◇『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』
(みすず書房・3360円)
◇『カフカノート』
(みすず書房・3360円)
◇「辺境」に向かう新たな芸術の試み
中欧から東欧にかけて、旧オーストリア=ハンガリー二重帝国の版図だったあたりは、文明論的関心の対象としておもしろい。作曲家=ピアニスト高橋悠治の本を読むと、彼が音楽的にも言語的にもこの地域に惹(ひ)かれていることがわかる。たとえば彼は書く。「シェーンベルク以来のヨーロッパ風現代音楽の音から手を切りたい、と思っている」と。ウィーンから離れようとしながらプラークのカフカにこだわるのかな?
というのは、彼は一九六〇年代、カフカの創作ノートをテクストにして作曲しようと努め、このノート『カフカ
夜の時間』を書きつづけた。八七年に上演。八九年に初版出版(晶文社)。みすず書房版の『カフカ
夜の時間』は再演の反省を含めての増補新版。その執着ぶりを見ると、文学者の個性に対する愛着よりも、あの地域の、ヨーロッパの辺境としての条件に興味をいだいているらしい。たとえば彼はカフカの文学の、商業ジャーナリズムを媒介としない前近代的な発表形態、孤独と自由にあこがれる。そしてまた、辺境であるせいでの言語的運命にも。なぜなら、日本こそヨーロッパの辺境の最たるものだから。
二十世紀後半の音楽は、音列技法はもちろん、さまざまな技法を使い、どんなに前衛的にみえようと、全体の統一をめざす限り、ドイツ・オーストリア的な一元論や普遍主義から離れられなかった。偶然性でさえ管理され、全体の構図の枠のなかに収まっていた。(中略)思いついた音からはじめても、そこから思うままにうごかしていくのではなく、思うままにならない音を追って曲がり、先の見えないままにすすむのは、即興とどこがちがうだろうか。(中略)
「もしインディアンだったら、すぐしたくして、走る馬の上、空中斜めに、震える大地の上でさらに細かく震えながら、拍車を捨て、拍車はないから、手綱を投げ捨て、手綱もなかった、目の前のひらたく刈り取った荒地も見えず、馬の首も頭もなくなって」(カフカ「インディアンになる望み」)
ことばを書けば、それが存在しはじめる、ただしこの世界のなかではなく、どこともしれない文学空間のひろがりのなかで。
シェーンベルク以来の現代音楽に別れようとすると、言葉が必要となり、そこでまたカフカの断章三十六片と出会う。六〇年代の失敗ののち半世紀後にまた試みられて(その台本が「カフカノート」)、今度はもっと即興性が強くなり、全体の統一は軽んじられ、神が細部に宿り過ぎ、ストーリーの方向は茫漠(ぼうばく)としている。それでも「カフカノート」という「演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみ」に参加しなければならない聴衆の負担は増す。わたしは昨年四月、シアターイワトで公演に立会い、感覚の斬新と趣向の妙と豊かなエネルギーに熱中したり、疲れ果てたりした。文学の場合と違い、パーフォーミング・アーツは、テクストを読み返したり、飛ばし読みしたりするわけにゆかない。そういうジョイスやプルーストやカフカの読者の特権はわれわれに与えられていないから、芸術の新しい形態や方向を探求することの当事者となる者、すなわち享受者の責任の取り方はむずかしい。
−−「今週の本棚:丸谷才一・評 『カフカ 夜の時間−メモ・ランダム』/『カフカノート』=高橋悠治・著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付。