開き戸の欧米と、引く文化としての引き戸の日本という決定的な違いが発信型と受信型の文化の差につながっている。
垂直方向へ延びる欧米の建物は権威とヒエラルキーの所産であり、低層で水平に延びる日本の古い建物とは好対照を成す。西欧の窓はガラスの進歩で役割を大きく変え、日本では障子を閉じれば半透明、開ければ開放感あふれる独特の世界を生んだ。西欧の窓における光は明と暗、二項対立であるのに対し、日本ではグラデーションとなって国民性を規定しているという。
「窓辺の風景」「窓の風俗史」「窓と欲望の資本主義」など興味深い章が続くが、窓のみならず建築と政治、建築と思想のかかわりが展開されて大いに楽しめる。建物を見る目に加えて文明の行方を考えるよい手掛かりが得られるだろう。(純)
『文学とテクノロジー 疎外されたヴィジョン』
野島 秀勝 訳
税込価格 : 5880円 (本体価格5600円)
ISBN : 978-4-560-08301-7
体裁 : 四六判 上製 380頁
刊行年月 : 2012-06
内容 : 非人間的な近代産業に反逆し、逃避したはずの十九世紀芸術家たちが、テクノロジーに毒されていたことを喝破。「方法の制覇」「視覚の支配」などを批判した文化史の傑作。待望の復刊!
高山宏解説
■目次
Conquest by Method
3
Two Cultures
10
Limited Initiative
20
The Logic of Purity
28
Romantics and Aesthetes
36
Craft as Bricolage
47
The Rigors of Method
53
The Privations of Art
63
The Visual
74
Mimesis and Methexis
86
Visual World and Visual Field
102
Color and Geometry
112
『都市を生きぬくための狡知—— タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』
# 出版社: 世界思想社 (2011/3/1)
# ISBN-10: 4790715132
# ISBN-13: 978-4790715139
# 発売日: 2011/3/1
自らマチンガとなり、タンザニアの路上で、嘘や騙しを含む熾烈な駆け引きを展開しながら古着を売り歩き、500人以上の常連客をもった著者。ストリートで培われる狡知に着目して、彼らのアナーキーな仲間関係や商売のしくみを解き明かす。
■目次
はじめに
序論
序章 マチンガと都市を生きぬくための狡知
第一章 ムワンザ市の古着商人と調査方法
第二章 マチンガの商世界 — 流動性・多様性・匿名性
●第I部 騙しあい助けあう狡知 — マチンガの商慣行を支える実践論理と共同性
第三章 都市を航海する — 商慣行を支える実践論理と共同性
第四章 ウジャンジャ — 都市を生きぬくための狡知
第五章 仲間のあいだで稼ぐ — 狡知に対する信頼と親密性の操作
●第II部 活路をひらく狡知 — マチンガの商慣行と共同性の歴史的変容
第六章 「ネズミの道」から「連携の道」へ — 古着流通の歴史とマチンガの誕生
第七章 商慣行の変化にみる自律性と対等性
●第III部 空間を織りなす狡知 — 路上空間をめぐるマチンガの実践
第八章 弾圧と暴動 — 市場へ移動する条件
第九章 「あいだ」で生きる — 路上という舞
結論
終章 ウジャンジャ・エコノミー
注
あとがき
参照文献
索引
■小川 さやか (おがわ さやか)
1978年生まれ。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、現在、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員。
論文 「タンザニアにおける古着輸入規制とアジア製衣料品の流入急増による流通変革」(『アフリカに吹く中国の嵐、アジアの旋風』(アジア経済研究所)所収)
■第33回(2011年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞 川本 三郎(評論家)評
マチンガ、ウジャンジャ、マリ・カウリ。何やら不思議な言葉が頻出する。
はじめは腰が引けるのだが、読み進むうちにまたたくまに引き込まれる。アフリカの厳しい現実を描き出しているのに、にぎやかな祭りの場にいるような錯覚にとらわれる。
研究書だが、巷の熱気にあふれ、ノンフィクションを読んでいるような面白さがある。書斎や研究室から元気良くアフリカの町に飛び出していった若い学者の生きのいい行動力には感服する。
小川さんは、タンザニアのムワンザ市という都市(アフリカ最大の湖、ビクトリア湖の南東岸)に行き、町の経済を底辺で支える路上の商人たちを調査する。
マチンガとはその路上で商売をする零細商人のこと。ウジャンジャとは彼らが品物を売るために駆使する手練手管、知恵のこと。マリ・カウリとはマチンガのあいだで行なわれている商習慣である、口約束による取引のこと。いずれもスワヒリ語という。
調査と書いたが、小川さんは高いところからマチンガの実態を観察するわけではない。自分もまた一人のマチンガとなって彼らのなかに深く入り込む。対象となるマチンガは古着を売り歩く商人だが、小川さん自身もその仲間入りをする。
炎天下を、また雨のなかを両手に数十枚もの古着を抱えて売り歩く。五ヶ月を過ぎる頃には500人以上の常連客を持つようになる。何百人ものマチンガと親しくなり、客を巧みに騙す術も教えられる。
学者のフィールドワークではあるが、同時にジャーナリストのルポルタージュにもなっている。臨場感にあふれている。小柄な小川さんは彼らから見ると少女にしか思えない。それで可愛がられたのだろう。マチンガになって路上で商売をする。どこか『放浪記』の林芙美子の活力を思わせる。
マチンガはきちんとした店を持たない。屋台すらない。路上に古着を並べたり、自分で古着を持って売り歩く。わが「男はつらいよ」の渥美清演じるテキヤの寅さんのよう。
正規の商人ではないからしばしば警察の取締りの対象になる。それを巧みにかわす。「逃散、猫かぶり」「即興的な連携、素晴らしい演技力、変装、変幻自在な話術」。彼らはいわばトリックスターでもある。
マチンガにとって商売とは客との駆け引きであり、ときに騙し合いでもある。そこでウジャンジャという知恵が必要になる。金のない人間が都市の底辺で生きのびてゆくためにはウジャンジャしか武器はない。そしてそれはストリートで体験しながら覚えてゆくしかない。その意味でも「都市の路上は闘争のアリーナだ」という言葉が面白い。
アフリカの諸都市には戦いながら生きているこうしたマチンガが数多くいて、それが経済を支えているという。目を開かせてくれる。
日本から来た小さな女性がマチンガになる。小川さんは当然、町の超有名人になり、「調査地に空気のように溶け込む透明人間」という古典的な人類学の鉄則を捨てざるを得なかったという。愉快。楽しんで書いている喜びが伝わる。