河出書房新社 ジーン・M・トウェンギ、W・キース・キャンベル著、桃井緑美子翻訳 価格:¥2,940
The Narcissism Epidemic:
Living in the Age of Entitlement
by Jean M. Twenge and W. Keith Campbell
Published in April 2009 by Free Press,
a division of Simon & Schuster, Inc.
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■評 岡田温司(西洋美術史家、京都大学教授)
米個人主義の病に迫る
OLが出勤中に電車でお化粧、そんなのは序の口。
最近よく目にするようになったのは、目の前の座席に陣取った高校生らしき男子たちが、カバンから大きな鏡を取り出して長々とヘアスタイルを整えているという光景。人は誰でも自分がかわいい。大なり小なりナルシシストであり、その意味で、名高いギリシア神話の主人公ナルキッソスの末裔(まつえい)である。
だが、そうした自己愛が近年ますます過熱して、一種の社会的な「流行病」にすらなっているのではないか、本書の著者である2人の心理学者は、アメリカの現状を具体的に分析しながら鋭くその病理をえぐり出してみせる。もちろん他人事ではない。それはわれわれ自身の問題でもある。この傾向をあおっているのは、マスメディアやインターネットなどに氾濫している、スターやセレブ、有名人やいわゆる「勝ち組」たちの華やかなイメージである。それらのイメージはいわば鏡像として機能していて、人はいやがうえにもそこに自分を重ねて見ようとする。いかにしてその鏡像に近づき一体化することができるか、それが、せちがらい社会を生き抜くための有効な戦略として持ち上げられる。いまやコンピューターやテレビの液晶画面が、かつてギリシアの美青年を魅了した水面に取って代わったのだ。
それにしてもなぜこれほどまで自己愛過剰な社会が出現したのか。著者は、あらゆる局面で打ち消しがたい価値とみなされてきた個人主義に、その最大の原因を見ている。個性の尊重、個人の自由、自尊心、自己表現、自己啓発、自己主張、自己実現、自己宣伝、われわれの耳にもなじみ深いこれらの言い回しは、いずれも個人主義の発想に培われたものだ。が、それは容易に自己中心的な自己愛へと転倒する。とするなら、いまや発想の転換が求められている。子育て、教育、メディア、経済政策等に向けられた彼らの批判的な提言は、「俺さま」時代を生きるわれわれへの警告でもある。桃井緑美子訳。
◇Jean M.Twenge=サンディエゴ州立大教授。◇W.Keith Campbell=ジョージア大教授。
河出書房新社 2800円
(2012年1月10日 読売新聞)
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書評 岡井崇之
「現代の自己愛とは何か」
本書は、アメリカの心理学者トウェンギとキャンベルによって2009年に出版されたThe Narcissism
Epidemicの邦訳である。直訳すると「ナルシシズムの蔓延」とでもなるのだろうが、訳者は本文で「ナルシシズム流行病」としている。つまり、それらを病理としてとらえているのである。
日本でも時期を同じくして『現代のエスプリ』522号(ぎょうせい、2010年12月)でナルシシズムが特集されているし、また、2008年の秋葉原通り魔事件以降「他者からの承認」をテーマにした書籍の出版が続いているのは興味深い。
著者たちにとって、ナルシシズムとは「文化の影響を受けた心のあり方」であり、ナルシシズム流行病は「(アメリカ)文化全体に広がり、ナルシシストも、またあまり自己中心的でない人もその影響を受けている」という(8頁)。
日本でも、エッセー的なものから藤田省三の『全体主義の時代経験』(みすず書房、1995年)に収められている「ナルシズムからの脱却」(初出は
1983年)のような硬派な論考まで、自己愛的な時代状況を評した文献は多数あるが、著者はアメリカにおけるそういった類書と本書を次のような点で明確に線引きする。それは科学的データに基づくということと、ナルシシズムをめぐる俗説の検証も取り上げていることにおいてである。
自己愛性パーソナリティの事例として度々紹介されるのは、多重債務、経歴詐称、銃乱射事件、SNSでの自己呈示、パーティー文化、セレブリティなどである。確かにこれほどまでに事例を並べられると説得力がある。だが、それらの一つひとつが、本当にナルシシズムに起因するものなのか、ナルシシズムの症例として非難されるべきものなのかは、評者には疑問が残る。著者は「暴力、物質主義、他者への思いやりの不足、浅薄な価値観など、アメリカ人が自尊心を高めて食い止めようとしていることは、実のところすべてがナルシシズムに起因している」(16頁)とまで断言している。
評者などは心理学の門外漢ゆえ的を外しているかもしれないが、そもそも人間の本性は自己愛的であり、それが資本主義やメディア文化の進展のなかで担保され、さらには称揚されるようなったということではないかという解釈図式を取ってしまう。たとえば、フェイスブックで自己の経歴をアピールすることで、ビジネスのネットワークを構築することなどを取ってみても、置かれた環境のなかで個々人が行動を最適化するのはある意味、当然ではないかと思うからだ。
さて、新たな方法論を用いて文化としてのナルシシズムを検証しているだけでも本書は有意義なものだが、それ以外の点では1970年代以降に流行したナルシシズム論と本書との構造的違いが何だろうかというのが、評者が本書を手に取ったときに抱いた興味関心だ。
藤田がナルシシズムの特徴をいくつか挙げているなかで、「世界はそれ自体として存在する物ではなくて、消費されるためにだけ、そしてそれまでの間一時的に存在している仮の物に過ぎなくなる」(25頁)という論述は、現代でも検討されるべきだと評者は考えている。それは、ナルシシズムがもたらす一つひとつの弊害や、ある犯罪事件との関連というような次元の議論ではなく、ナルシシズムがもたらす世界像の変容を問うものであった。
本書は1部「自己愛病の診断」、2部「自己愛病の原因」、3部「自己愛病の症状」、4部「自己愛病の予後と治療」で構成され、全17章からなる。それぞれの部で、原因や症状として「物質主義」「見た目への依存」「虚栄心」「低年齢化」などさまざまな例が列挙されているが、そこでの通底奏音として全体を貫いているのは、メディア文化への不信ではないかと評者は読んだ。
度々「メディア漬け」という言葉が(悪意を込めて)使われることが示唆しているように、著者が1980年代以降の特徴とするのは、1980年代以降の雑誌やテレビでのセレブリティ言説、90年代以降のリアリティTV、2000年のインターネットでのSNSといったメディア文化が自己賛美の価値観を創りだしているとする点だ。
著者は、ナルシシズムを病理ととらえているため、その治療は可能だと言う。しかし、実のところ著者たちはその治癒について悲観的なのではないかと評者は読んだ。そこでは疾病モデルが有効であるとされるが、その最も効果的な治療法である隔離がこの文化的・メディア的な病理においては意味をなさないからだ。
ナルシシズムのグローバル化の議論も含め、著者たちの視座は多分に悲観的であり、アメリカ文化の影響力を過大にとらえているという印象もあるが、それは、そのようなことを例証するさまざまな事態をつぶさに見てきた著者たちの危機意識に由来するのだろう。本書からは「ナルシシズム流行病」の最先端を行くアメリカの症例を詳しく知ることができる。
■岡井崇之
(おかいたかゆき)
1974年、京都府生まれ。
上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士後期課程単位取得退学。東洋英和女学院大学国際社会学部専任講師。専門はメディア研究、文化社会学、社会情報学。メディア言説と社会や身体の変容をテーマに研究している。主著に、『レッスル・カルチャー』(風塵社、2010年、編著)、『プロセスが見えるメディア分析入門』(世界思想社、2009年、共編著)、『「男らしさ」の快楽』(勁草書房、2009年、共編著)など。